先月下旬、「自分のやりたいことをやったほうが良いという考えが時代遅れになり」「そうでない価値観に変わるのではないか?」といったツイートを見かけた。
自己啓発や自己実現の時代のネクストは何か? といった話でもあったため、個人的に強い興味をおぼえた。
今後20年で「人は、自分のやりたいことをやったほうが良い」という考えが流行らなくなり、別の価値観になりそうな気がしてます。
ここが戦後アメリカからはじまった自己啓発ブームの終着点かもしれない。
— けんすう (@kensuu) 2023年1月22日
このツイートだけでは、投稿主であるけんすうさんの考えはわかりにくいかもしれない。が、その後の投稿には
「自分のやりたいことをやったほうが良いけれども自分のやりたいことがわからない人が大勢いる」
「能力主義の公正性がはっきりしなくなってきている」
とも書かれていて、個人主義に根差した現在の競争社会とそのモチベーション、さらにその公正性が支持されなくなり、変わるのではないか……といったスケールの大きな話に膨らんでいる。
自分のやりたいことを見つけ、自分のやりたいことで身を立てていく──こうした自己実現・自己充足していくという考えは、日本では20世紀後半に広く一般化した価値観であり、バブル崩壊後には自己責任という言葉とも背中合わせになった。
昨今、年下の人がこうした価値観に基づいて活動する時、自己責任を強調する態度はそこまで目立たない。
それでも活動主体が自分自身であり、イエや組織や地域ではない以上、自己実現や自己充足がうまくいかなかった場合にイエや組織や地域のせいにするのは難しそうである。
すべてを自分自身の成果として追求できる社会では、成功だけでなく、失敗もまた自分のせいと考えなければならない。
アメリカやイギリスといった、自分が自分の経営者たらねばならない社会では抗うつ薬が大量に消費されていることを思うと、私は自己実現や自己充足もラクじゃないよねと思わずにいられない。
そしてけんすうさんがおっしゃるように、誰もが自分のやりたいことがわかるわけがないし、自分のやりたいことをやったとしても自己実現・自己充足できる保証はどこにもない。
そのくせ表向きばかり、可能性が無限に開かれている体裁になっている。
いつの時代もそうだが、産業構造の変化は私たちが活躍し得るフィールドを大きく変えようとしている。農夫より工場労働者が必要になった時代も、工場労働者よりホワイトカラーやサービス業従事者が必要になった時代も、活躍し得るフィールドは大きく変わった。
しかし最近みかける「AIによって10年後になくなる仕事」の一覧が示しているように、今後はその動きが加速し、ホワイトカラーやサービス業従事者として働けるポジションも減っていく。
「新しい時代には新しい仕事が生まれる」のは事実だが、現在進行形の事態に際しては多くの人にとって気休めにならないだろう。
なぜなら高度化する社会で生まれてくる仕事、特に自己実現や自己充足と結びつけやすそうな仕事は、いずれにせよ高度な知識や判断力を必要とし、知識のアップデートに対して開かれていることを要求し、ゆえに誰でも勤まるものとは考えにくいからだ。
佐々木俊尚『web3とメタバースは人間を自由にするのか』によれば、自動運転も含めた流通革命はさまざまなものを効率化していくという。
そうなると、たとえばタクシー運転手という職業が不要になるだけでなく、在庫管理など、流通産業に携わる仕事全体がオートメーション化・AI化していく。AI化はイラスト作成や文章作成にも威力を発揮するだろう。
クラウドから無人タクシーに指令を出して、それに基づいてクルマは移動していく。お客さんもスマホのような手もとのデバイスからクラウドに通信し、クラウド経由でクルマに指示を出す。クラウドがすべてのコントロールタワーになって、それに無人タクシーやお客さんがぶら下がっているかたちになる。つまりはクルマも人間も、情報を集めその情報をもとにフィードバックする「端末」になるということだ。
ここでたいへん重要なポイントは、クルマの本質がガソリンエンジンやシャーシ、ボディなどで形づくられる金属の物体ではなく、流れる情報になるということである。金属の「固体」から流れる「情報」に本質が変化するのだ。
そしてさらに大事なのは、動かない「固体」よりも流れている「情報」のほうがコントロールしやすいということである。
同書は全体として過剰な楽観と悲観に陥らず、進歩がもたらすさまざまな側面を描いており、今後も人間についてまわる責任や決断の問題、オリジナリティの問題にも言及している。
それでも、マスプロ的な領域ではイラストレーターやライターの食い扶持は減ってしまうだろうし、流通業やサービス業の職も減ってしまうだろう。
職の減少は、仕事をとおしての自己実現や自己充足の減少にも繋がる。
自己実現・自己充足は正義の問題、道理の問題でもある
そうなると、けんすうさんのおっしゃるように、自己実現や自己充足といったありよう自体が社会人の大半に通用しなくなってくるわけだ。
だとしたら、それらをやってのけられる一部のエリート以外には救いの乏しい未来ではないか?
自己実現や自己充足を内面化したあげく、それらをみたせそうにない境遇に辿りついてしまった場合、そのことを自分自身の失敗として真正面から受け止めなければならない。
その至らなさや挫折を、誰かのせいにはできない。たとえそのような社会ができあがってしまったのが自分自身のせいでないとしても、である。
そんな、ごく一部のエリート以外に自己実現や自己充足が困難な社会が到来した時に、それらとは異なった価値観やディシプリンが台頭してくるかもしれない……というけんすうさんの想像にはなるほど感がある。
しかし自己実現や自己充足は、単なる価値観というより、個人主義社会、ひいては現代の資本主義社会を成立させる道理や正義でもなかっただろうか。
自己実現や自己充足は、個人のモチベーションにかかわる価値観であると同時に、社会全体や世界全体のモチベーションにかかわる価値観でもあった。社会の大多数がそのように頑張り、切磋琢磨することをとおして社会全体も発展し、GDPも向上していく。
その結果として西側諸国は旧ソ連との戦いに勝利したし、旧ソ連のようにはなりたくない中国も、そのようなメカニズムを国全体の発展に利用している。
そうしたわけで自己実現や自己充足は、個人と社会それぞれのモチベーションと発展をとりもち、競争社会を正当化してくれる重要な価値観、あるいはディシプリンだった。この社会の道理や正義でもあった、と言い換えられるかもしれない。
国民の大多数がこれらの教えを素直に信じることは、個人的なことであると同時に社会的なことでもあった。その観点から見た中国の「寝そべり族」は、おそらく不正義な存在だ。
関連:「寝そべり族」たたき起こす、習主席の締め付けで浮かぶ中国ジレンマ
「寝そべり族」は、個人と社会の双方を発展させる道理や正義から逸脱している。だから中国当局はさぞ苦々しくみているだろう。
ところがオートメーション化やAIの登場により、自己実現や自己充足をモチベーション源として活躍できる余地は減ろうとしている。高度な技能労働者になるためのハードルが高くなり、一握りのエリートとその子弟以外は自分のやりたいことを見つけることも、そのやりたいことをとおして心理的に満足することも難しくなろうとしている。
貧富の差も拡大しているから、公正な競争というのもなんだかわからない。
そんな風に変質した社会では、自己実現や自己充足は多くの人にとって信用ならない価値観だ。
かりにそれらが社会の道理や正義であり続けたとしても、馬鹿正直になぞっているだけでは恵まれた子弟の引き立て役になるのが関の山だろう。徒労に終わる可能性が高い。
問題は、そうなった時、モチベーション源として個人を牽引できる価値観や教えはどこに見出されるべきか、それに伴って社会の道理や正義がどう変わっていくか、である。
ずっと昔に立ち戻れば、自己実現や自己充足ではないモチベーション源や価値観がすぐさま思い出される。
たとえば封建社会における「忠誠」は、自己実現や自己充足とは異なるモチベーション源であると同時に、その時代の道理や正義でもあった。
『忠臣蔵』なども、「忠誠」という価値観を意識しながら眺めればわかりやすいが、自己実現や自己充足をベースに眺めていてもよくわからない。
同じく「信仰」という価値観が幅を利かしていた社会も過去にはあった。私たちからみて「忠誠」や「信仰」をモチベーション源にすること、ましてやそれらのために命を懸けることは不思議なことと思えるかもしれない。
がしかし、そうした時代を生き、そうした価値観をモチベーション源にしていた人たちからみれば、むしろ私たちのほうが不思議に思われるだろう。
自己実現や自己充足が終わるなんてことがあり得るのか
「忠誠」や「信仰」が自己実現や自己充足になりかわり、再び社会の道理や正義になり得るだろうか。
「忠誠」については、おそらく無理だろうと思う。現代社会をネオ中世などと喩えたがる人がいるし、一面としてそれは理解可能だが、封建社会は流動性のきわめて低い社会だった。
対して現代社会は流動性が高まる一方である。封建社会のような、「先祖代々うちは○○家に仕えてまいりました」といった主従関係が成立するとは考えにくい。
「信仰」は? これは可能性があるかもしれない。ただ、加速する一方のこの社会でウケる宗教像が私にはよくわからない。
確かに宗教が流行る下地はできあがっている──疫病が流行し、戦乱が起き、民衆の生活が苦しくなる時代には宗教が流行るものだ。
そのうえ雑多な陰謀論やポジショントークがはびこり、ともすれば党派性に凝り固まった世界観を受け入れたほうが気持ちが楽になりやすい社会状況では、「いわゆる客観的なファクト」なるものが一体どこにあるのか、あったとして自分自身の社会適応の足しになるのか、甚だ怪しい。
そんな値打ちのわからない「いわゆる客観的なファクト」を苦労して模索するよりは、各々が信奉する道理や正義を保障し、その道理や正義に基づいた世界観やライフスタイルを提供してくれる宗教のほうがモチベーションのけん引役として有用に思える。
もともと私は、この文章を「自己実現や自己充足の時代が終わるといっても、道理や正義は個人主義的な資本主義社会と密接に結びついているから、社会や資本主義が降りることを許さないだろう」とまとめるつもりだった。
実際、自己実現や自己充足を信奉可能なエリートたちは今後もそれらを金科玉条とし続けるだろう。
のみならず、そこに潜ませた正義や道理を非エリートに押しつけ、飴のかたちをした鞭で馬車馬のように働かせ、自分たちが勝ちやすいゲームの盤面を維持しようと努めるだろうとも思う。
だが、そんな道理や正義がこれからもずっと維持できるのか、それも疑問だ。
今後ますます自己実現や自己充足がエリートの独壇場になっていった時、人びとがそんなゲームの盤面に付き合わなければならない理由はない。ごく一握りのエリートの引き立て役になるために、実現しそうにもない自己実現や自己充足をモチベーション源とするなど、蜃気楼に向かってダッシュするようなものだ。
そうなった時、大多数の人々が新しい道理や正義を、自分たちの身の丈にあって、社会適応や心理的充足に資するような道理や正義を探そうとする未来はあってもおかしくない。
もちろん、そのような未来は自己実現や自己充足を正義とする人々からみて、愚かで、邪悪で、不正義で、非効率とうつるだろう。あるいは中国政府から見た寝そべり族のような存在とうつるかもしれない
だからけんすうさんのおっしゃる話は、個人のモチベーション源の話だけで済まない、のっぴきなさを孕んでいる。
個人のモチベーション源の話に道理や正義が乗っかっているからこそ、それらを自明としている人間からみて、それらを無視している人間は不道徳で意味不明な存在にうつる。
だが歴史的にみれば、今日の私たちのありようだって、たぶん昔の誰かからみれば不道徳で意味不明な存在だ。
過去にもてはやされたライフスタイルが否定され、過去に不道徳とみなされたライフスタイルが大手を振って街に溢れるなど何度もあったことだ。
そういう望遠スタイルで現状を眺めるなら、自己実現と自己充足の時代の盛期はおそらく過ぎており、新しい時代にふさわしい価値観や教え、ひいては道理や正義が模索されているのだろう。
私にはそれがどんな道理や正義なのか、もし「信仰」だとしてどういう信仰なのかを言い当てることができない。
いずれにせよ、その新しい何かは今日の主要な価値観の外側で既に芽吹いていて、広がる機会をうかがっているものと思われる。
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著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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ブログ:『シロクマの屑籠』
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