仕事が「好き」と仕事が「楽しい」は、全く別の話

私が新卒だったころ。

日々、新しい仕事を得て、成長を実感していた私は、仕事が楽しかった。

 

ある時、私は同行した先輩に、それを言った。

「コンサルティングの仕事は、面白いですね」と。

 

ところが先輩は、私にいった。

「今はやったことのないことを覚えて、楽しいだけ。」

 

「どういうことでしょう?」と聞くと、彼は言った。

「プロの仕事は、だいたい楽しくないってことだよ。」

 

意外だった。

仕事は楽しくやろうよ、とでも言いそうな人だったからだ。

「じゃ、先輩はこの仕事が嫌いなんですか?」

 

彼は言った。

「仕事が「楽しい」と、仕事が「好き」とは、全く別の話なんだよ。今はわかんないと思うけど、あと10年したらわかるよ。仕事は楽しくない。つらい。けどこの仕事は好き。」

 

「仕事 したくない」

検索窓に「仕事」と入れると、悲しい世相が浮かび上がる。

 

 

辞めたい、行きたくない、やる気でない、したくない、できない……。

気の滅入るキーワードが並ぶとおり、仕事は多くの人にとって、苦行である。

 

もちろん、中には「毎日仕事が楽しみです」とか「楽しく仕事をしています」とかいう人もおり、彼らはいかにも人生が充実しているように見える。

 

が、それを真に受けて

「仕事は楽しくあらねばならない」と考えてしまう人もいる。

しかも、会社の中には、

「やりがいがあって楽しい」とか

「楽しく前向きに仕事をしよう」とか

「仕事は楽しく」とか

そういったキャッチを掲げている会社が数多くある。

 

だが、現実には、ほとんどの仕事は楽しくない

 

ハイクオリティな商品・サービスに慣れ切った顧客の目は極めて厳しい。

経営者も業績を追及し、労働者に強いプレッシャーをかける。

 

もちろん、それらに応えることが、労働者が対価をもらうための条件であるから、

「楽しくないので、そんなん、どうでもいいですよ」

と言う労働者は、カネがもらえない。

カネがもらえないということは、生活できないわけだから、楽しくなくとも、全力は尽くさなくてはならない。

 

実際、松下幸之助や、稲盛和夫ら、昭和の経営者たちは「全力でやれ」という。

「苦労であっても、それをやることにしなければ一人前になれんのだ」ということを、常に先輩に聞かされていますと、それは苦痛でなくなってくるんであります。(松下幸之助)

「せっかくこの世に生を受けたにもかかわらず、果たして本当に価値ある人生であったのか」と問うてみたい。いや、問うだけではなく、そのような若い人たちに、なんとしても、私の考える正しい「働き方」を教えてあげたいのです。 働くことの意義を理解し、一生懸命に働くことで、「幸福な人生」を送ることができることを――。(稲森和夫)

 

要は、「仕事は基本的には、楽しいどころか、えらく厳しい。」これが原則なのだ。

 

なぜ仕事は厳しいのか

一体なぜ、仕事はこれほどまでに厳しいのか。

それはすべて、現代社会が「専門分化」していることに起因する。

 

企業は、顧客から選択されるために、何かしらのスペシャリストにならねばならない。

「何でもできます」という企業は、存在を許されない。

だから、その下で働く労働者も同じく、「何でもできます」という労働者は事実上、「何もできない」のと同じになる。

 

だから現代の企業社会は。個人が何らかのスペシャリストになるための「スキル磨き」が不可欠になった。

 

しかし、スペシャリストになるためには、そのための鍛錬が必要だ。

 

世界一の腕前になる必要はない、唯一無二の存在になる必要もない。

ただ、マーケットにおいて、顧客が「お金を払おう」と、満足するレベルにはならなければダメだ。

 

だが、それは、決して簡単ではない。

ジョフ・コルヴァンは、著書「究極の鍛錬」において、素人と達人のちがいは、「特定の専門分野で一生上達するために、考え抜いた努力をどれだけ行ったか」にあると述べている。

 

これは、スキル獲得が要求される、あらゆる職業に就く人に「考え抜いた努力」が要求されていることを意味する。

だがこの「考え抜いた努力」は曲者だ。

コルヴァンによれば、「考え抜いた努力」は、自分の弱点にフォーカスして行わなければならないため、

 

1.精神的にはとてもつらい

十分ではないと思う成果の要因を継続的にかつ正確に、厳しい目で洗い出し、懸命に改善しようとしなければならないため

2.あまりおもしろくない

不得手なことにしつこく取り組むことが求められる

 

という特性を持つ。

 

スキル獲得のためには、自分を「快適な状態」から、あえて追い出さないといけない

常に「できない」と向かい合って、学びを得なければ、徐々に仕事を頼む人はいなくなる。

これが、仕事が厳しい所以である。

 

仕事は登山に似てる

これは、登山に似ているかもしれない。

 

私は登山が好きだが、「楽しい」と思うことは、あまりない。

基本的に登山は、その最中では「なんでこんなことしてるんだろ」と、苦しいだけだ。

 

時折、高みまで登ってきたことでの達成感は得られるが、基本的には苦しみの連続になる。

 

しかし、その苦しさを超えて、頂上から風景を見たとき、そしてその登山から帰ってみると、それは素晴らしい思い出になっている。

「苦しいだけだったはずなのに、終わってみると素晴らしい体験だった」と思うのだ。

 

好きでも、楽しくもなんともない。
好きでも、つらい。
好きでも、面倒くさい
好きでも、イヤになる
好きでも、苦しすぎる

 

こういったことはよくあり、「好き」と「楽しくない」は矛盾しない

 

 

以前、「今は、好きなことをしないと豊かになれない時代だ」という記事を書いた。

いつの間にか「好きなことをしていい」時代から、「好きなことをしないと豊かになれない」時代に変わった。

「好きを仕事にしないと豊かになれない」世界は、「主体的に動く人だけが豊かになれる」という、残酷な世界だ。

自分で選びとらない限り、何も手に入らない世界。

「考えたくねえ」

「受け身でいいだろ」

「決められねえ」

「正解を教えろ」

「リスクを取りたくねえ」

が、貧しさの象徴になった世界。

これは、一片たりとも、人に優しくない。

「自由に生きられる」は、いつの間にか「自由に生きねばならない」に変わっていた。

現在の世界が、主体的に動かねばならない世界だからだ。

 

だれも人生を与えてくれない。

であれば、「好き」を軸に動くしかない。

「仕事は全く楽しくないけど、好き」と言っていた先輩は、そんな世界で必死に生き伸びようとしている人だったのだ。

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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