人間の悪意に絶望するのこと
ある建築会社が手がけたアパートの階段が壊れて、人が亡くなったというニュースがあった。
さらにその会社が同じような手抜き建築でつくったアパートなどが二百件超あるという。
おれはそのニュースを読んで、とても嫌な気持ちになった。
おれは自分のソーシャル・ブックマーク・サービスに、次のようなメモを残した。
「殺人事件のニュースなんかより、こういう話のほうが人間の悪意に絶望して、すべてが嫌になってしまう。」
言いすぎじゃないかと思う。自分でもそう思う。
だいたい、どんな殺人事件と比べているんだ。そういう話になる。
もちろん殺人事件には殺された人という取り返しのつかない存在があって、その人を永遠に失う家族や友人たちだっているだろう。
もちろん、一度にたくさんの人を殺すような事件もあるし、許しがたいような動機の事件もある。
それでもなお、なにか、おれには欠陥住宅をつくりつづけて、金を稼いできた人間がいることの方にうんざりしてしまう。
その悪意に絶望してしまう。この世がいやになってしまう。
あくまでこれはおれの直感というか、お気持ちにすぎない。
論理的に、法的により悪だという説明はつかない。むろん、おれの身近で殺人があったわけでもない。
あったらもちろんこんなことは書けないだろう。
しかし、そうではないので、おれは反射的にそう思ってしまったのだ。
悪で食っていくということ
その建設会社の人間は、アパートの階段が崩れてしまうような建築をして、どれだけ儲けてきたのだろうか。
本件では事故があって破産したという話だが。
ものすごい富を築いてきたのだろうか。
そうかもしれないし、そうでもないような気がする。それはわからない。
だから、個別の、特定の例ではなく、そういう事柄のひとつとして話をすすめる。
で、むしろ、といってはなんだが、それで普通の稼ぎをしてきて、平均的な暮らしをしてきた、という方が怖いような気もしてしまうのだ。
悪徳企業が、欠陥建築で悪どい金を稼いでたくさんの富を築いた。
絵に描いたような悪者ではある。むしろ、そうであった方がわかりやすい。
だが、もしも、それほどの稼ぎもなかったのだったら?
そう考えた方が、おれにはちょっと怖い。
普通の暮らしをしているような人間が、他人が死んでしまうような仕事をして生きている。
そうやって生きることが当たり前になっている。
そんな目に見えるような、あるいは、目に見えないような悪意の方が怖い。
街ですれ違う人間、同じ電車に乗り合わせた人間、そこで新築アパートの工事をしている人間が、べつに人間が死んでもいいとわかりながら、そういう建築をするということ。
おれはそのような悪意の方におののく。
金銭トラブルとか、痴情のもつれとか、そんなことで人が人を殺してしまうことよりも、怖いことのように思う。
あらためていうが、論理的、法的にそうだというわけでもない。
殺人という取り返しのつかない行為を軽く見るつもりもない。
ただ、そんな行為よりも、こちらのほうが怖いと思ってしまった自分がいる。
おれが住んでいるのが古いボロアパートだということもあるかもしれないが。
悪意なき悪意
思うに、こういったことに「悪意なき悪意」を感じているのかもしれない。
「悪意なき」では言い過ぎかもしれない。
「悪意少き悪意」だろうか。
いや、やはり想像力の欠如した悪だ。
偉大なる詩人の田村隆一は「新年の手紙」という詩にこう書いた。
悪には悪を想像する力がない
悪は巨大な「数」にすぎない
おれは悪を想像しているから善なる心の持ち主だといえるかどうかはしらない。
ただ、こんな詩の一部も思い出してしまうのだ。
人が人を恨んだり、憎く思ったりして殺してしまう。
あるいは、短絡的にお金を奪うために殺してしまう。
変な言い方だが、そちらの方が人間の悪としては、まだ、まっとうな悪のように思えてしまう。
それよりも、人が死ぬかもしれない欠陥建築をつくりつづけ、それを生業としてしまうことのほうがおそろしい。
なぜなら、われわれの多くは、人を憎んでも殺すことは少ないし、お金ほしさに人を襲うこともあまりしない。
だが、食うために働くということは、ほとんどの人がしていることだ。
それが、人を殺してしまうような悪であるということ。
普通のなかにある悪。
あるいは、普通である悪。
これはおそろしい。
それにおれはおののく。
なぜならば、おれも食うために働いているし、あなたも食うために働いている。
それによって人を害してしまう、殺してしまうかもしれないことが潜んでいるかもしれないからだ。
人殺しの顔をしていない人殺し
自分の労働、生業がそうとは知らず、人を害する。そういう可能性がある。
「人を殺してもいいから金を稼いでやる」とも思わず、日々の仕事がそれにつながる。その怖さだ。
自分も、そんなことをしているかもしれない。
今は人の生き死ににつながらないような仕事をしていても、人生どうなるかわからない。
気づいたら建築に関わるような仕事に就いて、そうとも知らず、あるいはちょっと気づきつつも、自分の生活のために、ちょっとした手抜きをしてしまう。
それが常態化してしまう。
そんな可能性は排除できない。それは怖い。
気づかないかもしれないのも怖い。
「悪の凡庸さ」というものを指摘したのは、ナチスのアドルフ・アイヒマンを見たハンナ・アーレントというが、そういうことかもしれない。
残念ながら無学のおれはアーレントを読んだことはないので、違うかも知れないけど。
ひと目見てわからない悪のおそろしさ
ひと目見てわからない悪のほうがおそろしい。
たとえば、街なかで包丁を振り回している人がいたら、その怖さはわかる。
逃げようと思う。警察に通報するかもしれない。
だが、欠陥の手抜き建築でいつ崩れ落ちるかわからない階段を造られた場合はどうだろう。
素人目に見て、そうとはわからないけれど、確実に危ない建築はどうだろう。
それは見抜けないかもしれない。
包丁を突きつけられているのに、感謝を述べて報酬を払ってしまうかもしれない。
「そんなのは第三者の専門家に検査させない自己責任だ」という物言いは正しい。
だが、人間生きていて、そこまですべて人を疑わなくてはならないのか。
いや、一軒家やらアパートやらの大きな買い物であればそうするのが当たり前のことだろう。
ちっぽけな悪意すらなくとも、人間にはミスというものもつきものだからだ。
そこは慎重になるべきだ。
とはいえ、たとえばもっと安いもの、日常的なものだったらどうだろうか。
建築物ほどの買い物ではないとしたら。
たとえば自動車は。命に関わる欠陥があるかもしれない。
もっと安ければ、自転車の安全性がコストダウンのために犠牲になっているかもしれない。
もっともっと安ければ、日々買って飲み食いしているものの中に、身体にとても悪い物質が用いられているかもしれない。
考え出せばきりがない。
考えつづければ頭がどうにかなってしまうかもしれない。
そういう心配をしている人を食い物にする、べつの悪もあるかもしれない。
人の心配につけこむような悪が。
世の中はよくなりつつあるかもしれないが
それでもわれわれの多くは、スーパーで買えるものをおおよそ信用して生きている。
生きざるを得ないともいえる。
もちろん、われわれの先人が良くないものをなくしていこう、良いものに置き換えていこうとしてきた成果というものがある。
そのような営みは、今現在でも続けられているだろうし、世の中は年々よくなっているのだと信じたい。
建物の耐震性は日々進歩し、自動車も食べ物も安全になり……。
けれど、欠陥住宅をつくる建築業者のニュースなどを見聞きすると、その信じたいという心、人間への信頼が損なわれる。
この世の人のどこからどこまでが良心に従い、そのように働き、生きているのか。
逆に、どこからどこまでの人が知ってか知らずか悪を生業としてしまっているのか。おれには見分けがつかない。
さらにいえば、おれ自身が悪を生業にして、悪で食っているという可能性も否定できない。
だれもが普通のこと、あるいは良いこととすら思って働いていて、その結果が悪以外のなにものでもない、そんな可能性があるということだ。
人はどこまで信じられるのか
ある意味で、事件や事故を起こすような企業や団体は、この社会が善なるものばかりではないという警告を与えてくれる存在かもしれない。
この世が、人間それぞれのエゴイズムによって生きているだけであって、信頼に足るものではないということを。
そして、それは一個人の起こす犯罪などよりも大きくこの社会を覆い尽くしているということ。
生きるために、金を稼ぐために人間がしてしまうことの悪を思い起こさせてくれるのだ。
だが、そんな社会にだれが生きたいだろうか。
道ですれ違う人は、できれば善人であってほしい。
電車に乗り合わせた知りもしない人は、悪に手を染めていないでほしい。スーパーの棚に陳列されている食品は健康的で、ドラッグストアで売られている薬は安全であってほしい。
もちろん、アパートはしっかりと造られていてほしい。
それが高望みだというなら、この世はやはり地獄なのであろう。
そうではなく、ほとんどの人間が良く生きようと思っているのだとすれば、少しはマシな地獄であろう。
そうだ、人間というもの、そんなに信用できたものではない。
だれにもミスはあるし、組織というものに絡め取られて、知らないうちに悪に加担してしまう可能性もある。
知っても抗えない場合もあるかもしれない。
そもそも、一個の弱い人間である自分自身がそれを避けられるという自信がない。
悪を想像し、悪を創造しない
おれは世の中を必要以上に悪いものとみなしてしまっているのだろうか。
人間に悪意を見すぎてしまってはいないか。
オッカムの剃刀ではないが、この世の単純な不完全さや偶然を、必要以上に人間の悪意とみなして悲観してはいないか。
どうも、おれにはそのきらいもある。
そうとわかっていても、やはりこの社会には悪がある。
大なり小なり、意図的であったり、そうでなかったり。
どうすればいいのか。
それはもう、詩人の言うことに従って、悪を想像するしかないのだろう。善の想像ではない、悪を想像するのだ。
それにより、自らの行いを正しつづけるほかない。
そして、間違って悪を創造しないようにつとめるほかない。
それはとても、悲劇的な挑戦なのかもしれないけれど。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by : Jo Naylor