前職、経営者との話題で、最も多かった事柄の一つが、「評価」に関するものだった。

 

それも、非常に細かい話だ。例えば

「彼女が、最近やる気を見せているのだが、どうしたら評価できるか」とか

「彼は成績がいいんだけど、どうも謙虚さに欠ける。どうしたらよいか」とか、そんな話である。

 

いや、冗談ではない。

本当にそういう話が、悩みのタネになっているのだ。

 

だが、駆け出しの頃の私には「評価は細部が重要だ」という彼らの気持ちはよくわからず、彼らがなぜ評価の些末な部分に拘泥するのか、ピンとこなかったことをよく覚えている。

 

ある時、私はある親しい経営者に聞いてみた。

「なぜそんなに、評価の細かい部分にこだわるのか」と。

 

私の不躾な質問に、その人は快く答えてくれた。

彼の言うことは、一言で言えば、

「公平感が何より重要だから」だった。

 

彼は言った。

「だって、「私は会社に良い影響を与えている」とう自負がある人からすれば、「人を嫌な気持ちにさせる人」と大して変わらない評価だったら、腹が立つだろ?」

 

うーむ……。

「職場の和」を重要視する人達からすれば、そういうものなのかもしれない。

 

だが、正直に言えば、当時私は、他人の評価や給与を気にしたことはなかった。

そこで、彼に言った。

「他の人の評価とか、いくらもらってるのかとか、あまり気にならないですけど……。」

 

が、その経営者は言った。

「そうそう、僕もそうだったよ。」

 

「じゃなんで……」

「でも、会社をはじめて、人を雇うようになってから、僕は「人の評価を気にしない」という人は、本当にごく少数だということがよくわかったんだ。」

 

「そうですかね?」

「人の噂、みんな大好きだよ。お金がらみの嫉妬は怖いよー。細かいところをちゃんと評価しないと、こっちに怒りの矛先が向くからね。」

「……」

「「評価はゼロサム・ゲーム」という考え方の人からすれば、「人の給料が増えれば、自分の給料が減る」と考えるのが当然なんじゃないかな。本当は違うんだけどね。」

 

私はそれ以来、給料や評価の話を、どのくらいの人が話題にしているか、あらゆる会社で、黙って観察した。

そして、彼の言ったとおり、普段平静を装っている人であっても、あらゆる場所で「あの人はこれだけもらってる」という話をする人が、本当に多いことにようやく気がつき、経営者の老獪ぶりに感心したものだった。

 

 

ところで、私は「評価」について観察を続けるうち、おかしなことに気づいた。

 

件の経営者は確かに「良い影響」と言っていた。

つまり、よくよく観察すると、多くの企業において「評価の低い人」は「成果があがっていない人」と同一ではない。

 

ほとんどの組織では「成果をあげてない」だけでは厳しい評価にはならない。

むしろ、成果と関係なく「周りに悪い影響を与えている」とみなされた人が、低い評価を受ける。

有り体に言えば、「和を乱す」とか「怠けている」といった具合だ。

 

これは、公式の調査資料にも現れている(参考:日本の雇用終了)

 

この事実に、私は戸惑った。

「和を乱す」はまだわかるにしても、そもそも会社員をしている以上、本当にサボったり、寝ていたりする「怠けている人」は、ごく僅かだからだ。

そもそも「誰が見ても、怠けている人」は、早々に会社をクビになるか、自発的に会社に来なくなる。

 

だから、多くの企業における「怠けている」は、辞書的な意味での「なまけている ≒ 何もしない」とは少し違うことにも気づいた。

 

実際、「周囲に不公平感を招く ≒ 怠けている」の具体的な例は、

「動いてない」

「考えていない」

「意見がない」

「積極性がない」

「使えない」

などの言葉で表現される。

 

だが、「使えない」と言われる人であっても、全く何もしていないわけではない。

会議に出たり、言われたことをこなしたり、少なくとも何かはしている。

 

では企業の中で彼らはなぜ「使えない」と、みなされてしまうのか。

 

 

例えば、私が観察していた会社に、サービス業の会社が一社あった。

ある日、そこでのやり取りが少し目に留まった。

 

上司:「競合とウチのサービスの比較資料を作って欲しい。」

部下:「何を比較すればよいですか?」

上司:「価格、内容、オプション、その他の項目は資料とホームページを見て加えて。」

部下:「誰向けのものですか?」

上司:「お客さん。」

部下:「資料ってどれですか?」

上司:「これ。(分厚いキングジムファイル)」

 

見た限り、価格の項目だけ調査するだけでも、結構大変そうだ。

おまけに、価格体系も各社が表示している条件が異なり、単純な比較ができない。

 

つまり、部下に課せられた仕事は、大まかには

・価格体系を統一して、比較しやすくすること。

・サービス内容をいくつかの項目に分割し、他社のサービスとウチのサービスの比較を可能にすること。

・オプションを類型化し、これも比較可能にすること。

・その他、資料全てに目を通し、ウチのサービスが優位な場所を見つけること、他社サービスの不都合な点を洗い出すこと

という作業だった。

 

ところが部下は先輩に

「どうしたら良いですか?」と聞いた。

 

先輩の顔には、明らかに?(クエスチョンマーク)が、浮かんでいる。

「どうしたら……というのは?」

部下は言った。

「何から手を付けるべきですかね?」

 

先輩はそこでようやく理解したようで、

「まず、比較する項目を決めたらいいんじゃないかな。」

と部下に返した。

 

すると、部下は言った。

「何を項目にすべきですか?」

先輩は苦笑した。

「それを頼んでるんだけど。」

 

「はあ……、そうですか……。」

 

上のような会話で「何をすべきですか?」という質問は、「私は考えたくない」と言っているのと同じ意味で捉えられてしまう。

したがって、先輩の「だから頼んでるんだろ」という反応は理解できる。

 

部下はまず、ある程度案を出して、先輩に諮ることが期待されているのだ。

だが、彼はそうしなかった。

だから、期待を裏切った彼の評価は低くなった。

 

こんなことが続き、期末に彼は

「考えていない」

「仕事しない」

「使えない」

という評価を受けるに至った。

 

 

「決める」というと、管理職・先輩たちの仕事だ、という方がいるかも知れないが、もちろんそんなことはない。

 

結局の所、知識労働においては「最初に決定するのは私」だ。

 

実際、ピーター・ドラッカーは、「意思決定はあらゆるレベルで重要なスキル」と言っている。

意思決定とはトップが行うものであり、トップが行う意思決定だけが重要であるかのごとき議論がある。大きな間違いである。組織としての意思決定はスペシャリストから現場の経営管理者まであらゆるレベルで行われている。

知識を基盤とする組織では、それぞれの意思決定が重要な意味をもつ。知識労働者とは、自らの専門分野、例えば税務については他の誰よりも知っているべき者であり、その意思決定は組織全体に大きな影響を与えるはずのものである。

したがって意思決定の能力は、組織のいかなるレベルにおいても、致命的に重要なスキルであるといわなければならない。知識を基盤とする組織では、このことを周知させておくことが特に重要である

 

仕事があったら、とにかく仮説や自分のやり方を「決め」て、それを上に諮り、検証してもらわなくてはならない。

「決められない」

「考えられない」

「わからない」

という言葉は、極力使わない。

いや、使えない。

それが「無能」と認識されないための処世術であることを、私はあらゆる会社で見出すことができた。

 

 

だから「決定」は、一種のスキルだというドラッカーの視点にたてば、「スキルの欠如」こそが、真の問題であると言える。

だが、スキルが不足しているのは「部下」だけではない。

実は「先輩」の側も、同様だ。

 

スタンフォード大学の組織行動学教授のチップ・ハースは、著書「スイッチ!」の中で、「動かない人」を動かすために、3つの解決策を与えている。

 

1.抵抗しているように見えても、実は戸惑っている場合が多い。したがって、とびきり明確な指示を与えよう。

2.怠けているように見えても、実は疲れきっている場合が多い。集中力は消耗資源である。

3.人間の問題に見えても、実は環境の問題であることが多い。相手の人間性に、問題の原因を帰属させてはならない。

 

これに基づけば、先輩は3つの誤りを犯している。

 

1.戸惑っている部下に対して、先輩は明確な指示を与えていない。

2.部下は他の仕事が忙しく、新しい頼みごとを受け入れられない状態かもしれないが、先輩はそれを確かめていない。

3.部下は「自分で決定してなにかやる」ことで過去に怒られたり、叱られたりしたことがあるかもしれない。「どんな感じでもいいから、まずは思ったとおりやっていいよ」などの声掛けが必要かもしれない。

 

要するに、先輩は、もう少し「人を動かすスキル」を身に着けたほうが良い。

「よろしく」で仕事が進む組織なんて、世界中のどこにもないのだ。

 

一方で「部下」の側も、「何かを言われない限り、やらない」という状況を改善しないと、遅かれ早かれ、この組織では生きていけないだろう。

仕事で評価される、ということは「依頼者の期待以上のことをやる」ことと、ほぼ同じ意味だからだ。

 

 

だがもちろん「期待以上のこと」を自発的にやった結果、

「余計なことをするな」

「なんで聞かなかったんだ」

「そんなことをやる必要はない」

と言われてしまうこともある。

(参考記事:こうして人は「指示待ち族」になる。

 

しかもそうして失敗すると、普段よりも深い後悔が待っている。

 

事実、行動経済学の権威であるダニエル・カーネマンは、著書「ファスト&スロー」の中で、

人は、普段とは違う行動をとって失敗するとより深く後悔する。したがって、人々は保守的なリスク回避的選択をしがちである。

という見解を紹介している。

 

期待以上のことをやる、という決定は、常にリスクを伴う。

だから、リスクをとることを嫌い、「言われたことだけやろう」という会社員は必然的に増える。

 

しかし、リターンは、リスクと表裏一体。

過度のリスク回避志向は、経営者や幹部の目には「やる気の無さ」に映るだろう。

(出典:賭博黙示録カイジ5巻)

ピーター・ドラッカーは次のように言っている。

知識労働者は意思決定をしなければならない。命令に従って行動すればよいというわけにはいかない。

自らの貢献について責任を負わなければならない。

自らが責任を負うものについては、自らの知識によってほかの誰よりも適切に意思決定をしなければならない。

 

時には、せっかくの意思決定が認められないことがあるかもしれない。

降格されたり、解雇されたりすることがあるかもしれない。

だがその仕事をしているかぎり、目標や基準や貢献は自らの手の中にある。

自分で「決定する」人だけが、何かを掴むことができる、というのは、いつの世でも変わらぬ本質なのだろう。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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