日本人はサービスやソフト、アドバイスなど、無形のものにカネを払わないという話をかつてはよく聞いた。

私はコンサルティング業界にいたので、そのような話をする人々が何人もいた。そして、その話を聞いた時には「そんなものか」と思っていた。

 

例えば、紙の書籍と電子書籍があって、同じ価格で売られていたらどう思うか?調査によれば、「それはおかしい」と思う人のほうがはるかに多いそうだ。

電子書籍の価格「紙の半額以下が妥当」71%―電子書籍の利用調査

 

中身が同じなのに、電子書籍の方が安く売られて当然と皆思っている。

得られるサービスがほとんど同じなのに、払っても良いと思う金額が違う

と言うのは、なんとも面白い話だ。

なぜこのようなことが起きるのか?電子書籍が安くて当然、と思う人が多い理由の多くは、「材料費や手間がかかっていないのだから、安くて当然」という感覚だ。

 

「手間をかけた料理」や、「手間をかけた工芸品」であれば、高いお金を出して買っても良いと思う。逆に、「簡単に作られたもの」「大量生産されたもの」には、良いものであってもお金を出さない。

カレーや、ハンバーグ、シチューなどの加工食品のキャッチフレーズに、「手間ひまかけた」というフレーズが多いのも、頷ける。味が変わらなければ、人は「手間ひまかけた」モノのほうを好む。

 

実は、この「モノの「価値」は、必ずしもその有用性だけでは決まらない。」は、初期の経済学の難問だったという。

水は有用だが通常は安価であり、宝石はさほど有用とはいえないが、非常に高価である。これは「価値のパラドックス」と呼ばれ、これを説明することは、初期の経済学の難問であった。(wikipedia)

 

経済学は、当初この問題を「希少性」という概念を持ち込んで説明した。

近代経済学(限界効用学派)では、全部効用と限界効用の区別により二者を消費面から統一的に説明することでこの問題を解決した。

マルクス経済学では、商品としての水(たとえばボトルウォーター)および宝石に費やされた労働量を比較して、「ペットボトルの水の原料は、どこでも手に入るし製品化するのにさして労働力も必要としないため、価格は低い。」「宝石は原料が希少で、原料の探査・採掘に膨大な労働力がかかり、しかも研磨して加工し、商品にするためにも密度の高い労働力を必要とするから価格が高い。」

と投下された抽象的人間労働の大小で価値の大小を説明し、生産面からこの問題を解決した。

しかし、如何に「希少」であっても、「欲しい」と思う人が少なければそのものに価値はない。たとえばある人が「空き缶のコレクション」をしていたとする。世界中のありとあらゆる空き缶を集めてくれば、「希少性」は生まれる。

が、その空き缶がいくらで売れるか?というと、これは「ほしい人がたくさんいれば高くなる」「欲しい人がいなければゴミ」ということだ。

 

「希少性」だけでは説明の付かないこの話、決着を付けたのは、現代ではよく知られる「需要と供給」という話である。すなわち、需要>供給 では価格は上がり、需要<供給 では価格が下がるというごく当たり前の話だ。

 

お客さんが「お金を出さない」と言うのは、単に「似たようなものがたくさんある」だとか、「そんなことできる人たくさんいるよ」と思っているからだ。

電子書籍の価格が低く見られるのは、「供給」が紙の本に比べて極めて簡単に思えるからだ。

お店がブランド米や、ブランド肉などの「原材料の希少性」を訴えるのは、「供給が限られているので価値がある」ということを知ってほしいからだ。

 

どうやら、人は手間に価値を感じる、は本当のようだ。