今は誰でも書いて発信できる時代になった。誠に喜ばしい。これこそ真の意味で、大衆文化の時代だと思う。

だが、残念ながら「大衆文化」はこれまであまり肯定的な文脈で捉えられることはなかった。大量消費文化と同一視されることが一般的だったからだ。

 

例えば、ヘブライ大学のユヴァル・ノア・ハラリは現在の支配的な考え方である消費主義について皮肉を言う。

今日では殆どの人が資本主義・消費主義の理想を首尾よく体現している。この新しい価値体型も楽園を約束するが、その条件は富める者が強欲であり続け、更にお金を儲けるために時間を使い、一般大衆が自らの渇望と感情にしたい放題にさせ、ますます多くを買うことだ。

これは信奉者が求められたことを実際にやっている、史上最初の宗教だ。

だが引き換えに本当に楽園が手に入ると、どうしてわかるのか?それはテレビで見たからだ。*1

発信手段を独占していたマスメディアは企業と結びついて消費を促し、多くの人が「何を買うか」「何を所持しているか」で自らのアイデンティティを確立しようとした。

いわば、マスメディアに形作られた大量消費文化が、今までの大衆文化だった。

 

しかし、webの登場はこの図式を変えた。発信手段はすでに、各人の手の中にある。

いわば、「大衆発信文化」の誕生だ。

webはすべての人が自由に発言できる場を与える。SNSからブログ、ウェブサイトのコメント欄に至るまで、我々はありとあらゆる場所に意見を残すことができる。

そして、大衆発信文化は、我々に大きな快感である「他者からの承認」をもたらす。

みれば、スマートフォンの中には「他者からの承認」が溢れている。

 

「5人で焼肉に行きました!やっぱり肉は最高っす!」 50いいね!

「3年勤めた◯◯をやめて、フリーランスになりました」 120いいね!

「結婚しました。ご報告します」 500いいね!

 

web上での承認欲求を観察すれば、「発信が見られること」が恐ろしく重要になりつつあることがよく分かるだろう。

大衆はもう、何かを消費することだけでは満足できない。「人に認められる/見られるために何かをする」という行動が大きく増えたのは、そのためだ。

参考:【大学探訪記 Vol.24】研究テーマは「ネットがあるから、現実の行動が変わる。」

 

 

しかし「何かを発信すること」が完全に自由であるのかと言えば、そうではない。なぜならば、発信することは、本質的に不正義を含んでいるからだ。

それゆえ、我々が認識しなければならないのは「何かを発信することには最低限のモラルが求められる」という事実だ。

 

 

作家の高橋源一郎氏は、この事実を鋭くえぐる。氏は著作「威張るな!」*2において太宰治の「親友交歓」*3という作品を取り上げ、「もの書くひとは、それだけで不正義」とする。

 

親友交歓の中では、作家として成功した太宰治のもとに自称「親友」の農民が突然訪ねてくる。

その自称「親友」は、家に上がり込むと「酒を飲ませろ」「嫁に酌をさせろ」「秘蔵のウイスキーをよこせ」「配給の毛布をくれ」と太宰に無礼の限りを尽くし、酔って太宰に罵詈雑言を浴びせ、さんざん絡んだ挙句、最後に捨てぜりふを残して去る。

「さ、帰るぞ、俺は。お前のかかには逃げられたし、お前のお酌では酒がまずいし、そろそろ帰るぞ」
 私は引きとめなかった。

 彼は立ち上って、まじめくさり、

「クラス会は、それじゃ、仕方が無い、俺が奔走してやるからな、後はよろしくたのむよ。きっと、面白いクラス会になると思うんだ。きょうは、ごちそうになったな。ウイスキイは、もらって行く」

それは、覚悟していた。私は、四分の一くらいはいっている角瓶に、彼がまだ茶呑茶碗に飲み残して在るウイスキイを、注ぎ足してやっていると、

「おい、おい。それじゃないよ。ケチな真似をするな。新しいのがもう一本押入れの中にあるだろう」

「知っていやがる」私は戦慄せんりつし、それから、いっそ痛快になって笑った。あっぱれ、というより他は無い。東京にもどこにも、これほどの男はいなかった。

もうこれで、井伏さんが来ても誰が来ても、共にたのしむ事が出来なくなった。私は押入れから最後の一本を取り出して、彼に手渡し、よっぽどこのウイスキイの値段を知らせてやろうかと思った。それを言っても、彼は平然としているか、または、それじゃ気の毒だから要らないと言うか、ちょっと知りたいと思ったが、やめた。ひとにごちそうして、その値段を言うなど、やっぱり出来なかった。

「煙草は?」と言ってみた。

「うむ、それも必要だ。俺は煙草のみだからな」

小学校時代の同級生とは言っても、私には、五、六人の本当の親友はあったけれども、しかし、このひとに就いての記憶はあまり無いのだ。

彼だって、その頃の私に就いての思い出は、そのれいの喧嘩したとかいう事の他には、ほとんど無いのではあるまいか。しかも、たっぷり半日、親友交歓をしたのである。私には、強姦ごうかんという極端な言葉さえ思い浮んだ。

けれども、まだまだこれでおしまいでは無かったのである。さらに有終の美一点が附加せられた。まことに痛快とも、小気味よしとも言わんかた無い男であった。玄関まで彼を送って行き、いよいよわかれる時に、彼は私の耳元ではげしく、こうささやいた。
「威張るな!」

この一言に、太宰治は怒ったのか、と言えばそうではない。むしろ逆だ。これこそ、彼にとって真摯に受け止めなければならない事件だった。

それを彼は「やりきれない」と評する。

この事件は、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いっこうに、ジャアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡こんせきを残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである。

 

 

高橋源一郎氏は、ここに太宰治の、「何かを発信できる人物」が持つべきモラルを見出す。

氏は、以下のような意見を述べる。

ものを書く人はそれだけで不正義である—–作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセーを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを書くことにたずさわるようになって数十年、ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気づかざるをえなかったのはそのことだけである。もの書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかつたかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝(けんでん)することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。

 太宰を訪れた「親友」は、もの書かぬ人の代表であった。それは読者ということさえ意味していない。もの読む人はすでに半ば、もの書く人の共犯であるからだ。もの書かぬ人は、もの書く人によって一方的に書かれるだけである。おまけにそれを読まないものだから、どんな風に書かれているのか知らぬ人である。もの書かぬ人はそのことを本能で知っているものだから、ひどく悲しくて、もの書く人の前に来て悪さをするのである。もの書く人である太宰は、もの書かぬ人の全身を使っての抗議に、ただ頭を下げるだけである。もの書く人太宰は、もの書くことの「正義」という名の不正義を知る数少ない作家である。だから、もの書かぬ人の乱暴狼籍にも文句をいわない。文句をいわれないから、もの書かぬ人はいっそう惨めな気持ちになる。

「馬鹿帰れ!」とか、「お前は親友でもなんでもない!」とか、「ふざけるな!」とかいわれたなら、そのもの書かぬ人は救われるのである。もの書く人が、単なるカッコつけの、正義面した、インチキくさい野郎であることが暴露され、そのことによってもの書かぬ人は安堵することができるからだ。だが、太宰はもの書かぬ人のいうことに唯唯諾諾と従うばかりである。そして、そのすべてを太宰が書くであろうことをもの書かぬ人も太宰も知っているのである。
 では、なにも書かねばいいのか。それでは、もの書かぬ人を拒んだことになる。では、書けばどうなるのか。それでは、もの書く人がもの書かぬ人に対して作家個人の「正義」を押しつけたことになる。どちらを選んでも、救いはないのか。いや、ひとつだけあるのだ。それが、「威張るな!」のひとことである。

 もの書く人ともの書かぬ人は不倶戴天の敵同士である。そして、ふだんはそのことに気づかぬふりをしているのである。だが、「親友交歓」の中で、もの書く人ともの書かぬ人はそのことに徹底的に気づくのである。馬鹿なのはもの書く人の方である。なにをしていいのかわからぬのである。だからもの書かぬ人は先に「威張るな!」といったのである。それは「わかった」ということなのだ。「お前の立場を理解した」ということなのだ。「この溝は超えらぬ。だから、お前はいつでもその不正義を行使するがいい。おれは死ぬまで、お前のやることを見ているぞ」といっているのである。そのことをもの書く人にいえるのは、もの書く人の敵だけである。敵だけが「親友」になれるのだ。

 ぼくたちは、その「敵」のことを「他者」ということばで表現している。そして、その敵に寄せる思いを、「他者への想像力」と呼んでいる。おのれの「正義」しか主張できぬ不遜なもの書きの唯一のモラルは「他者への想像力」である。だが、そのいいかたはすでにきれいごとであろう。必要なのは「威張るな!」のひとことである。最低のもの書きのひとりとして、ぼくはそのことを烈しく願うのである。

そう言えば、我々は皆マスメディアが嫌いである。

そして、マスメディアを叩く人の気持ちは、まさに太宰治に農民が「威張るな!」と言った気持ちと同じではないだろうか。

しかし現在、その「威張るな!」は発信手段を得た我々自身に向けられている。

 

「発信できる」ということは、同時に不正義を行使することでもあり、モラルを求められる。

だから、今は威張ってはいけない時代だ。

大衆発信文化は、そのことを否が応でも、我々に見せつける。

 

 

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Mario AV

 

 

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*3太宰治 親友交歓 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2271_34630.html(青空文庫)