企業、特に株式会社の誕生から現在までの成功には眼を見張るものがある。

 

世界で最初の株式会社は1602年に設立された「オランダ東インド会社」であるが、以来、わずか400年でその力はすでに世界中に及び、経済活動の中心を担うまでになっている。

なお、時価総額世界No2のエクソン・モービルの年間売上は約50兆円、これは国家予算にすると、世界10位の国に相当する。

ということは、企業はすでに国と肩を並べるまでに大きくなっているとみなして良い。

 

また、規模だけではなく、企業はそこに暮らす人々の「社会的地位」を規定する。

「どちらにお勤めですか?」という質問がはばかられるのは、それが「地位・階級」を示す場合が多々あるからだ。

善かれ悪しかれ、自己紹介するときに「私は◯◯で職を得ています」と言う人は多い。

極端な話、外国人に自己紹介するとき、「私は◯◯人です」という紹介よりも、「◯◯に勤めています」のほうがわかりやすいことだってあるのだ。

 

企業は、生活の面倒を見るだけではなく、生きがいや、地位を与えるなど、人の人生に大きく関わるようになった。

 

 

さて、なぜこのように「企業という制度」は大成功したのだろう。

それは、企業という制度が、「人間の欲望を上手く扱うことに長けている」からだ。

人の様々な欲に対して、企業はそれを押さえつけること無く、社会のために役立たせようとする。

 

ピーター・ドラッカーは著作「企業とはなにか」でこう述べる。

政治の課題は、支配欲を抑制することでも克服することでもない。それは哲学者や聖人の問題である。政治の課題は、支配欲を社会的に最も建設的に発揮させることである(中略)

あらゆる支配欲の中で、利潤動機が社会的に優れたものであることは疑いない。利潤動機以外の支配欲では、直接的に人に支配を与え、人を支配する満足を与える。これに対し、利潤動機だけがものに対する支配力によってこの満足を与える。

経営者に「欲を捨てよ」などと言っても無駄である。好きなだけ金を稼げば良いのだ。そうすることによって、有能な人間が間違った野心を抱かずに済む。

むしろ、「金はいらない、純粋な権力や、人々からの承認が欲しい」という人物のほうがよっぽど危険である。

 

ドラッカーはこう続ける。

歴史上の極悪人たちが、守銭奴でなく清廉の氏であったことは偶然ではない。ロベスピエールもヒトラーも金では買収されなかった。貪欲さなどかけらもなかった。

しかし、それが人類にとってよかったわけではない。人に対する純粋の支配力以外に関心をもつものがなかったことは、彼らの非人間性を浮き彫りにしただけだった

有能な人間は社会からの承認を求め、自尊心を肥大させる。それらをコントロールすることに長けていたのが、「利潤動機」を活用する企業であったことは偶然ではない。

 

私の隣のデスクに座っている友人はいつもこう言っている。

「戦争も、経済活動も競争であることは本質的に変わらない。ただ、大きく違うのは戦争は 「どれだけ人を服従させたか」の競争であり、経済活動は「どれだけ人の役に立ったか」の競争であるということだ」

どちらを選ぶか?普通であれば当然後者だ。

Googleは創業時「悪をなさない(Don’t be evil)」というスローガンを持っていた。企業が悪になるのは、「支配欲」に負けた時に違いない。