カート・ヴォネガットあるいはジュニア
おれはSFをそれなりに読む。それなりに読むだけなので、時代の最先端のSF(『三体』なら読んだが)を常に追いかけていたり、オールタイム・ベストの千冊をすべて読破していたり、ということはない。
そもそものおれのSFの始まりは、カート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』か、フィリップ・K・ディックの『ザップ・ガン』のどちらかということになっている。
「よく、その二冊でSFに足を踏み込んだな」と言われるかもしれない。『ザップ・ガン』は置いておくにしても、『チャンピオンたちの朝食』がSFかどうかというのは、正直、今でもよくわからない。
よくわからないが、若いおれはヴォネガットを次々に読んだ。そのSFの奇想と、あまりにも地に足のついたヒューマニストとしての「声」にうたれた。
この「声」というのは、このたび読んだ本の訳者あとがきで円城塔が述べている言葉だった。
声(ヴォイス)と呼ばれるものがある。
わかるような、わからないような考え方だ。「誰々の書く文章には声がある」というように使う。魂がこもっている、というような意味に近く、本来は記号の羅列にすぎない文章に命を吹き込んだりする。
長年、この「声」なるものがよくわからずにいたのだが、もしかすると、と思いはじめた。ヴォネガットが書いたり話したりするときに流れるあれのことではないのだろうか。
そして、このたび読んだ本は『これで駄目なら 若い君たちへ――卒業式講演集』である。
おれは大学というものを卒業したことがない。なので、大学の卒業式というものにも出たことはないし、そこで講演を聞いたこともない。
もしも、大学を卒業することができて、さらにカート・ヴォネガットの講演を聞けたのであれば、かなり上々な人生ではなかろうか。
え、カート・ヴォネガットを知らない? だったら検索してください。
Wikipediaにとかいうものには、「20世紀アメリカ人作家の中で最も広く影響を与えた人物とされている」とか書いてあるぜ。
これがナイスじゃないなら
で、タイトルの「これで駄目なら」とは、カート・ヴォネガットの叔父アレックスの言葉だという。
さて、叔父のアレックスは今天国にいる。彼が人類について発見した不快な点の一つは、自分が幸せであることに気づかないことだ。彼自身はというと、幸せなときにそれに気づくことができるように全力を尽くしていた。夏の日、わたしたちは林檎の樹の木陰でレモネードを飲んでいた。叔父のアレックスは会話を中断してこう訊いた。「これで駄目なら、どうしろって?」
そう、君たちにも残りの人生をそういう風に過ごしてもらいたい。物事がうまく、きちんと進んでいるときには、ちょっと立ち止まってみて欲しい。そして、大声で言ってみるんだ。「これで駄目なら、どうしろって?」
この、アレックス叔父のエピソードは、ヴォネガットの今までの作品にも出てきたと思う。
どの小説のどことは言えないが、「幸せなときは、口に出して言ったほうがいい」という話だ。
口に出して言葉にすることが重要だという話だったと思う。おれはそれを覚えていたので、ああ、あの話かと思った。
英語にすると、「If this isn’t nice, what is?」ということになるらしい。「これがナイスじゃないなら、なにがナイスなんだ?」、そんな感じだろう。
いや、どうも「これで駄目なら、どうしろって?」という訳が馴染めないので。ああ、プロの作家、翻訳者に異議を申し立ててはいかんですが。
まあ、ともかく、なんかナイスなときはそれを意識しよう。さらには口に出して言おう。そういうことだ。みなさん、できているだろうか?
……少なくとも、おれはできていない。幸せだから手を叩こうと思って手を叩いたことはないし、態度で示したこともない。
……いや、嘘だな、土曜日か日曜日の午後、おれの買った人気薄の馬が先頭だとか二着だとか三着でゴール板を駆け抜ける。
一人でテレビを見ているおれは、手を叩いて遠くを走る馬と騎手に感謝を送る。そして、その馬券を買っていたおれ自身の幸運を祝う。「江田照男愛してる!」とかTwitterに書き込んだりする。
あ、そういうことではない? なんとなくそういう気もする。もっとこう、しみじみとした、当たり前の、じんわりした、人生に寄り添うような幸せではないのか。
博打に勝って喜びを感じるのは、あまりにも端的にすぎる。気づきにくい幸福とは言い難い。むろん、それを求めてギャンブルに手を染めるのだが、まあそれはべつの話。
しみじみとした幸せ
というわけで、しみじみと「ぼかぁ、幸せだなぁ」と、口にしたことがあっただろうか。
……なんか、ないような気がする。いや、「ぼかぁ」とは言わないだろうが、それにしたって、自分のささやかな幸せを見つけて、口に出したことがあるだろうか。
ないよな、ないような、そんな気がする。
なんだろうか、幸せであるときが、全くなかったのか。そんなはずはない。おれだって、なにかこう、日常的に、しみじみと幸せだなあと感じたことがないわけではないはずだ。
だが、「自分が幸せであることに気づかない」のだ。だから、それを形にできない。口に出せない。記憶として残らない。
気づかないのか、気づけないのか、気づいたことを口にできないのか。
いろいろある。たとえば、なにかこう、恋愛的なもののあれやこれやで、人生にとって衝撃的なことだってあったろう。でも、それはなんか、ちょっと、ナイスな感じよりも興奮が強すぎて、ちょっと違うような気がする。
気が高ぶってしまって、すごい早足で、走り出してしまうような心持ちというのは覚えているが、それは「林檎の樹の下でレモネードを飲んでいるとき」とは違うように思う。
ひょっとしたら、同じなのかもしれないが、どうも口吻、いや、興奮してしまったら違うことのようにも思う。
なんでもないようなことが、幸せだったと思うって、どういうとき? これがおれにはよくわからない。
わからないふりをして、自分の幸福に目をつぶっているだけかもしれないが、それでも「人生のあのときはしあわせだった」というシチュエーションが思い浮かばない。
思わず、「これってナイスだ」って口に出したこともない。そのような気がする。
なんとなくの想像だが、家庭など築き、子供など持つことがあれば、そういう幸せを実感するときがくるのかもしれない。子供の一言とか、寝顔とか? いや、わからんな。
ありがちな感じだし、なんとなくそういうものだという想像はできるが、想像にすぎないのでわからない。
ならば、だれもが通ってきた、子供のころというのはどうだろうか。
なにも心配することなく、大人たちに見守られ、ただそこにある楽しみだけを追いかけていたころ……。
って、子供時代ってそんなものだったか? 少なくともおれは違う。ずっと心配していた。簡単に言うとそういう感じだ。
環境が変わることに恐怖し、未知なる課題に向き合うことに恐怖し、目の前の友達に嫌われることに恐怖していた。物心ついたころから心配していた。
そして、その心配どおりに、おれは環境の変化についていけず、未知なる課題に対応できず、目の前の友達に嫌われ、いじめられ、無視されてきたのだ。
どうにも、おれは人間社会に向いていない。
家庭を築くこともできないのは決定事項だし、子供時代に幸せはなかった。
そして、今もって安定した生活を送っているわけでもないし、未来に展望もない。
おれに「これがナイスじゃないなら、なにがナイスなんだ?」なんて言う機会はない。
幸福を見つけられないんじゃない、幸福でないのだ。やばいな。
それでも、幸福だって言うべきなのか
それでも、それでもだ。それでも、なにかいくらかでもナイスな瞬間を感じたら、「これ以上にナイスなことってあるかい?」って言うべきなんだろうか。
どんなときか。不毛な労働の一週間の終わりの金曜日の夜、おれは安ワインを一本開けるのを習慣としている。
コンビニで買ってきた東スポの土曜競馬欄を読みながら、コンビニで買った安ワインを飲んで、そう口に出すべきなのだろうか。出したら、幸せになれるのだろうか。
引き寄せの法則? 予祝? わからない。わからないが、ヴォネガットが言っているのであれば、間違ってはない可能性がある。
とはいえ、これがおれの人生の幸せかというと、芯を食っていないような気もしてしまう。
こんなはずでは、おれの人生、という思いがないでもない。
心配ばかりしていた子供時分の自分だって大人になればマイカー、マイホーム、マイファミリー……、儚い夢だったな。
あるいは、それらは大いなる努力の対価として得られるものであって、能もなく、努力もできない自分には得られなくて当然のものだったのかもしれない。今さら悔やんだところでもう遅い。
この苦しい世界で
世界は苦しい。率直に言ってそうだ。
おれにはそうだ。精神疾患を抱え、人並みに稼げるだけの能力もない。おおよその人間というものが苦手だし、人間が形作る世界が苦手だ。
だが、そんなおれに、ヴォネガットのヒューマニズムの世界はつらいのか。これが、そうでもないと言っておかねばならない。
……要するに、狂人だけが大統領になりたがるってことだ。
わたしの高校でもそうだった。本当にわけのわからん奴だけが、クラス委員になりがる。
候補者全員を精神科医に診せるべきなのかもしれない。でも、狂人以外の誰が精神科医になろうなんてするんだ?
だが、よく考えてみれば、選択肢があるんなら、人類になろうとするような奴は狂人だろう。我々は不実で、信頼できず、嘘つきで、貪欲な動物なのだ!
君たちがどれほど親し気で、純朴そうに見えたとしても、わたしは君たちに、これ以上のことを言うことができない。何故って君らは人類だからだ。
それでも、それでもだ。カール・マルクスが「宗教はアヘンだ」といったとき、その当時の「アヘン」が意味するところは、民衆の一時的な安らぎ、なぐさみであって、絶対に否定する意図ではなかったと言い切るヴォネガット。
その寄り添い方。いや、寄り添っているのではなく、人間そのものであるヴォネガット。
やはりおれはそういうヴォネガットに信頼を置くし、だいたいほとんど間違ったことは言わないであろうと思っている。
そう思っていたら、そうでもなかった作家などもいるけれど、ヴォネガットは故人なのでもおうそういう心配はいらないだろう。
そういうわけで、おれはもしも今後しみじみとした幸せを感じたとしたら、「ナイスじゃないか」と口に出して言うかもしれない。
そして、おれがいくら人嫌いでもヴォネガットが繰り返して述べてきた拡大疑似家族のようなものを支持するかもしれない。
さらには、次の言葉を心に刻んでおいてもいいかもしれない。
わたしが知る唯一のルールというものはだね――人には親切にしなさいってことだ。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by Brooke Cagle