先日、人気マンガが実写映画化された『3月のライオン・前編』を観に行きました。

 

この映画のなかで、「育ての親」との対局で勝ってしまった主人公のプロ棋士・桐山五段が、やり場の無い罪悪感から(ふたりのあいだには、他の家族も巻き込んでの葛藤があるのです)、高校生にもかかわらず

「連れていかれたカラオケスナックで、目の前に置かれていた他の人(成人)のお酒を一気に空けてしまう」

というシーンがあるのです。

 

若気の至りというか、やり場のない鬱屈みたいなものを描くシーンとしては、ごく一般的なもので、僕はとくに気に留めなかったのですが、エンドロールをみていて、驚きました。

キャストやスタッフの名前が流れていくなかで、こんな文章が出てきたのです。(正確な文章は記憶していないのですが、こういう内容でした)

 

「未成年の飲酒は禁じられています。劇中で使用した飲みものに、実際はアルコールは入っていません」

 

僕はけっこう映画を観てきましたし、基本的にエンドロールは最後まで眺めるのですが、この「断り書き」は、初めてみたんですよ。

「出演している動物は、実際には傷つけていません」

「使用した食べ物は、このあとスタッフが美味しくいただきました」

というのは、いまではけっこう一般的になっていますし、動物の扱いに関しては、たしかに気にはなりますよね。

 

でも、この「未成年飲酒についての注意」には、なんだかちょっと違和感があったのです。

 

 

いや、未成年飲酒を推奨しているわけじゃないですよ。

劇中では「主人公の桐山五段の若気の至り」「やるせなくて、つい目の前のお酒をあおってしまった」というような描き方をされていて、「まあ、こういう心境のときって、あるよねえ」と僕も昔のことを思い出していたのです。

 

僕が大学生だった25年前くらいって、大学のサークルの飲み会などでは、「大学生になったのなら、まあよかろう」みたいな雰囲気でしたし、まだ、「新入生にはかなり強引に飲ませる」というような慣習が残っていました。

最近の学生に話をきいてみると、学園祭などのイベント時は(成人していても)アルコールは禁止で、部活の飲み会でも、未成年の飲酒は厳禁になっているそうです。

 

もちろん、それを「昔はよかった」なんて批判するつもりはありません。

無理に飲まされた1年生が急性アルコール中毒になり、救急外来に連れてこられる、なんてこともけっこうありましたし、他大学では「アルコールを無理に飲ませること」による死亡事故も起こりました。

 

ただ、選挙権が18歳以上になるのであれば、飲酒・喫煙も20歳にこだわる必要はないのでは、という気もします。

そもそも、20歳で成人、というのも、選挙権を得られる年齢の引き下げとともに、議論してみる余地はありそうです。

いまの世の中で、「アルコールを無理に飲ませてはいけないし、飲む必要はない」という合意がようやくできつつあることは、すごく良いことなんですけどね。

 

 解禁の年齢の話はさておき、僕が驚いたのは、たしかに未成年飲酒は違法だけれど、映画の中での演出としてなされたことに、ここまで「言い訳」をする必要があるのか、ということでした。

 

劇中では、別に「未成年飲酒を薦めている」ように描かれているわけじゃないんですよ。

たしかに、こういうシーンを見せられることによって、「やり場のない鬱屈を抱えた未成年は、アルコールに頼るものだ」という刷り込みがなされるリスクがある、と考える人もいるのかもしれませんが、それを言うなら、アクション映画やミステリでは、人がバンバン殺されるものが少なからずあるわけです。

それについて、いちいち「劇中ではたくさん人が殺されていますが、殺人は違法です。演じている役者たちは実際には死んでいません」と断るべきなのか?

未成年飲酒は「若者に悪影響がある」からダメだという判断なのか?

それとも、この「断り書き」は、過剰すぎる予防線なのか?

 

正直なところ、僕は「そこまでわざわざ『おことわり』しなくても、観客はわかってるよ……」と言いたくなったのです。

最近は喫煙のシーンに対しても、かなり厳しくなっていますよね。

 

 1週間ほど前にテレビのワイドショーで、立って子どもを背負い、子守りをしながら本を読んで勉強している「二宮金次郎像」が「子どもの歩きスマホを助長する」というクレームで撤去されたり、「座っている像」に替えられたりしている、というニュースを聞いたときも驚きました。

それは、子どもの判断力を、あまりにも低くみているのではないか、って。

 

映画のスタッフにしても学校関係者も、クレームをつけられないために、最新の注意をするべきだ、というのが、いまの一般的な考え方なのかもしれません。

でも、映画とかの「表現」って、そういう「人間が陥りがちな過ち」を、あえてそのまま描いてみせることが、ひとつの存在価値だと僕は思うのです。

二宮金次郎像にしても、伝えたいのは「立ったまま勉強しろ」ということではなくて、「キツい日常生活のなかでも、学ぶ姿勢を持ち続けたこと」のはずなのに。

 

こういう、演出の一面を槍玉にあげて、「フィクションですら、間違ったことをするのは許されない」というのは、「間違いかたがわからない」あるいは、「間違いすぎてしまう」人間を生み出すことになるのではないか、という気がするのです。

「真似をするかもしれない」と心配してしまう人の気持ちも、わからなくはないのだけれど。

 

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【著者プロフィール】

著者;fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

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(Photo:Tomono