ところで私は陶磁器が好きだ。
好きと言っても、別に詳しい訳ではない。全然ない。
製造工程も通りいっぺんにしか知らないし、ブランドも瀬戸焼と伊万里とマイセンとロイヤルコペンハーゲンと景徳鎮くらいしか知らない。自宅にずらっとローゼンタールの皿が並んでいる、という訳でも無論ない。
ただ、店先で綺麗な陶磁器を見つけると綺麗だなーと思って暫く眺めたり、時には陶磁器展に行って何時間かぼーっと陶器を眺めたり。
ふと町中で見つけた店で、色合いが気に入った陶器を見つけて、あれこれ悩んだ末に買って帰ったり、買わずに帰ったり。
そういう、子どもが綺麗な貝殻を「好き」というのと同じ類の「好き」だ。
たまーに旅先で、土産物屋に綺麗なお皿があると、しばらく眺める。たまに買う。
こういうのがあるので、私は土産物屋にふらっと入るのを楽しみにしている。琉球ガラスみたいなガラス器も好きなので、陶磁器を含む、食器一般が好きなのかも知れない。
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それは好きというのか、と言われたことがある。知人と会話したときのことだ。
会話の流れは正直よく覚えていないのだが、焼き物か何かについて話していた時に、ちらっと上記のような話をしたのだと思う。
陶器が好き?自分で焼いたりすんの?と彼は言った。
いや全然、と私は答えた。
ブランド集めたりすんの?アウガルテンとか、カルパネリとか。
いや全く、と私は答えた。ブランドは殆ど、知らん。陶磁器の知識とか、殆どない。ただ綺麗な陶器を探したり見るのが好きなんだ。
いや、好きっていうならもうちょっと詳しくなるもんなんじゃないの、と彼は言った。それは別に好きって程のもんじゃないんじゃないの、とも言った。
そうかなあ。そういうもんだろうか。
「好き」っていう言葉は、そんなにハードルが高いもんだろうか?
これだけであれば、別段なんてことない会話の一つに過ぎないのだが。実際のところ、「好き」という言葉に対して、妙に高いハードルを求められるところを観測することはかなり多い。
「好きっていうからには、これくらいのことは知っておいて欲しい、これくらいのことは抑えておいて欲しい」といった発言だ。
例えば、少し前のアニメの話で、こんなやり取りがあった。「アニメ好きっていうなら、何故これくらい知らないんだ」という意識の話だ。
男「俺、超アニメ好きだから酔っ払ったら超熱くアニメの事語る」→ただしまどマギは知らないと言う男について憶測が飛び交う
男「俺、超アニメ好きだからさ、酔っ払ったら超熱くアニメの事語ってみんな引かしちゃうだよね。」 女「へぇ~じゃあ、まどか★マギカとか知ってるんだ?」 男「それは知らない。」 あまりの衝撃に非常停止ボタン押しかけた。
これは私の言及も入っているが、「本屋が好きという人程、本を読んでない」というツイートを観測したこともある。
「本屋が好き!」って声高に言う人ほど、がっかりするくらい本を読んでないというか、カルマが足りないひとが多い現象。いい加減、どうにかなりませんかね。。ぼくが、世界に期待しなければ、それでいいのかな……。
ツイートをあげつらうことが目的ではないし、いわゆる「半可通批判」と判別しにくい部分もあるのでこまごまとは挙げないが、「好きっていうのにその程度なの?」という意識というか感覚は、かなり一般的に見られるような気がするのだ。
これは、時として知識量マウントと結びついて、言ってみれば「好き」という発言に対する抑圧として動作することがあると思う。
確かに、例えば「俺マニアなんだぜ、こんなに色々知ってるんだぜ」と主張している人が、実際には何も知らなかった、ということなら、それは批判されていいかも知れない。
だが、ただ「〇〇好き」といっただけで、それについてそこまで詳しくないというのが、そんなにあげつらわれるようなことなのか。
それはまるで、「好きと表明した」という罪に対する、罰のようだ。
一言で言ってしまうと、「好き」という言葉を発する時、求められるコストが妙に大きい。「好き」という言葉に対する期待値が妙に高い。
これは「好き」という言葉に対する感覚の問題なので、別にそれが悪いというつもりはないが、私自身は「何も考えずに〇〇が好きと言える世界」の方がずっと好きだ。
好き、という言葉を表明する時、何らかのハードルを求められる世界はとても息苦しい。好き、という言葉をめぐって、知識勝負でマウントを取り合うような世界は大変疲れる。
本当に、「なんとなく好き」という程度の好きでも、気軽に表明出来る世界であって欲しい。これが私の希望だ。
何故かというと、「好き」というのは世界を広げる言葉だから。
誰かが「〇〇が好き」という言葉から、他の誰かが〇〇に興味を持つかも知れない。何がいいんだ、と調べるかも知れないし、ほんの少し興味を持って〇〇を見たりするかも知れない。
「〇〇が好き」ということを明確に表明するところから、例えばその〇〇を作っている側の人にその言葉が届いて、何かの意欲になるかも知れない。
その「〇〇が好き」ということを表明した人自身、言ったからには、ということをスタート地点として、更に深くその〇〇に対して「好き」を深めていくかも知れない。
「好き」というのは、多分出口ではなく、入り口だと思うのだ。そこで終わりではなく、そこから始まる何か。
そこに対して、「〇〇好きならこんないいものもあるよ!こんなのもお勧めだよ!」と言ってもらうのは、いい。むしろいい。とてもいい。それは、世界を広げる行為の一つだ。
ただ、「〇〇好きなのにその程度のことも知らないの?それ〇〇好きっていうの?」と言うのは、少なくとも私は好きではない。それは、世界を狭める行為だ。入口を閉じる行為だ。
門戸は広い方がそのジャンルは発展する。ハードルは低い方が、皆が幸せになれるのではないか、と私は思う。
だから私は、多少コストを求められることがあったとしても、「なんとなく好き」程度のことであっても、なるべく「好き」を表明していこうと思う。
「好き」を表明するハードルが、全ての人に対して、可能な限り低いものでありますように。そんなことを考えながら、今日も「なんとなく好き」を発信する。
今日書きたいことはそれくらい。
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【プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
(Photo:matthew venn)