この記事で書きたいことは、以下のような内容です。
・成果物やパフォーマンスを公開する時、どうしてもハードルを下げたくて、卑屈になってしまう時があります
・ですが、我々は「成果を誰かに見せる」時卑屈になるべきではありません。少なくともその時その場では、「これは最高の成果物だ」と信じて発表しなくてはいけません
・それは何故かというと、「自分の成果物への信頼」が、実際に受け取る側から見たクオリティにも直接影響する為です
・これは、成果物を作り上げていく過程で努力することや、色んな意見や批判を受けいれてクオリティを上げていくこととは矛盾しません。むしろワンセットの話です
・卑屈になっていると公開自体のハードルが高くなってしまうこともあり、無駄にMPを消費します
・我々には「自分の卑屈さをねじ伏せる覚悟」が必要です
以上です。よろしくお願いします。
さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。
いつのまにか、五月も半ばに差し掛かってしまいました。あと1.5カ月で2023年が半分終わるとか、さすがにちょっとあり得ない現実に軽く絶望的な気分になってしまうのですが、皆さん五月病の進捗はいかがでしょうか?
しんざきはシステム関係の仕事をしておりまして、新人さんの教育係になることもちょくちょくあるのですが、この時期新人さんにお伝えすることの中に、「「ハードルを下げたい」という誘惑に負けないようにしましょう」という話があります。
今日は、ちょっとそのことについて書こうと思います。
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しんざきは楽器奏者でして、「ケーナ」という縦笛を吹きます。
南米はアンデス山脈の民族楽器で、日本の楽器で言うと尺八に似ています。
高校までは(小学校の鍵盤ハーモニカやリコーダーを除いて)ほぼ一切楽器に触れたことがない、それどころか音楽自体何も知らない人間だったのですが、何を間違ったのか大学入学時に民族音楽を演奏するサークルに入りまして、以降25年くらい続けています。結構長いことやってますね。
当時、私のサークルでは年に数回、大小の演奏会を開催しておりまして、私も初心者の頃から参加しておりました。
やはり楽器を練習する上では、初手で「コンサートに出演する予定」を入れることがもっとも重要でして、人前で演奏するとなると強制的に必死で練習することになります。これなしだといつまで経っても練習出来ない、という人も多いです。
短い時にはほんの2,3週間で次の演奏機会がきて、しかも演奏するのは新曲ばっかり数十曲、などというアホなこともありましたので、授業がない時間はほぼ隙間なくケーナばっかり吹いてました。
最初は音を出すのも難しいのがケーナという楽器なんですが、不器用なりに死ぬ気で練習したからか、そこそこ綺麗な音は出せるようになったと思っています。
始めて二年目だったか、三年目だったか。ある程度ケーナが吹けるようにはなってきて、そうなると当然「自分がいかに吹けていないか」も分かってきて、多少自信を失っている時期だったのかも知れません。
コンサートを見にきてくれたケーナ奏者の先輩に、どうしてもハードルを下げたくなって、私は何か卑屈なことを言ってしまったんだと思います。
「下手くそですけど来てくれてありがとうございます」とか、そんな内容だったのでしょうか。
その時先輩は、別に怒りもせず笑いもせず、ただ一言、なんでもないことのようにこう言いました。
「コックが「美味しくないですけど」といいながら出した料理を食いたい客がいるか?」
そんな大げさな口調でもなく、すぐに他の会話にまぎれてしまう程度のさらっとした一言でした。
実際、そのちょっと後、当の先輩にこの話をした時には、「俺そんなこといったっけ?」という反応でした。
とはいえ、この時、この一言は妙に私の頭に残っていて、今でも一言一句思い出せます。自分の発言は忘れたのに、この一言だけはくっきり覚えています。
後から意味が分かってくる言葉だったと思います。後々、私はこの言葉を、こんな風に理解するようになりました。
つまり、「成果を披露する時、卑屈になってはいけない」のだ、と。
どんなに僅かであっても、その日その時、お客さんはお金なり時間なりのリソースを費やして我々の演奏を見に来てくれるのだ、と。そういう意味で、先輩は客で、私はコックなのだ、と。
その時、自分の演奏という「料理」を客に提供するのであれば、可能な限り美味しく食べていただかなくてはいけない。そうでなくては、相手が消費してくれたリソースに失礼でしょう、と。
客からすれば、「演奏者の自信の多寡」なんてものは知ったことではなく、ただただ提供されるパフォーマンスを摂取しに来ているわけです。
その時、自信なさげな姿なんてものはノイズでしかなく、むしろ演奏を楽しむ邪魔にしかならないわけです。
とすれば、どんなに自信がなくても、どんなにハードルを下げたくても、少なくとも演奏を披露するその瞬間においては、私は「これは世界一の演奏です」というつもりで演奏しないといけなかった。
先輩の一言は、そんな意味だったのではないかと思っているのです。
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これ、別に演奏だけの話ではなく、仕事でも趣味でも同人誌でもブログでも、何でも同じことです。
「成果物を他者に公開する」機会がある活動、全てに通じる話だと思います。
「ハードルを下げたい」という誘惑、分かるんですよ。
自分の成果物を他者に評価されるというのは、物凄い恐怖を感じるタイミングでもあって、期待を裏切ってしまうのではないか、「こんなものか」と思われてしまうのではないかという不安は常につきまといます。
それを防ぐ為に、事前に「大したことないんですよ」と伝えておいて、いざ摂取してみると「あれ、思ったよりいいじゃないか!」という形で評価を上げて欲しい。分かります。よく分かります。
けれど、この目論見が上手くいくことはそうそうありません。何故かというと、
「大抵の場合、コンテンツを受け取る側にとって、発表者が未熟かどうかで加点する義理などない」し、
「大抵の場合、「自分が気にしている点」を受け取り手も気にしているとは限らないし、
「大抵の場合、発表者の卑屈さは受け取り手にとってのクオリティの低さに繋がる」からです。
特に大事なのが、二点目、三点目の要素です。
もちろんケースバイケースでもあるんですが、当たり前の事実として、受け取り手と自分の感じ方、評価のポイントって同一ではありません。
自分が「ここ上手く出来た!」と思っている部分を、受け取り手も「いい!!」と感じてくれる保証はこの世のどこにもありません。
けれど、同じように、自分が「ここは上手くできてない……」と思ったところを、受け取り手が「ダメじゃん」と感じる保証もないんですね。
例えば演奏で大きな失敗をしたとして、自分が「うわーーやっちまった」と思っていても、観客は誰も気にしていない、なんてことも普通にあるんです。案外自分が気にしているポイントって、客は見てなかったりするものなんです。
けれど、「ここはダメだ……」「ここもダメだ……」と思いながら演奏していると、客はそれに気付いてしまう。「あ、ここダメなんだ」と思ってしまう。
黙ってりゃバレなかった、あるいは気にされなかったウィークポイントに、わざわざ注目させてしまうわけなんですよ。
「これはダメなんですよ」と卑屈になってしまうと、「あ、ダメなのか」と思わせてしまい、結果的にはそれが実際の受け取り方、ひいてはコンテンツのクオリティにも影響してしまう。
自信のなさはミスにも繋がりますが、「実際にそのミスを明示する」というところにも繋がってしまうわけです。
これが、「卑屈さがクオリティの低下にも直接的に繋がる」最大の理由です。
であれば、少なくともお客さんにコンテンツを届ける時点では、「どうです、良いでしょう!」という思いを添えて出した方がまだしもマシですよね?
自信が技術の不足をカバーしてくれるわけではありませんが、少なくとも「自信満々で演奏しているな」というイメージをお客さんに伝えることは出来るわけです。そこを楽しんでくれるお客さんだっているかも知れない。
それに加えて、卑屈になっていると、公開に伴うプレッシャーも上がるんですよね。「これで大丈夫なのかな……」は、「こんなもの人前に出したくない」に容易に繋がるんです。
結果、練習に身が入らなかったり、成果物作成の手が止まってしまったりで、それによって更にプレッシャーが上がったりする。
「期待通りのものを出さないと……」というプレッシャーで手が止まってしまって、「これだけ時間がかかったからにはもっといいものを……」って更にプレッシャーがかかる悪循環、経験したことないですか?
もちろん、成果物のクオリティを上げていく過程で、他者の批判的な視点が必要になることは往々にしてあります。「ここダメじゃないですか?」とポイントを明示して意見を聞く機会、必要です。
必死に努力して練度を上げていく時、「まだまだこんなものじゃダメだ」という思いが力になること、というのもしばしばあります。
「経緯」の時点で「まだダメ」という視点を持って、その声に従って精度を上げていくことには、別に何の問題もないんです。
むしろそうするべきです。
ただ、それを「本番」に持ち込んではいけない。我々は、どこかで卑屈さをねじ伏せないといけない。少なくとも、成果物を公開する時卑屈であってはいけない。お客さんに届ける時は、「これ、世界最高の出来ですよ!」という気持ちで届けないといけない。
そんな風に思うわけです。
***
あれから25年経って、今でも私はケーナを吹き続けています。
もちろん「まだ全然ダメだなあ」と思うこともあるんですが、実際にケーナの音を聴いていただく時には、「これは世界一のケーナ吹きの演奏ですよ」という気持ちで聴いていただくことを心がけています。
それと同じように、仕事における成果物についても、もちろん事前・事後の精度上げとは入念にやるとして、いざ公開する時には「最高のものが出来ましたよ」という心構えでやりましょう、と。その辺は、新人さんにもお願いしているところです。
あの時の先輩の一言で、そういう心構えが出来ることになったのは、奏者としても趣味人としても、つくづくありがたいことだなあ、と考える次第なのです。
今日書きたいことはそれくらいです。
ティネクト(Books&Apps運営会社)提供オンラインラジオ第6回目のお知らせ。

<本音オンラインラジオ MASSYS’S BAR>
第6回 地方創生×事業再生
再生現場のリアルから見えた、“経営企画”の本質とは【ご視聴方法】
ティネクト本音オンラインラジオ会員登録ページよりご登録ください。ご登録後に視聴リンクをお送りいたします。
当日はzoomによる動画視聴もしくは音声のみでも楽しめる内容となっております。
【今回のトーク概要】
- 0. オープニング(5分)
自己紹介とテーマ提示:「地方創生 × 事業再生」=「実行できる経営企画」 - 1. 事業再生の現場から(20分)
保育事業再生のリアル/行政交渉/人材難/資金繰り/制度整備の具体例 - 2. 地方創生と事業再生(10分)
再生支援は地方創生の基礎。経営の“仕組み”の欠如が疲弊を生む - 3. 一般論としての「経営企画」とは(5分)
経営戦略・KPI設計・IRなど中小企業とのギャップを解説 - 4. 中小企業における経営企画の翻訳(10分)
「当たり前を実行可能な形に翻訳する」方法論 - 5. 経営企画の三原則(5分)
数字を見える化/仕組みで回す/翻訳して実行する - 6. まとめ(5分)
経営企画は中小企業の“未来をつくる技術”
【ゲスト】
鍵政 達也(かぎまさ たつや)氏
ExePro Partner代表 経営コンサルタント
兵庫県神戸市出身。慶應義塾大学経済学部卒業。3児の父。
高校三年生まで「理系」として過ごすも、自身の理系としての将来に魅力を感じなくなり、好きだった数学で受験が可能な経済学部に進学。大学生活では飲食業のアルバイトで「商売」の面白さに気付き調理師免許を取得するまでのめり込む。
卒業後、株式会社船井総合研究所にて中小企業の経営コンサルティング業務(メインクライアントは飲食業、保育サービス業など)に従事。日本全国への出張や上海子会社でのプロジェクトマネジメントなど1年で休みが数日という日々を過ごす。
株式会社日本総合研究所(三井住友FG)に転職し、スタートアップ支援、新規事業開発支援、業務改革支援、ビジネスデューデリジェンスなどの中堅~大企業向けコンサルティング業務に従事。
その後、事業承継・再生案件において保育所運営会社の代表取締役に就任し、事業再生を行う。賞与未払いの倒産寸前の状況から4年で売上2倍・黒字化を達成。
現在は、再建企業の取締役として経営企画業務を担当する傍ら、経営コンサルタント×経営者の経験を活かして、経営の「見える化」と「やるべきごとの言語化」と実行の伴走支援を行うコンサルタントとして活動している。
【パーソナリティ】
倉増 京平(くらまし きょうへい)
ティネクト株式会社 取締役 / 株式会社ライフ&ワーク 代表取締役 / 一般社団法人インディペンデント・プロデューサーズ・ギルド 代表理事
顧客企業のデジタル領域におけるマーケティングサポートを長く手掛ける。新たなビジネスモデルの創出と事業展開に注力し、コンテンツマーケティングの分野で深い知見と経験を積む。
コロナ以降、地方企業のマーケティング支援を数多く手掛け、デジタル・トランスフォーメーションを促進する役割を果たす。2023年以降、生成AIをマーケティングの現場で実践的に活用する機会を増やし、AIとマーケティングの融合による新たな価値創造に挑戦している。
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(2025/7/14更新)
【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
Photo:Priscilla Du Preez