ポケット・ティッシュを受け取る

雨降る帰り道、おれはずったらずったら傘をさして歩いている。

石川町駅南口のあたり、ダンボールから一つのポケットティッシュを持ち出した男、おれの前に立ちはだかる。

ほとんど道を遮るように、正面からおれにポケット・ティッシュを差し出す。

 

おれはポケット・ティッシュを一つ受け取る。

 

街なかでポケット・ティッシュを配られることは、いつ以来だったかな? と思う。

新型コロナウイルスの流行がはじまってから、何ヶ月も受け取っていなかったんじゃないかと思う。

 

人々が街を歩かなくなる。ポケット・ティッシュを配ろうにも配れない。

おれもあまり街を歩かない。ポケット・ティッシュを配られない。

たぶんポケット・ティッシュの広告主も、「人が歩いてないんだから、配ろうにも配れないよな」とか思っていたことだろう。

 

ああ、実に、久しぶりじゃあないか。

……と、いっても、ポケット・ティッシュ経由でコロナが感染する可能性というのもあるはずわけで、感動している場合ではないのかもしれないのだが。

 

あの日のポケット・ティッシュの話

中学校のころの生物の教師が言ったことを覚えている。

「自分はポケット・ティッシュを配るアルバイトをしていたことがあるが、受け取ってもらえるとすごく嬉しいものだが、受け取られないとひどく悲しい。自分はポケット・ティッシュ配りに会うと、かならず受け取るようにしている」と。

 

おれはその話を聞いて以来、「ポケット・ティッシュを配る人がいたら、かならず受け取るようにしよう」と心に決めた。

それが倫理的に正しいような気がしたからだ。倫理と呼べるかどうかしらない。

人間と人間が相対するとき、ポケット・ティッシュを配る人に対して、ポケット・ティッシュを受け取るほうがよいのではない、そう思ったのだ。

 

同じころ、一方で父からこのような問いかけをされた。

 

「街角で配っているポケット・ティッシュを受け取ることは善か悪か?」

 

おれはそれに答えたかどうか覚えていない。

おそらく、父が一方的に答えまで言ったのであろう。

そして、その元ネタはたぶん吉本隆明だったことだろう。

「ポケット・ティッシュを生産することによって環境にとって悪いこともあるだろう。しかし、ティッシュの原料がリサイクルによるものであったら悪くないかもしれない。配る人にとっては労働者としてノルマを達成することによって受け取ったほうがいいかもしれない。しかし、配る人にとってそれをこなすことがよい労働環境になるのだろうか。あるいは、ポケット・ティッシュを作る過程において、労働者は望ましい状況に置かれているのだろうか? そこに悪はないか。善とはなにか、悪とはなにか?

ずいぶんと、ややこしい話にしてくれた。

おれは、街角でポケット・ティッシュを配る人がいたら、積極的に受け取っていた。

それについて善であるか、悪であるかとは考えたことながかった。

 

無理やりポケット・ティッシュ配りからむしり取ることはないにせよ、差し出されたそれについては受け取っていた。

しかし、それが善であるか、悪であるか、そこまで考えたことはない。

 

ヨガ・ティッシュ

それ以来、おれは街角のポケット・ティッシュ配りについて、受け取るたびに疑問に思う。

 

たとえば昨今、コロナ禍のいま、ポケット・ティッシュ配りはどうなのか。

ひょっとしたら、感染した手で配っているのかもしれない。そうではないのかもしれない。

それでも差し出すのだから、おれは受け取る。

 

受け取って、なんの宣伝かとポケット・ティッシュを見たりする。

たとえばヨガ・スタジオのチラシが挟まってるとする。

秋の入会キャペーンで10月31日まで先着120名が入会金無料になっているとする。

 

ヨガ・スタジオは感染源になりかねないかと苦慮していることだろう。

とはいえ、おれはヨガ・マットを買って毎日「ねじりプランク」をしているが、ヨガ・スタジオに通うことは考えていない。

 

でも、なにかの天啓があって、「ヨガ・スタジオに通わねば」と思う可能性がゼロとはいえない。

そこで、ポケット・ティッシュのヨガ・スタジオに通おうとする可能性はセロではない。

限りなくゼロに近いとしても。

 

それにしても、おれが街角で配られているヨガ・スタジオのチラシが挟まったポケット・ティッシュを受け取ることが善なのか、悪なのか、それについては考えが尽きない。

中学生のころからの宿痾のようなものだ。

 

配り手にとってみれば、一個はけたことは喜ばしいことかもしれない。

一方で、ポケット・ティッシュ一個に消費される原料からすると、地球環境にとって悪いことかもしれない。

でも、万が一のことを考えれば、コロナ禍のヨガ・スタジオにとって悪くない話かもしれない。

 

この世はこんなものだ。

善と悪が入り混じる。そして、そもそも善も悪もその正体がわかったものではない。

ポケット・ティッシュを配る人にとって受け取る人は善かもしれないが、その製造過程においては地球への悪やもしれぬ。

ここが難しい。

 

この難しさに対して正答というものはないのではないか、とおれは逃げてしまう。

人間のすること、すなわち人と人との間におこること、そこにはあまりにも多くの善や悪が積み重なってしまう。

積み重なった結果も見る立場によって違ってくる。

 

この世を構成するいろいろのもの

この世のある事象については、あまりにも多くの要素が含まれている。

単純に正や邪、あるいは善と悪が決められるものではない。

つきつめてその要素を掘り下げたところで、見る過程、あるいは立場によって異なる結果が出ることもあるだろう。

 

そこに、ある一つの見方によって判断するべき理由があるだろうか。

おれには「無い」という答えしかない。

ポケット・ティッシュを受け取るか、受け取らないかに、正解は、無い。

 

正解は無い、という態度は軟弱だろうか。そうでもないだろうか。

おれはあえて、「正解は無い」という態度をとりたい。

この世を構成するものは、いずれも複雑怪奇な因果によって成り立っていて、単純に断ずることができない。おれはそう思う。

 

街角で配られているポケット・ティッシュ一つについてそうなのだから、世間のあらゆる問題についても、そうなのであろうと思う。

いろいろの要素が絡み合い、絡まったままで、おまえの前に出てくる。

べつに、善悪の判断をする必要はない。おれはそのように思う。

「判断できないことを、判断しない」のなにが悪いのか。気にすることはない。

 

おまえがポケット・ティッシュを受け取るも受け取らないのも自由だ

おまえがポケット・ティッシュを受け取るも自由だ。

生物の教師は、ポケット・ティッシュを配るアルバイトの立場から心情に訴えた。

おれはそれに応えた。いまでも応えている。

 

一方で、おれの父は、ポケット・ティッシュ一つについてさまざまな立場と価値判断があると教えた。

それも一つの考え方だ。

 

おれはおれの心情によって、常にポケット・ティッシュを差し出されたら、それを受け取るようにしている。

それはおれの、ある種の思い上がった慈悲心といえる。倫理とまでいえるかどうかはしらない。

ただ、そこでポケット・ティッシュを差し出した人にとって、受け取るか受け取られないかは大きな違いのように感じる。

 

おれはポケット・ティッシュを配ったことがない。

ヨガ・スタジオのチラシが差し込まれたポケット・ティッシュを、道行く顔も名も知らぬ人に配ったことがない。

受け取られればうれしいだろうし、無視されたら空しいと思うことは想像できる。

 

だから、おれはポケット・ティッシュを受け取ることにしている。

ポケット・ティッシュはなにかの役にたつこともあるだろう。

口元を拭いたり、机を拭いたり。

 

一方で、ポケット・ティッシュに関わる事柄をすべて勘案して、「受け取らないことが正しい」という結論に至る人もいるだろう。

受け取らないことによって、たとえば環境に対する是正、労働環境に対する是正を促す。それはそれで一つの判断だろう。

おれのような無能にとって、それが正しいかどうかわからない。でも、それも「あり」なのだ。

 

問題はどこに

問題はどこにあるのだろうか。

いや、道を歩いていて、ポケット・ティッシュを差し出されること、そのものが問題なのだ。

それを問題として考えること、それが重要なんじゃないのか。重要とすればおおごとすぎる。

それにしても、そこに幾重のも問題が含まれている。

 

この世のあらゆることは、幾重もの要素によって成り立っている。

とくに政治や思想は、あまりにも多くの要素によって成り立っている。

その要素の絡み合いを解くのは用意ではない。おれはそう思う。

なにせおれは街角で配られるポケット・ティッシュ一つについてそう考えるからだ。

 

しかし、その考えを手放すべきではないと思う。

ポケット・ティッシュの配り手にとって、受け取ったほうが良い、というだけで済ませてはならない。そう考える。

そう考えた上ではたしてポケット・ティッシュを受け取るべきだったのかどうか、善悪、正邪を考えたりする。

 

おれは余計なことを考えすぎているのだろうか。

そうといえばそうだろうし、考えが足りないといえば、それもそうだろう。

しかし、おれは考えていたい。考えるべきだと思う。

 

その先に正解があろうが、不正解があろうが、それはわからない。

ただ、考えてみること、単純そうに見えることから、いろいろの立場に思い巡らせること、それを放棄することは……面白くない。

 

面白い、面白くない? 凡人、そんなことでいいだろう。

そんなところでいいだろう。

ともかく、「考え」の渦に自らを投じてみること。それだけでいいし、それだけで精一杯だ。

 

その先に、たとえば諸行無常という言葉と結び付けたりするのもいいだろう。

べつに結び付けなくてもいいだろう。

自分のなすことについて、とりあえず考える、それでいいだろう。

 

この世の事象

この世はあらゆる事象が絡み合って、見る立場によって、望むべき姿によってある事柄の価値が変わってくる。

それがおれとあんたとで違うこともあるだろう。正反対のこともあるだろう。

 

だから、なんだっていうんだ。おれはそれについて考えたし、あんたも考えたかもしれない。

結果が違っても、まあそれは仕方ない。

おれやあんたの間のことについては、べつになんのこともないだろう。

 

いや、あんたが政権中枢にいる人間だとしたら話はべつだが、あんたが大したことある立場の人間である可能性は低い。

言うまでもないが、おれは大した立場でもない。

 

だから言う、ちょっと考えてみよう。偉そうだな。ちょっと考えてみてもいいんじゃないのか。

たとえば、街角で配れているポケット・ティッシュ一つについて。

そこからでも、考えられることもあるだろう。

 

この世を生きるに、考えられることを考えるのがすべてだ。

すべてではない? そうかもしれない。

しかし、おれは考えたいと思う。考えることに金は必要ない。ちょっとの時間があればそれでいい。

考えた結果、なにが得られるか? 得られるものなんてありはしない。

 

それでも考えるということ、そのものになんの意味もないのか? たぶん、意味はあるだろう。

しょせん、人生は暇つぶしにすぎない。

暇をつぶすのに、考え事をするのが悪いことか。

良いこととも言えないが、悪くはないんじゃないのか。

 

べつにあんたに考えることを強いない。

おれも考えないこともある。

そのほうが多いかもしれない。

それでも、なにか考えること、想像することはやめない。

 

すべては関係の中でしか生じない

で、そういった事柄をさらに考えていくとどうなるのか。

いささか抹香臭い話になるが、あらゆる物事は関係の中でしか存在しえない、ということになりはしないだろうか。

「これ」というものがあって、「これ」があるのではなく、なにかにとっての「これ」が「このようである」と、仮初の定義がなされる。そういうものじゃないだろうか。

 

おれはこのことを書くのに、いささかというか、かなり気後れする。

しかし、書いてしまえば、諸行無常であり、諸法無我ということだ。あらゆる事柄はそれ単体では成り立たない。

ポケット・ティッシュ一つについてもそうだし、「おれ」という存在がおれであるということについてもそうだろう。

 

ポケット・ティッシュ一つですら、それを企画する人、それを作る人、それを配る人……いろいろの立場からそれぞれに関与して、それぞれの形のようなものになる。

受け取る人、としておれが関わることもあるだろう。

受け取って、バッグの中で押しつぶされたそれが、たくさんある、ということにもなるだろう。

ポケット・ティッシュは曖昧な価値に左右される、曖昧な存在にすぎないのではないか。

 

ポケット・ティッシュ一つが曖昧な存在であるとすれば、おれという個人も曖昧な存在にすぎない。

自己というものすら、ひどく曖昧なものである。

それを形作るのは、他者との関係性の中にのみよって生じる。

他者と関係しない人は、関係しないということによって生じる。……生じていると言えるのか?

おれにはまだよくわからない。

 

ただし、この世の一つ一つ、ポケット・ティッシュ一つから、おれという個人というものまで一気通貫して解釈できることがあるとすれば、関係性によってしか生じない、ということになるのではないか。

 

おれがおれであることは、「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」、「因果交流電燈のひとつの青い照明です」(宮沢賢治『春と修羅』)というていどによって、定められた、いや、仮定された存在にすぎない。

そう考えたら、おれはインドラの網の、一つの宝珠なのかもしれない。

宝珠というといささかマシな話のように思えるが、単純になにかを反射して、その反射(≒関係性?)によって成り立っているだけにすぎない。

 

多によってすなわち一となり、一であることがすなわち多を形作る。

一即多、多即一とはこのようなものだろうか。……ぜんぜん違うかもしれない。

 

しかし、そもそも関係というものがなければありえない一つのものが、逆に他のものを反射する多になるやもしれぬ。

その相互の関係がこの世を形作っている。宇宙とはそのように成り立っている。

「それ」というものはなく、関係性によってしか成り立たぬ。

おれはポケット・ティッシュからそんなことを考える。

 

おれはこう考える。あんたはどうだろうか。

おれにはまだまだよくわからないところがあるが、関係主義とかいうものに納得いくところもある。

しかし、納得できないこの自我というものの始末に困っているところもある。

 

とりあえず、おれは街角でポケット・ティッシュを差し出されたら、それを受け取るようにしている。

その結果、バッグの中で潰れたポケット・ティッシュがたくさんあるという事態についても、困っているところでもある。

 

 

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安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
著書『頭のいい人が話す前に考えていること』(ダイヤモンド社)は累計82万部突破。2023年・2024年と2年連続で“日本一売れたビジネス書”に(トーハン/日販調べ)。
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(2025/6/2更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

 

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