十年ほど前に海外旅行した際、仕事を引退したばかりの団塊世代の男性の一団としばらく過ごす機会があり、過去の経験をあれこれ訊ねてみたことがあった。
訊ねられた彼らは、苦労話を交えつつ、あれこれの“武勇伝”や“成功体験”を語ってくれた。
過去を振り返るときの彼らの表情には、自信が感じられた。個人の経験談を語る時だけではなく、“昭和”や“高度経済成長”という時代を回想する時にも、似たような表情を浮かべていた。
ところが、ついさっきまで自信と誇りに満ち溢れていた男性が、一転、頼りない姿をみせてびっくりさせられる場面もあった。
奥さんや旅行添乗員には少し偉そうな男性が、外国人と相対する場面では奥さんに頼ってしまう場面などである。本当に自信に満ち溢れている人なら、場面や状況によってそこまで態度が変化するとは思えないのだが。
団塊世代の彼らは確かに自信が満ち溢れていた。
だが、その自信はどこまで当人に内在化した、“内側の自信”なのだろうか?
いや、なかには“内側の自信”を確かに持った団塊世代男性もいるのだろうけれど、そうではない“外側の自信”に頼っている男性も多いように私には見受けられた。
自信をアウトソーシング出来た団塊世代
この、“内側の自信”“外側の自信”という視点でみると、団塊世代というのは、自分の内側に自信を蓄積できなかったとしても、ある程度まで外側に自信をアウトソーシング出来た世代のようにみえて、少し羨ましく感じる。
少なくとも、いわゆる“ロスジェネ“世代以降に比べれば、それが容易だった世代ではないか。
例えば、終身雇用制、会社と一蓮托生の精神、“モーレツ社員”といった精神が生きていた時代には、個人の内側に自信を蓄積させなくとも、自分の所属する企業の業績が伸びていく限り、企業の誇りや自信をあたかも自分の一部のように体感しやすかったのではないか、ということだ。
かつての企業精神・企業風土のもとでは、社員の一人一人が
「東芝の自信は私の自信」
「トヨタの誇りは私の誇り」
と実感することが比較的容易だった。そうだったからこそ、当時の社員たちは厳しい残業にも耐えて、一蓮托生の精神で仕事に臨むことが出来たのではなかったか。
企業が社員に経済的に報いるだけでなく、“外側の自信”を提供しメンタル的にも報いることで、あの頃の企業はうまく歯車が回っていたように私にはみえる。
NHKの人気番組『プロジェクトX』で美談として取り上げられていたプロジェクトにも、そういった側面はあったろう。
誇れるようなプロジェクトに携わる者には、給料と一緒に、誇りが配られていた。
たとえ会社に所属してなくても“外側の自信”を獲得する機会はあった。
つまり、「高度経済成長という時代」「発展し続ける日本社会」から、ある程度の“外側の自信”を団塊世代は獲得できていた。
戦後しばらくの混乱期はともかく、高度経済成長期の日本は、所得が増え続け、電化製品が次々に普及し、科学技術もめざましい勢いで発展した。
東京オリンピックや大阪万博といったイベントも、発展する日本社会から“外側の自信”を与えられたと感じるには役に立っただろう。
社会のなかで相対的に貧しい境遇に置かれている人でさえ、成長する社会に“外側の自信”をアウトソーシングし、社会がきっと自分達に豊かさを保証してくれるとも信じられるなら、勤勉に、誇りをもちながら生きることが可能だったのではなかろうか。
自信のアウトソースはどんどん難しくなっている
ところがバブル景気崩壊後の世代では話が変わってくる。
まず、彼らには会社との蜜月関係が無いため、会社の自信をあたかも自分の一部のように感じ取る機会があまり無い。
会社と個人との関係が、疑似家族的なものからドライな契約関係に様変わりし、終身雇用制があてにならなくなるなかで、会社の看板や業績を“外側の自信”として体感するのは以前よりも難しくなってしまった。
しかも、この世代には派遣社員や契約社員といった非正規社員もたくさんいる。
一時的な雇用関係のなかで、たとえば「トヨタの誇りは私の誇り」などと思いこむのはほとんど不可能である。
日本社会そのものに“外側の自信”を委ねることも不可能になってしまった。
周辺国の躍進を尻目に、長らく日本社会は停滞し続け、人々に“外側の自信”をアウトソースできるような雰囲気はなくなってしまった。
リーマンショック以降、景気回復はそれなりに進んだけれども、その恩恵に与れる世代は限られている。
とりわけ、雇用に恵まれないまま歳を取り、生活水準もさして向上しなかった多くのロスジェネ世代は、現在の好景気を冷ややかな目で見ているだろうし、社会が自分たちを置いていってしまうと感じている人も多いだろう。
そのような状況のなかで、勤勉に誇りを持って生きろと言われたとしても、もはや“外側の自信”を社会に期待することはできはしない。
「自信の自己責任制度」についていけなかった人々
“外側の自信”を企業や日本社会にアウトソースできなくなって、すでに四半世紀近い時間が経った。
自信を外側にアウトソースできなくなれば、自分自身の内側に蓄積するしかない。いわば、「自信の自己責任制度」のはじまりである。
しかし、自分自身の内側に自信を蓄積するという、欧米では当たり前で健全とみなされているこのルールは、本当に誰にでもこなせるものなのだろうか?
私にはそれが疑問でならないが、ともあれ、自分の力で自信を勝ち得ることのできない個人には過酷な時代になったといえる。
現在の20代などは、そうした「自信の自己責任制度」を与件として育てられてきたから、それに見合った身構えができているかもしれない。
だが、ロスジェネ世代は“良い企業に入って良い仕事が得られれば幸せになれる”といった、高度経済成長期とあまり変わらない感覚のまま社会に出てしまったため、「自信の自己責任制度」に順応するのが遅れてしまった。
この世代の少なからぬ割合は、現在ですら、“内側の自信”を自分でつくっていく身構えができておらず、かといって、“外側の自信”を企業や社会から得ることもできないまま、やりきれない気持ちを忍ばせているように、私にはみえる。
団塊世代は戦後間もない頃に物質面で苦労しており、全面的に恵まれた世代だったわけではない。
しかし、自信のかなりの割合を共同体や社会にアウトソースでき、自信や誇りを体感しやすい社会的布置のなかで生きていられたという点では、やはり彼らは恵まれた世代だった。
対照的に、ロスジェネ世代は生まれた時から物質的には恵まれていたが、あてにできたはずの“外側の自信”を唐突に剥奪され「自信の自己責任制度」への急激な順応を余儀なくされたという点では恵まれない世代だった。
最近、「ロスジェネ世代のサバイバーは、自己責任論のシバキ主義が強い」という指摘を耳にすることがある。
ロスジェネ世代のサバイバーは、急激な時代の変化のなかで多くの同世代に競り勝ち、少ない椅子を奪ってサバイブしてきた人達だ。
そうした人々において、「自信の自己責任制度」への順応が反動的に大きくなるのは致し方のないことだろう。
時代の流れとともに、社会や企業だけでなく、個人それぞれの自信のありようは変わっていく。自信のかたちが変われば心象風景も変わり、社会のなかでの振る舞いも変わってこよう。
2018年の私達は、自信をコミュニティや社会にアウトソースすることが困難な社会的布置のなかを生きている。
団塊世代男性にみられたような“内側の自信”と“外側の自信”のギャップは、今後はなかなか見かけなくなっていくのだろう。
――『シロクマの屑籠』セレクション(2008年6月20日投稿) より
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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。
twitter:@twit_shirokuma ブログ:『シロクマの屑籠』
(Photo:Nessuno Resti Fuori)