先月末、Books&Appsにおいて、高須賀さんが、老害について以下のようなことを書いてらっしゃった。
老害的立ち振舞いだって、本当の本当にやりたくないのならやらないはずだ。
が、それでもやってるという事はだ。人に老害願望があるというのは理にかなっている。
「老害とは、ある種の人間の理想が行き着いた先なのではないか…」
その着眼点にたどり着けた事で、僕はようやく老害の本質が理解できた。
老害とは、他人の目をうかがわなくてよくなった、人間の行きつく先なのだ。
老害といわれる人は、他人の目を気にしない、というよりもできない。
考えについてもそうで、同じ考えの人と付和雷同することはできても、自分と異なる考えの人と議論するのは難しい。そもそも、異なった考えの人がいることを意識し、受け入れること自体も難しい。
そして自分の常識、自分の経験を他人に押し付け、それが否定されると憤激する。
こう書くとネガティブな人物像を思い浮かべる人も多いかもしれない。
が、こういった意味の老害に相当する人は、実のところ、どこにでもいるのではないだろうか。
たとえば都市部では待機児童問題が解決しきっておらず、子育てに困っている若い家族がいる。
その一方で、保育園はうるさい、子どもはうるさいと主張する人々もいる。
あるいは、いまどきのジェンダー感覚についていけないまま、昭和の「男かくあるべし」「女かくあるべし」に固執し、それを若い世代に押し付け、さも当然という顔をしている人々もまだまだいる。
インターネットでも似たようなものだ。
特定の思想信条や価値観に固執する人が、異なる価値観の人に自説を押し付け、それが否定されると憎悪するのはインターネットの日常風景である。
自分とは異なる考えの人を認めることができず、自分の考えに固執し、他人を組み敷くことしか考えられなくなっている点では、より若いSNSアカウントの人々も老害と同じようなものだ。
少なくとも彼らを「老害的」ということは可能だし、あと十年か二十年もすれば実態に実年齢が伴って、老害そのものにもなろう。
老害という言葉からは中年~高齢者をイメージしやすいだろうが、老害ムーブというか、同じような態度をとる人は若い人にも珍しくないのである。
冒頭で高須賀さんは”「実は私達は誰もが老害になりたい」という願望を持っている”と述べていた。
とはいえ「私は老害になんてなりたくない」と思っている人ももちろんいるだろう。
だが私が思うに、それでも私たちは「老害になりたかった人たちの願い」に囲まれて暮らしているのではないだろうか。
言い換えると、私たちは「老害になりたい人が簡単に老害になれる社会」を生きているのではないだろうか。
「老害製造装置」としてのニュータウン、タワーマンション
「老害になりたい人が簡単に老害になれる社会」について述べよう。
いまどきの生活環境は、老害が老害然として生きていくのに適したアーキテクチャを提供している、と私は思う。
たとえばニュータウンやタワーマンション、ワンルームマンションでの生活について思い出してみてほしい。
そういった生活環境は、自分の好きなことを考え、自分の好きなように生きる自由を保障してくれる。
地域の町内会から干渉されることも、誰かに「おまえの家庭の暮らしかたはおかしい」と指摘される心配もない。
そのような指摘を受ける可能性があるとしたら、ゴミ出しの分別がきちんとしていない場合や、生活そのものが破綻しゴミ屋敷のような状態になってしまった時ぐらいだろう。
逆に言うと、ゴミ出しの分別ができ、生活が破綻してさえいなければ、他人から「お前はおかしい」と指摘される可能性はほとんどない。
移動の自由が乏しく、地域共同体での付き合いがついてまわった時代には、自分と異なる考えの持ち主とコミュニケーションしないわけにはいかなかった。
嫌な相手とも付き合わなければならなかったし、避けたい話題・避けたい場面でも会話せざるを得ないことがあった。
そうやって色々なコミュニケーションの接点を持たなければ生きていくことすら難しかったのが昭和以前の、地域共同体的な生活環境だった。
しかし今は違う。
たとえば地元の商店街の精肉店のオヤジが嫌いな政党の支持者だからといって、嫌々付き合わなければならない道理はない。
精肉店のオヤジが気に入らないことを言っていると思ったら、翌日からはその精肉店に立ち寄らず、スーパーマーケットで肉を買えば良いだけである。
こんな具合に、いまどきのニュータウンやタワーマンションやワンルームマンションに暮らしている限り、私たちは自分の好きな考えのままに生き、自分の考えに一致しない相手と離れて生きられるのだ。
自分の考えのままに生き、自分の考えに一致しない相手と離れて生きていれば、その人が自分の考えに固執するようになり、自分の考えとは異なる人に不慣れになっていき、考えの異なる人への違和感や不快感が高まっていくのは自然なことではないだろうか。
だから私は思うのだ、高須賀さんがおっしゃる
「他人の目をうかがわなくてよくなった、人間の行きつく先としての老害」
は、実はいまどきの生活環境によって保障され、つくられているのではないか──と。
私生活の領域で他人の干渉を受けず、自分の好きなように暮らせることは、しがらみに満ちた日々を過ごしていた昭和世代にとって大きな夢だったのではないかと思う。
その夢を実現させるためにたくさんの人が努力し、人々はこぞって郊外のニュータウンやタワーマンションに住まいを求めた。
昭和世代の夢は、そうした生活環境にまさに結実している。
しかし、いざ、無干渉で好きなように暮らせる生活環境が実現してみると、好きなように暮らせるからこそ、自分の考えと異なる人と付き合わなくて済むからこそ、私たちは気を抜くとたちまち老害化してしまう。
仕事があり、外部の人間と望まないコミュニケーションもやってのけなければならないうちはまだマシだが、仕事をやらなくなり、望まないコミュニケーションをしなくて済むようになったら、唯我独尊の老害を避けられないのではないだろうか。
SNSにしてもそうだ。SNSは付き合いたい相手と付き合い、付き合いたくない相手とは付き合わなくするためのツールだ。
同じ意見に付和雷同し、異なる意見はブロックするか、仲間と一緒になって「あの意見はおかしい」とけなす。
そんな情報環境に溺れている限り、老害化が防げるとは思えない。
現在のSNSをご覧になっている人なら、そのことが直感的にわかるはずである。
私たちはコミュニケーションしないで生きているのも同然
さきほど私は、仕事をやっている人はまだマシだと書いた。
が、仕事をしていれば老害化しないかといったら、そうとも限らないことを付け加えておく。
さまざまな職種や立場の人と出会い、違和感を越えてコミュニケーションを成立させなければならない仕事なら、他人の考えを尊重しつつ、自分の考えとつじつま合わせをすることだってあるだろう。
そういう仕事をしている人なら老害化せずに済ませられそうではある。
だが、そうでない仕事だってたくさんある。
直接人と会話しないタイプの仕事、機械やモノの相手をするのが専らで、たまに同業者とぽつぽつコミュニケーションするぐらいの仕事だったら、他人の目を気にすることも、他人の考えを尊重することも、最小限で済んでしまう。
サービス業の最前線に立っていてさえ、他人と考えをまじえる接点がほとんどゼロで済ませられることがままある。
たとえば都心のコンビニで働いている人は売買についてコミュニケーションすることはあっても、売買以外についてコミュニケーションすることはない。
店内でトラブルが起こって対応せざるを得ない場合でも、それは売買も含めた社会契約から逸脱した出来事として対応するのであって、トラブルを起こした相手とわかりあったり、自分の考えと辻褄合わせをしたりするわけではない。
私は、いまどきのコミュニケーションについて拙著のなかでこんなことを書いた。
視点を変えて考えるなら、現代人は双方の合意に基づいて、お互いに都合の良いコミュニケーションをしていると同時に、用途や場面、媒介物にふさわしくない部分についてはコミュニケーションしないで済ませている、とも言える。
私たちは双方に都合の良い、社会契約にも妥当するコミュニケーションに徹することによって、そうでないコミュニケーションを日常から排除し、キャラクターや役割やアバターには回収しきれない、お互いの多面性を知らないで済ませようとしている。
これは、コミュニケーションであると同時に、一種のディスコミュニケーションでもあるのではないか?
コンビニ店員と売買する時、私たちは商品やお金を媒介物としたコミュニケーションをやっているとは言える。
だが同時に、商品やお金を媒介物としたコミュニケーション以外はやらないことにもしている。
たとえば客からコンビニ店員にプライベートな話題を持ちかけるのはルールに反していると考えているから、事実上、コンビニ店員は客とコミュニケーションしなくて済むことになっている。
これは、21世紀の感覚では至極当たり前のコミュニケーションではあるのだけど、昭和以前の、地域共同体に根差した売買はこのようなものではなかった。
客と店員は、商品やお金以外についてもコミュニケーションしていたし、地域の付き合いのコンテキストが売買に影響を与えることも珍しくなかった(たとえば「値引き」や「ツケ」、「義理のために買う」など)。
昭和以前に比べると、私たちは圧倒的にお互いのことを知り合わないで済ませたまま、売買を済ませることができる。
こうやって考えてみると、2020年の私たちはコミュニケーションしないで非常に多くのことを済ませられるようになっているわけである。
売買を売買として、仕事を仕事として、レジャーをレジャーとして、そうやって目的に特化したコミュニケーションを行い、お互いのことをむやみに知り合わなくて済むようになった結果、私たちは無用のストレスやしがらみからも解放され、誰かから「お前はおかしい」と言われてしまう懸念もほとんどなくなった。
もちろんそれは基本的に望ましい変化だったに違いない。
そのかわり、私たちは唯我独尊に陥りやすく、自分とは異なった考えを持った人にストレスを感じやすく、油断すればたちまち老害化してしまうような、そんな21世紀を生きている。
このような社会環境のなかで老害化せずに済ませるのはいかにも難しい。
自分と異なった考えに触れる場面がこれほど少なくなった社会のなかで老害化しないようにしようと思ったら、意図的な努力が必要になるのではないだろうか。
高須賀さんがおっしゃるように、結果として私たちは老害化を望んでいるのだと思う。
だからこそ、生活環境もコミュニケーションのルールもそれに即したものへと発展してきた。このような状況のなかでは、案外、老害に居直ってしまったほうが生きやすいのかもしれないし、そうしたいと願う個人に文句を言う権利は誰にもあるまい。
でも、本当にそれで良いのだろうか。
本当にこれで良かったのだろうか。
そういう疑問は尽きない。
だから私は、老害になれてしまう街や社会環境について、もっとよく調べてみたいと思っている。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
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