キケロ
ある日おれは、図書館でキェルケゴールとキケロの本を借りた。なんの意図もない。なんとなく「き」が気になったからだ。そういう日もある。
キケロの名前は聞いたことがあるだけで、何時代の何人かも知らなかった。
マルクス・トゥッリウス・キケロ(ラテン語: Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日- 紀元前43年12月7日)は、共和政ローマ末期の政治家、弁護士、文筆家、哲学者である。
そうか、そんな時代の人だったか。おれは大学受験のために中学から世界史を優先して学ばされていたが(公立校の人は日本史に時間をとっているため、受験のときにライバルが少ないはず、という学校の方針)、なるほど三十年も経つとなにも覚えていない。
いずれにせよ、紀元前の人物だ。そのころ、日本人はなにをしていたのだろうか。こういう疑問をいだいたとき、おれは一冊の本を開く。
松岡正剛監修の『情報の歴史』という本である。「情報の歴史」とあるが、テーマごとにまとめられた世界史の年表だ。本当によく情報が整理されており、とても見やすい。見比べやすい。
「『アメリカ独立宣言』が採択されたころ、葛飾北斎が勝川春草に入門したのか」とかわかる。いや、これたまたま開いたところを書いただけだが、読んでいて飽きない。世界のあちらとこちらで関係なく時代は進んでいるが、関係があることもある。そういうものだ。
してこの本によると……キケロはいくつも太字になっている。ローマの変質という縦のラインのなかに
「紀元前51年キケロ、属州の長官として伝令使(1日24マイルの速度)」
「紀元前43年キケロ暗殺」。
キケロ暗殺とともに大きく「ローマ帝国の成立」。
技術と芸術の縦筋に「速記術キケロ ティロ」
「紀元前52年キケロ『国家論』刊」
宗教と思索の縦筋には「紀元前45年キケロ、ギリシア哲学をラテン語翻訳」
さらに大きな見出しとして「キケロ ギリシア哲学の紹介とトピカ(雄弁術)の発展」とある。
そのころアジアではアーンドラ朝が北インドを統一したり、中国は漢の時代で「戦国時代から口伝されてきた儒家の経典、すべての定本が書き写される」などとある。
あ、日本。日本はちょっとあとに「このころ弥生文化が東北地方に波及」とある。そんな時代もあった。
『老年の豊かさについて』
おれが借りたキケロは『老年の豊かさについて』(『老年論』)だ。薄かったから読みやすいだろうと思った。
それと同時に、このごろネットで名前を見てきたphaさんが『パーティーが終わって、中年が始まる』という本を出されていて(未読)、「おれも同世代だが、パーティーはなかったな」と思っていたところだった。そしてまだ、中年に抗いたいお年頃でもある。
そんな「年代」や「世代」について考えていたので、思わず「老年」に反応したのかもしれない。
老年。紀元前ローマの老年。キケロがこれを書いたのは62、3歳のことだ。そのあとすぐに暗殺された。とはいえ、当時で60歳といえば老年だろう。昭和の60歳も老年かもしれない。昭和は2000年前かもしれない。
この本の語り手は大カトーである。大カトーが小スキピオとその友人の若者に「老年も悪くないぞ」と説く。
大カトーはいつも語尾に「ともあれ、カルタゴは滅ぶべきである」と言っていたことで知られる。紀元前150年ころの人物だ。同じ頃インドでは「ミリンダ王の問い」の原型が成立し、中国では呉楚七国の乱が起きていた。
そんな時代もあった。
2000年読みつがれてきた「老年論」
とても古い本ということになる。とても古いがいまだに読むやつがいる。たとえばおれもその一人だ。長い歴史という審判を経て生き残ってきた本には、それなりのものがある。たぶん、そういうものだ。
内容については、翻訳者による解説で簡単にまとめられていた。
ここでカトーは、まず幸福な老年の実例をあげ、次に、老年に関する四つの悲観的通念(1、老人にはすることがない。2、老人には体力がない。3、老人には楽しみがない。4、老人は死に直面している)に反論する。
その内容は明快でわかりやすく、二千年以上をへだてた現代人にも十分通じるのは実に驚くべきことである。
なるほど、通じるか。通じるような気がする。
できるだけやってみよう、ラエリウス君。実際、よくあることだが、私と同年輩の人たちが、「類は友を呼ぶ」という古い諺通りに集まっては嘆くんだよ。ガイウス・サリナートルやスプリウス・アルビヌスなど、私とほぼ同い年で、以前は執政官まで勤めた人が、「年をとると何の楽しみもない。人生は無に等しくなってしまった」とか、「以前は我々を尊敬していた連中が馬鹿にするんだ」とかいうのだ。
でもこの人たちの愚痴は私には正当なものとは思えないね。なぜって、もしそういうことが老年のせいで起こるなら、私にも他のすべての老人にも起こりそうなものだが、高齢の人たちは大抵は文句も言わずに老年を過ごしているんだからね。
彼らは欲望の鎖から解放されたことを残念とも思っていないし、周囲の人たちから軽蔑もされてもいないんだ。そもそもそんな不平が出てくるのはみな性格のせいだよ。年のせいではないね。節度があって、気むずかしくもなく無礼でもない老人には、老年はそれほどつらいものではない。無分別で無礼な人たちは、人生のあらゆる時期を不愉快にしてしまうのだ。
老年の話のまえに気になった。「類は友を呼ぶ」っていつからあった言葉なのか。AIに聞いてみたら、出典があるものとして最初にキケロのこの本が出てきた。ほか、プラトンの『パイドロス』。日本語のそれの源流は中国の『易経』かもしれないが、べつになんの影響もなく生まれていた言葉だ。おまえの類友はだれだ?
閑話休題。
この後半で述べられていることは痛烈ですらある。むろん、老年になるにつれて前頭葉の機能低下で感情が抑えられなくなるのである、とか言うこともできるだろう。
しかし、「性格のせいだよ」と言われてしまうと、そういうものかとも思える。「無分別で無礼な人たちは、人生のあらゆる時期を不愉快にしてしまうのだ」という言葉で、自分の人生を不愉快にして、他人をも不愉快にしている人が思い浮かんだりしないだろうか。おれは自分の父親を思い浮かべた。おれ自身がどうなのかはわからない。
これはカトーの言葉(に託したキケロの言葉)である。これに対してラエリウスが「あなたは財産も地位もあるからそういうのに耐えられるんじゃねえの?」と問わせているのもさすがだ。
「老人にはすることがない」のか?
この調子で、四つの悲観的通念も論破している。論破という言葉もずいぶんいやな色がついていしまったように思う。いつか元に戻るのだろうか。
「老人にはすることがない」。これについては、老年にいたっても活躍した政治家、著述者の例をあげる。さらには自分のことも述べる。いつも忙しくて、なにか計画しているような老人の話をする。老人になって知識を深める人すらいるという。
かくいう私もその一人である。私は年をとってからギリシャ文学を学んだのだが、その貪欲なことといったら、まるで長年の渇きを癒そうとしているみたいだった。
この物言いには翻訳者が「カトーが年をとるまでギリシャ語を知らなかったとは思えない」と突っ込みをいれているが、まあいい。年をとってからさらに学べる人もいるだろう。はじめるのに遅すぎることはない。本当か?
「老人には体力がない」のか?
「老人には体力がない」。これについては、年をとったらとったで話し方にも落ち着きがでてくるし、悪いことばかりではないという。べつに腕力が落ちようとも嘆くこともないという。
要するによき賜物は、持っているうちは有効に使い、なくなってしまったら悲しまないことだ。さもないと青年は幼年時代を、壮年は青年時代をと、いつまでも惜しんでばかりいることになる。人生航路は定まっているのだ。自然の道は一つで、しかも一方通行だ。そして、人生の各々の時期には、それにふさわしいものが備わっているんだよ。だから少年期の虚弱さ、青年期の元気よさ、壮年期の重々しさ、老年期のまろやかさには、なにか自然なものがある。それをそれぞれの時代に享受すべきなのだ。
しごく真っ当な話に見える。しかし、なかなかそうもいかないのも人間というものだ。
中年になったおれは、いまだに青年期の意識でいて、さすがに肉体の衰えは感じるけれど、どうもそこまで老いていないと思いたい。ヒゲに白髪が混じっていたたら、白髪を必死に抜こうとする。
もっと若作りに力を入れている人の話なんて、いくらでも転がっているだろう。おれもきっとするだろう。あなたはどうだろう。
受け入れろといっても受け入れがたい。ただ、これが若さを至上の価値とする現代特有の精神かといえば、そんなところは2000年前からそうだったので、キケロもあえて述べているのだろう。
そしてまた、「適当な運動も必要だし、体力を回復させる程度の食物や飲み物も摂らなくてはならない」って言っていて、それは現代の最新科学でも言われていることだろう。運動が必要。瞑想、野菜、運動、睡眠……。
「老人にはなんの楽しみもない」のか?
「老人にはなんの楽しみもない」。これについてはこう反論する。
しかしなんとまあ素晴らしことではないか。老人は欲情や野心や敵意など、もろもろの欲望に仕えることを終えて、自分を取り戻し、世に言うごとく自分らしく生きるようになるのだ。まして研究や学問というような味わい深いものを持っていれば、閑な老年以上に楽しいものはない。
もろもろの欲望から解放されたら、それはすばらしい境地なのかもしれない。そうなれる老人ばかりではないのも確かで、たとえば現代日本の政治家の老人たちを見ていると、まだまだ欲望に仕えているように見える。
そうやって老いていける人間の方が多いのか、少ないのか。古今東西。
ところで、キケロは老年の楽しみとして農業、土いじりを挙げている。
挿し木や接ぎ木のおもしろさについて語っている。人間は紀元前から挿し木や接ぎ木をしていた。
農業って楽しいんだよ。耕地や牧場や葡萄畑や樹園だけじゃあなく、庭園や果樹園や家畜の飼育や蜂の群れや、あらゆる花の多様さが楽しく喜ばしい。植え付けばかりでなく、接木の技術も面白い。これは農業で最も巧妙な技術だねえ。
定年退職後に農業をはじめる老人、みたいなものも2000年前に通過していた。市民農園みたいなのを借りたりしたり、あるいは盆栽趣味なんてのも似たようなものかもしれない。
それにしても、なんだろうか、紀元前にもう「食うための農業」ではない「楽しみの農業」すら発見されている。このころ日本では、弥生文化が東北地方に波及していた。弥生文化を饒舌に語った文書はたぶん発見されていない。
「老年には死が近い」のか?
最後に「老年には死が近いということについて」。これはもう近い。しかし、冒頭からこんなことを述べている。
まだ第四の理由が残っている。私たちの年配の人間を一番苦しめ、不安にしているようにみえることだ。死が近いことだよ。確かに死は老年から遠く離れてはいないさ。だが、長生きしてきたくせに、その間に死など大した問題ではないと気づかなかったとは、何とも哀れな老人どもだ。死んだら霊魂が完全に消滅してしまうとしたら、死なんか全く無視してよいことだし、反対に、霊魂が永遠に生きる場所に連れていかれるなら、死はむしろ熱望されるべきものだ。この二つの場合しか考えられないじゃあないか。
いや、永劫に苦しむ地獄みたいなものも考えられるじゃあないか……と、言いたいところだが、この割り切りもすっきりしていて悪くない。もっとも大カトー(キケロ)はこうも言う。
私は人間の霊魂は不滅だと信じているが、もし私の考えがまちがっていても、まちがいを改める気は全くないし、それが気にいっているんだから、生きている限り奪い取られたくはないね。他方、つまらない哲学者どもが考えているように、死んだらなにもかもわからなくなるものなら、死んだ哲学者どもが私の誤りを嘲笑するのではないかと恐れる必要もないわけだ。
そして、長い航海を終えて港に入るように、適当なときに消え去るのがよいという。
人間、死すべきところで死ねぬのは不幸なものだという考え方もある。
だれだか知らないが、『コロノスのオイディプスの』でソフォクレスは「この世に生を享けないのがすべてにまして、いちばんよいこと、生まれたからには、来たところ、そこへ速やかに赴くのがいちばんよいこと」と言わせているらしい。これなんぞは反出生主義そのものだ。
あるいは、ヘロドトスが「人生は悲惨だ。死こそ最も望ましい隠れ家だ」と述べているらしい。これなども、日本の鎌倉仏教でいえば『一言芳談』かみたいなところだ。
おれの感覚にしっくりくる。そんな思想が、やはり2000年前に通過されていた。古典は読むべきものだ。
とはいえ、やっぱりあんた富裕層だろ
と、2000年前の「老年論」に驚かされるばかりだった。
しかし、やはり、「キケロさん、あんた富裕層だろう」という思いはある。健康な、富裕層。いや、キケロは「紀元前43年12月7日、アントニウスの放った刺客により暗殺された。このとき、キケロの首だけでなく右手も切取られて、フォルム・ロマヌムに晒されることとなった」という最期を迎えているのだが。
おれなどは、自分の老年を想像できない。老後の資金何千万円など用意できるはずもないし、持ち家もないので保証人も用意できずにホームレスになるだけだろう。ホームレスになってすぐに死ぬだろう。
それ以前に、おれは双極性障害を患っている。双極性障害者は平均余命が健常者に比べて「自殺を差っ引いても」短い。さらにおれは独身男性である。独身男性も死にやすい。
おれはおれが老年を迎えられるとは思っていない。もし、年齢だけましていっても、キケロの述べるような老年の豊かさは享受できないことは確定している。
この本が役に立たなかったかといえば、立たなかったといえる。2000年前に人類がたくさんのものを通り過ぎていたのだな、と思うばかりだ。そこはおもしろい。
しかしなんだろうか、おれは老年を迎えられない。なんのせいだろうか。たぶんカルタゴのせいだろう。カルタゴは滅ぶべきだろうか?
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(事業サービス責任者-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
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