式典と嫉妬
三十年以上前の話になる。記憶は曖昧だ。もう昨日のことも曖昧なおれの脳みそには断片しか残っていない。
学校の、式典のことだった。なんの式典だろう? おれは中高一貫校の出だ。中学校の卒業式かもしれない、高校の卒業式かもしれない。おれにはよくわからない。
よくわからないが、鮮明に覚えているシーンがある。おれとけっこう気の合った、仲のよかったやつが、証書の授与に行くところで、わざと転けたのだ。あからさまにわざと転けた。
それを理事長が「個性のある子もいました」というように褒めたのだ。おれはそれに嫉妬を覚えた。学校の理事長がわざと転けたふりをして、注目を浴びようとした生徒を褒めた。それだけのことなのに、なぜおれは嫉妬を覚えたのか。その理事長が、徳間康快という男だったからだ。
徳間康快という人間
おれがこのたび「徳間康快」という人間を思い出すきっかけになったのは、佐高信の『メディアの怪人徳間康快』という本である。
この本のあおりにはこう書いてある。
山口組・田岡組長を陰で支え、天才・宮崎駿を育て上げた夢の大プロデューサー、徳間康快。徳間書店を興し、『アサヒ芸能』編集長として部下を育て、難破船の『東京タイムズ』社長に就任、倒産寸前の『大映』の再建を請け負い、ダイアナ妃に出演交渉する。黒幕か?フィクサーか? それともメディアの怪人か? “濁々”併せ呑んだ傑物の見果てぬ夢を見よ!
この人がおれの中高を過ごした学校の、理事長だった。思わず本を手にとってしまった。おれはあまり「昭和の怪物」の伝記などは読まない。読まないが、ちょっとだけでも自分に関わりのあった名前となると、読みたくなるというものだ。
しかし、この手の本にはなにか癖がある。大人物と大人物を無理をしてでもつなげようとする。そして、著者自身とつなげようともする。結果として、主人公自体の分量は減る。そんな印象だ。それでも、取り上げられている人物が面白いのもあり、Wikipediaなど読みながら興味深く読めた。
して、徳間康快は1921年の生まれである。戦争中に20代を過ごした。この本は徳間康快の葬式のシーンから始まり、追悼文集が多く引かれているが、渡邉恒雄の次のような文章が印象に残る。
「徳間康快さんを初めて見たのは、私が共産党の東大細胞にいたころで、有楽町のガード下で、前妻宮古みどりさんと二人で寄り添った姿だった。『見た』と書いたのは、この読売新聞記者であった共産党員が、大変な大物に見えて、口もきくことができなかったからである。
徳間康快はナベツネの読売新聞での先輩であった。なおかつ共産党の先輩である。これだけでもなんかもう、「昭和の裏歴史」(そう裏でもないが)の一端という感じがする。
その徳間康快が書く仕事をしたのは早稲田大学のころだった。学費を稼ぐために、『横須賀日日』 という地元紙に勤めていた。その社長は鈴木東民という人で、この人もなかなかに興味深いのでWikipediaなどにあたられたい。
読売新聞の編集局長までやっていたが、戦時下で反ナチスの本を出すなどし、戦後は読売争議を闘争委員長として指導。その後、釜石市長を務めた人物だ。徳間はこういう人物からも大きな影響を受けている。
して、その徳間自身も労働争議で読売新聞を追われる。追われて、友人であった中野達彦が社長であった真善美社の専務となる。中野達彦は中野正剛の息子である。
真善美社では埴谷雄高の『死霊』を最後の賭けで出したりもした。その埴谷雄高がこんなことを言っていたという。
「……ぼくも『死霊』の印税をほとんどもらっていなくて、それで花田清輝が、ぼくが代表になって真善美社に皆の税金のとりたてに行け、というわけだよ。ところがそのとき真善美社はもう潰れかかっていて、いまの徳間書店の徳間康快が共産党の金をもって入ってきていたんだ。三十万円たしかもって入ってきたと聞いた。それでぼくは徳間に、おまえは金をもって入ってきたんだから、印税を払わなければだめだって交渉にいったんだ。
ところが徳間はもって入ってきた金は全部借金でなくなりまして、払えませんというんだ。それでぼくは同情して、じゃ、徳間、しっかりやって払えるようにしてくれといって帰ってきたら、花田が、おまえは皆の印税を払えという使者になっていったはずなのに、徳間にしっかりやってくれなんて激励して帰ってくるのはけしからんと怒ったんだけど……」
この調子である。いや、どの調子かわからんが、徳間康快はこうやって金のこともうやむやにしてしまう。
その後、今度は緒方竹虎が会長になって新光印刷という会社を起こしてクオリティ・ペーパーづくりを目指したりなんだりする。
『アサヒ芸能』の裏で
でも、徳間康快、徳間書店といえば、やっぱり『アサヒ芸能』ということになるだろう。これも経営不振に陥っていたタブロイドを引き受けて、「三流週刊誌」にしたものだが、これが大衆に受けた。
その後、徳間書店のグループが大きくなり、芸能や映画、スタジオジブリなんかに関わっていこうとも、『アサヒ芸能』の徳間書店というイメージは強かったのではないか。
けれど、徳間康快はその一方で竹内好などと「中国の会」の雑誌『中国』の発刊を引き受けたりしている。まだ日中国交回復前の話だった。
また、日刊紙への思いも捨てていなかった。持ち馬のトクザクラという馬が1972年の「牝馬東京タイムズ杯」(現在の府中牝馬ステークス、2025年から名称や条件など変更予定)を勝ったとき、『東京タイムズ』元社長から買収を持ちかけられたという。
徳間はこれを引き受ける。大赤字の会社だ。周囲は大反対する、社員も大反対する。それでも徳間は日刊紙の夢を捨てない。やはり、高級紙、クオリティ・ペーパーを志向する。
「いまの『東タイ』の紙面から、競艇、競輪の記事を追い出し、文化欄、とくに教育問題に力を入れていく。政治、経済、外交面の記事も、ひらがなを多くして、平易で読みやすくする。そしてその中心に社説がすわることになる。社説こそ新聞の顔であるからである」
この『東京タイムス』社長就任パーティーにはときの首相である田中角栄が訪れたりしている。
徳間は奮闘する。それでも新聞の売上は伸びない。そんななかでこんなエピソードが紹介されていた。
……社長は顔が広いので、いろんな情報を持っていて、掲載する内容に関しても自分なりに判断されていたと思います。例えばオウム真理教が総選挙に出たことがありました。広告を取るのは大変だったんですが、選挙広告は広告収入としては大きい。それでオウム真理教からも依頼が来ています、と広告局長が説明したら、社長は『それは、ダメだやめておけ。きっと問題が起こるから』と言っていました。そういう感覚、判断は鋭かったですね」
話がオウムのころまで飛んだ。『東京タイムズ』は1992年まで続いた。おれの記憶にはない新聞だ。とはいえ、徳間康快は『アサヒ芸能』ばかりではなく、高級紙を作ろうとしていた。そんなことは知らなかった。
徳間康快と映画
そんな徳間康快がさらに手を出したのが映画だ。1971年に倒産した大映を引き受ける。
そうしてできたのが『君よ憤怒の河を渉れ』であったりする。文化大革命後の中国で最初に公開された外国映画で、高倉健が中国で高い知名度と人気をほこったきっかけになった。また、日中合作映画の『未完の対局』を製作したりもした。
このように徳間康快の中国への思いは強かった。しかし、自らがゼネラルプロデューサーをしていた東京国際映画祭でのことである。中国から1993年『青い凧』、1997年『セブン・イヤーズ・イン・チベット』が出品される。これを中国共産党が気に入らず、上映中止の要請がくる。これを徳間康快は突っぱねる。その結果、中国映画当局は徳間康快に門戸を閉ざしたという。
その他の大きな仕掛けとしては、故ダイアナ妃への映画出演交渉だろうか。『阿片戦争』という映画にビクトリア女王役として出演交渉したのだという。「直接ギャラは受け取れないが、エイズ基金への寄付なら」というところまで話は進んだが、まだ離婚が成立しておらずイギリス王室の許可がおりなかった。しかしまあ、永田ラッパの後を継いだだけあってやろうとすることが大きい。
中国との関係が悪化したあとは、ソ連にシフトする。
そして作ったのが『おろしや国酔夢譚』だ。江戸時代、大黒屋光太夫という商人が漂流してロシアへ流れ着き……という井上靖原作の映画だ。主役は緒形拳で、先日なくなった西田敏行も出ていた。
『青い凧』、『おろしや国酔夢譚』……スクリーンで観たものである。「え、そんな渋い映画を観に行くような映画好きなの?」と言われそうだが、それは違う。学校のスクリーンで観たのだ。
ジブリ映画を封切り前に生徒に観せた理事長
そうである、おれは徳間康快が校長、理事長をつとめていた逗子開成という学校の出である。学校には徳間康快が作ったホール、ホールというか、映画館というか、そんな立派で新しい施設があった。そこで映画を観せてくれた。授業の一環なので、感想文を書かなければいけないが。
そこでおれは、封切り前のジブリ映画も観た。徳間康快はジブリの社長でもあった。『紅の豚』、『もののけ姫』。それに『On Your Mark』も観せてもらった。これはちょっと貴重なんじゃないか。
上映前に教師が言ったものだ。「関係者の試写会以外で観るのは君らが最初だ」と。
こんな学校ほかにはないだろう。その流れで、徳間の映画も観たし、中国映画も観た。すすんで映画館に行こうというわけではなかったおれには貴重な体験だったかもしれない。あるいは、そのあとたまに映画館に行くようになっったきっかけになったかもしれない。
徳間康快とジブリ。『風の谷のナウシカ』を映画化するとき、徳間康快に宮崎駿を引き合わせた人はこう言われたという。
「おい、あの宮崎という男はいい顔をしている。目つきがいい。おまえもよく見習え」
宮崎駿は徳間康快の葬儀でこう述べた。
「私達は、社長が好きでした。
社長は経営者というより、話をよく聞いてくれる後援者のようでした。
企画についても、スタジオの運営についても、現場を信頼してまかせてくれました。
よく『重い荷物をせおって、坂道をのぼるんだ』とおっしゃって、リスクの多い無謀ともいえる計画にも、すばやく決断をしてくれました。映画がうまくいけば、大喜びしてくれました。うまくいかなくても、平然として、スタッフの労をねぎらってくれました」
そんなジブリが徳間康快を画面に描いてしまったのが、宮崎駿監督作品ではないが、『コクリコ坂から』である。
おれはこの作品を観て、一番最初にきた感想が「徳間理事長じゃないですか!」だった。
徳間康快と教育
というわけで、徳間康快は出身校である逗子開成の校長にもなっていた。ことの発端は、学校の山岳部で遭難事故があってもめているところに仲裁をたのまれ、それを解決した流れで理事長に就任した。
そのころの逗子開成。そもそも神奈川県には県立高校を百校作ってみんな進学できるようにする、みたいな計画があった。実際、作られた。もちろん、いい学校もできたが、悪い学校もできた。そして、その悪い学校にも入れない生徒も出てきた。
言葉は悪いが、そういう公立にすら行けない生徒を拾ってきたのが逗子開成という私学だった。もちろん、そんな生徒だらけなので、荒れに荒れていた。底辺校といっていい。
『徳間康快追悼集』に石原慎太郎がこんなことを書いていたという。
石原が家から出て町や駅に向かう広くもない道を生徒たちがいっぱいに広がってふざけ合い、車が間近まで来ても、道を開けようともしない。はた迷惑この上もなかった。
「それがいつの頃からか、生徒たちの登校下校の姿が段々に変わってきて今では実に整然としたものになってしまった」
変化は徳間が理事長に就任してから起こったという。そのことを石原は最初知らなかった。
「たかが地方の高等学校といわれるかも知れないが、あの変化の素晴らしさはまさにリーダーの腕と情熱の所産であって刮目に値するものだった」と石原は書いている。
後日、何かの折りに石原がそう言ったら、
「そうなんだよ、随分頑張ってやったんだよ。君の目にもそう見えて嬉しいよ」と徳間は破顔したという。
これを、おれが教師から直接聞いた話だとこうなる。「学校が底辺校として荒れていた時代は、受験料と学費を取るばかりでなにもしなかったので内部留保はたくさんあった。ところが徳間康快が来てから、全部使い切ってしまった」。
そう、徳間康快は使い切った。もちろん映画を観られる記念ホールもそうだ。「消毒されている水道の水をそのまま飲んだら、カルキで頭が働かなくなる」といって最上級の冷水器を設置したり、三越や帝国ホテルに負けないくらいの女性用トイレを作ったり(男子校だが、その母親を取り込むため)、「目の前が海じゃないか。海は世界に通じているんだ」といって海洋教育センターを建てたりした。
こう言って波打ち際に宿泊できる海洋教育センターを建て、工作室をつくって生徒に一人乗り用ヨットを製作させた。それを相模湾で帆走実習させたりしたのだが、生徒数が多くなると、コストやスペースの問題で難しくなり、挫折している。
いや、ヨット作らされたね。日本海軍の造船所にいたといおじいさんが来て、OPヨットというのを作らされたんだ。それで、逗子の海をプカプカとな。いま思えば、なかなかに面白い思いをしたものだ。
こんな教育者がいてもいいじゃない
思い出話しは尽きないが、ここらでやめる。「重信房子とは仲がいいから、パレスチナにジープを送った」と言ったり、山口組の田岡一雄の葬儀に一億円の小切手を持って行かせたり、エピソードも尽きない。
「清濁併せ呑む」ではなく「濁濁併せ呑む」のを自称していたという徳間康快。宮崎駿には「自分が成功したのは教育だけだ」といったらしいが、まあそうだろう。
逗子開成、おれが中学受験をしたときは、神奈川の中学受験界でも偏差値最低レベルだった。ただ、映画に海洋教育におしゃれな制服に。そして、それが今や……ちょっとは偏差値もマシになっているんじゃないだろうか。おれも慶應にストレート合格して少しは貢献したかもしれない。すぐに中退したからマイナスだったかもしれない。まあそれはいい。
今ならコンプライアンスやなにかですぐにアウトな人物が、中学と高校の理事長だった。いま思えば、遠回しに影響を受けていたかもしれない。そんなふうに思うのも悪くはない。
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(2024/12/6更新)
【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
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