もしも「ゲーム脳」が本当にあったら

おれはゲーム、ビデオゲーム(以下、ゲームとします)に人生のかなり多くの時間を費やしてきた人間だ。そのことは前に書いた

おれは平均的な人よりたくさんゲームに時間を費やした。いや、二十代、三十代とプレイする時間が減ってしまって、いまではほとんどやっていないので、「二十代になるまで」と言ったほうが正確だろう。

 

そんなおれが、自分のブログに「想像してみよう、もしもゲーム脳が本当だったら」という記事を書いたことがある。

 

2008年のことだ。今から15年も前のことだ。ずいぶん前だ。

ん? ひょっとして、今の人たちは「ゲーム脳」という言葉を知らないかもしれない。そのあたりはWikipediaでも読んでほしい。

 

ようするに、ゲームをすると脳に異常が起きて、「キレる若者」などが生み出されているのだ、けしからん、という話である。『ゲーム脳の恐怖』という本はたくさん売れた。

が、その内容のひどさから、批判が相次いだ。科学的にあまりにもおかしい、と。そのあたりでこてんぱんにされた話である。

 

たとえば、斎藤環先生もこてんぱんにしている。2002年の記事である(よく残っているな)。

全体がおかしいんです、はい。論理がどうこうなんてそんな、この人のために頭を使って批判してあげる必要なんかないんですよ。

というわけで、おれが先の記事を書いた2008年には、「ゲーム脳」なんてものは疑似科学、似非科学、インチキ、トンデモとわかりきっていた時代である。あるいはもう、忘れらていたかもしれない。

 

それでもおれは、15年前、なんか書きたくなったのだろう。ブログ記事が最初に引用している事件の記事はすで存在しない。どんな事件だったかはわからない。でも、おれの言いたかったことは書かれている。

きちんとした脳科学やなにかの専門家が、科学的に確かな方法でゲーム脳状態を示す。そして、いろいろの学者の再現実験や何かからもゲームの人間に対する悪影響がはっきりする。アルコールで人が酩酊するくらいはっきりする。また、社会学やら統計学からも、社会に対してよろしくないことがはっきりする。森のゲーム脳を科学的、論理的に批判していた学者たちも認める。

 ……さあ、そのときどうする。どういう態度を取れるだろうか。森のゲーム脳を科学の面、論理の面から否定していたゲームファンはどういう道を選ぶだろう。科学や論理のことなどわかりもしないのに、その尻馬に乗ってゲーム害悪論を馬鹿にしていた……俺は何を言うだろう? 森のゲーム脳理論の鏡のような、ゲーム擁護のためだけにでっち上げられた疑似科学に飛びつくだろうか。ゲームの害悪を認めた上で、人体や社会との折り合いをつけるべきラインを探り、提案したりするだろうか。

「ゲーム脳」への批判はその非科学性が主であった。それに、大勢のゲームプレイヤーたちが「乗った」ように見えた。おれも「乗った」。

が、もし、科学的に「ゲーム脳がありますよ」となったとき、科学に「乗った」人間はどういう態度が取れるか、ということだ。

 

はっきりとは書いていないが、「おれは害をわかった上でもやりますよ」という態度が正解なのではないかと思っていた。

酒や、タバコ、ギャンブル……、たとえ害であろうと、自分の嗜好を優先する。世間から白い目で見られようと、好きなものは好きだと譲らないこと。

 

もちろん、疑似科学が排除されることは望ましい。科学者には、疑似科学が出てきたときに「そんなくだらないもの相手にしない」ではなく、徹底的に専門的な見地から批判してほしいと思う。

だが、それに無条件に乗ってしまって、後からべつの「科学」が出てきてしまったら……。

 

「ゲーム障害」の時代

さて、現在は2023年である。「ゲーム脳」は過去の話になった。

が、べつの言葉が出てきている。「ゲーム障害」、「ゲーム依存症」、これである。嗜好ではなく嗜癖(アディクション)ではないか、病気ではないか、という見方である。

 

たとえば、おれが先日読んで、アルコールとギャンブルについて自らを省みることになった『やってみたくなるアディクション診療・支援ガイド』という本でも、副題は「アルコール・薬物・ギャンブルからゲーム依存まで」とある。2021年に出た本である。

おれは現在、ギャンブルとアルコールについて問題を抱えているが、ゲームはそうではない。

そうではないけれど、「ゲーム依存」という言葉を見ると、15年前の自分が、あるいは今でも考えているかもしれないこと、「もしも『ゲーム脳』が本当だったら」ということを思い浮かべずにはいられないのである。

 

というわけで、そのあたりどうなんだろうと、一冊の本を読んだ。『ゲーム障害再考 嗜癖か、発達障害か、それとも大人のいらだちか』である。

2023年の本だが、「再考」である。すでに再考されるものになっている。本書は、児童専門医、依存症専門医、臨床の場にいる医療関係者から、ゲーマー、ゲーム開発者までがいろいろな見解を述べている。

 

が、いろいろといっても、だいたい一貫しているのは「ゲーム依存症というものがあるのかどうか」という疑念である。あと、「ゲーム脳」なんて過去の言葉は出てこない。

 

そもそも「ゲーム障害」とは

そもそも「ゲーム障害」とはなんだろう。再考する前に、そのあたりを知りたい。

 

本書によると、公式な定義づけのようなものでは以下のようになる。

2013年にアメリカ精神医学会が作成した、世界で広く使われている精神疾患に関するマニュアルであるDSM-5には、インターネットゲーム障害(Internet Gaming Disorder :IGD)という診断名が採用されました。けれどこの新しい概念は、それを正式な障害として取り扱うべきかどうかについて、いまだ充分な研究が行われていないことが主な理由となって、「今後の研究のための病態」というカテゴリーに収載されました。つまり日常の診療のなかでそれを用いることは勧められなかったのです。

 また、2022年から、世界保健機構(WHO)が作成しているICD-11という、あらゆる健康問題に関する分類の体系には、ゲーム行動症(Gaming Disorder :GD、日本語訳はまだ検討中です)が正式に採用となりました。

「児童専門医の考えるゲーム障害臨床」吉川徹

おれはこのあたりのことをうっすら知ったときに、「こういう組織はそうとうなエビデンスを集めたうえでものごとを決定しているのだろうから、ゲーム障害というのは認められたものだな」と思ってしまった。早合点である。

でも、やはり、専門家の過半数とは言わないまでも、少なくない人が賛同しなければこうはならないんじゃないかな、とも思う。そのあたりのアカデミックというか、医学の世界の加減はまったくわからない。

 

わからないが、こういう決定に対して異論もあるわけだ。

 

ICD-11草案が発表されると、すぐにビデオゲーム研究の専門家たちによる公開声明が出され、ゲーム障害推進派との激しい論争が起こったという。その論争の論点はなにか。

 この誌上論争で明らかになったことは、問題のあるビデオゲームの遊び方があることは両陣営とも合意ができています。さらに、科学的な根拠が薄弱だという点についても正面からの反論はありません。論争が続いているのは、いくら科学的な根拠が薄弱でも、臨床の現場ではゲーム障害という分類が必要なのだ、これによって研究が進めばよりよい分類ができるだろう、という主張です。この主張をめぐって両陣営は合意不可能になっています。

「ゲーム障害をめぐる論争をたどる―ゲーム研究者の視点から」山根信二

ゲームの専門家は、ただゲームに夢中なプレイヤーが病気扱いされるのではないか、モラル・パニックが起こり、政治的スローガンになり、効果のあやしい治療法などが広まるのではないか、と憂慮する。

 

一方で、推進派は診断ガイドラインができれば研究が進み、厳密に区別できると主張する。

そんでもって、当初の分類もこうなっていった。

ICD-11の分類が決まった後、本文の改訂を続けています。たとえばICD-11(02/2022)版では、ICD-11ではあいまいだった「ゲーム障害」の診断のための必須要件が厳密化されています。これにより、ゲームに夢中にで勉学がおろそかになったといった状態は「危険かもしれない遊び方(hazardous gaming)をしている状態」としてゲーム障害とは区別されました。この改訂は今後も続いて、専門家の憂慮の一部はとりいれられると考えています。

このあたりについて、ゲームの国の一つであろう日本では、いまいち紹介されていなかった、話題になっていなかったらしい。その結果、「世界的な批判を招いた草稿段階の説明を使った説明が残り続けています」ということになった。

 

その結果の一つが、2020年4月から実施された「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」だ。これはネットでも話題になったから知っている人も多いだろう。

世界では論争が続いている問題なのに、モラル・パニックが政治的なスローガンに転じて実行されてしまった例だという。

 

そうか、なんか唐突だと思えた香川県の例は、「WHOでゲーム障害は正式に疾病とされたぞ」という唐突な誤解によるものだったか。いやはや。

 

で、結局、ゲーム障害はあるの?

で、結局、ゲーム障害はあるのかどうか、となると、そんなことは素人にはわからんし、専門家が揉めているのだからわかりようがない。というか、シロクマ先生に解説してもらったほうがいいだろう。

とはいえ、かつては不登校になってゲームばかりやっていた人間、ギャンブル、アルコールの嗜癖がある人間としての自分は、気になる話なのだ。

 

あ、「不登校になってゲームばかり」というのもわりと重要なポイントで、おれのなかでは「不登校になって暇だからゲームばかりやっていた」というのが小学生と大学生の一時期にあったのだが、これが見ようによっては「ゲームのせいで学校に行かなくなった」となる。

 実際には「子どもがゲームばかりして学校を休むようになった」は、よくある親の主訴ですが、子どもの意見は違うことがあります。「たしかにゲームはすごくしているけど、本当は親が思っているほど好きじゃない」と言う子どももいます。このような場合、治療者が親の情報を重視し、「子どもは否認しているが、ゲームをコントロールできずに優先し、学校を休み、成績が下落するという否定的な結果と生活上の支障が生じている」とみなして、この子はゲーム障害と診断するかもしれません。あるいは、子どもの情報を重視し、「子どもはまだ言語化していないが、葛藤があり登校が難しくなっていたのだろう。今、ゲーム仲間との関係が心理的居場所になっており、ゲーム行動は対処行動とみなせる」と考えて診断をしない、あるいは保留にするかもしれません。

 このように、ゲーム障害の診断は、ゲーム行動を行動嗜癖あるいは対処行動のどちらかに焦点づけて解釈するかという臨床家の立場の違いによって、一致しないことがあります。

「ゲームと不登校」宮脇大

ゲーム障害は「社会性の障害」とされている。でも、ゲームのせいで不登校などの社会性の問題が起きているのかどうか、見極めるのは専門家でも難しいようだ。

 

そもそも、その枠組みの考え方自体が正しいのかどうか。本書でもそれは繰り返し出てきていることで、「そもそも登校に問題があるのではないか?」という点を注視すべきだという。

 ゲーム障害の子どもたちも、プレイしている様子を聞くかぎりあまり楽しそうではありません。楽しいからプレイするのではなく、いっとき現実を離れたい、自分の置かれている状況のつらさ、苦しみから逃れたいというそんな気持ちのように思います。自己治療としての依存症という位置づけは、松本俊彦先生をはじめとする先進的な依存症専門医が提唱し続けていることであり、ゲーム障害にも共通するように思えます。

「依存症専門医の考えるゲーム障害臨床」佐久間寛之

このあたりは、前にも書いた。自己治療仮説だ。

「ドクター、俺たちは、薬物を使用するのは、自分が安堵感を求めているからだと思い込んでるけど、実際は違うよね。安堵は10%、90%は悲惨さだよ」。

ゲーム障害とされかねない子どもがここまで言えるかは別として、そういう面もあるかもしれない。

学校での理不尽な思いを、コントロールできない苦痛を、コントロールできる苦痛に置き換えるためにゲームをしているのかもしれない。

 

まあ、いずれにせよ、「問題のあるビデオゲームの遊び方がある」というのはそうだろう。

人間だれしも、なにかに依存しているかもしれない。そう言い出すときりがないかもしれない。

 

自分の愛好しているものが社会の敵になったら?

 もちろん、不登校になって自室に引きこもり、ゲームや動画視聴に朝から晩まで没頭している、そんな子どもの姿が健康的でないことはだれでも想像ができます。しかしそれは、プロゲーマーを目指して日夜努力している子どもは、甲子園出場を目指して余暇時間のすべてを野球に費やしている子どもと何が違うのでしょうか。プロ棋士を目指して学校を中退した子どもとのちがいはどうでしょうか。そう考えるとあんだん境界が不明瞭になります。

「依存症専門医の考えるゲーム障害臨床」佐久間寛之

結局のところ、行動嗜癖、社会性の障害というのはここに行き着くような気もする。野球は健康なのか、将棋は健康なのか。あるいは、勉強はどうだ。たとえば「東大前刺傷事件」を起こした少年は、受験勉強依存症に陥っていたようにも見える。

ただ、自分の子どもを「ゲーム依存症かもしれません」と言って医者に連れてくる親はいるが、「勉強依存症かもしれません」という親はいない。

 

境界は不明瞭。野球ばかりやっていて、プロにまでなった人が、野球をやめざるをえなくなり、犯罪などを起こすなんて報道は珍しくもない。かといって、今のところ「野球障害」を訴える声は聞こえてこない

でも、いつ、どうなるかはわからない。勝利至上主義の部活動などへの批判的な意見はアスリートからも出ているが、いずれ「障害」や「依存症」になるかもしれない。

 

アルコールや薬物とはまた違う、行動嗜癖というもの。もちろん、「アルコール」についても、酒が禁じられている宗教国家とそうでない国家のもとでは扱いも変わってくるが。

まあとにかく、なにが病気なのか障害なのか依存症なのか。そのあたりについて、ゲームに限らず、自分の愛好するものがどうなるのか、自覚しておくことは大切だろう。

 

たとえば、タバコについて。日本社会が喫煙に対してどれだけ変化したか。おれは世代的に、タバコを常習的に吸っていたものとして、非常に大きく、非常に早い変化だったと思っている。

おれがはまり込んでいる競馬だってどうなるものかわからない。もし、社会の敵になったとき、なにを言えるのか、その用意だけはしておきたい。

 

 

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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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