【大人】 

成長して一人前になった人。 

㋐一人前の年齢に達した人。「入場料―200円、子供100円」⇔子供。 

㋑一人前の人間として、思慮分別があり、社会的な責任を負えること。また、その人。「―としての自覚」「青臭いことを言ってないでもっと―になれ」 

㋒昔は、元服後の男子、裳着(もぎ)を済ませた女子。 

goo辞書より 

「大人になる」とは、一体どういうことでしょうか。 

上掲ののように、一定年齢をもって「大人」とみなすのも一つの定義です。

ただ、世間には「あの人は大人気ない」「自分は大人になりきれてない」などといった言い回しが溢れているわけで、入場料や切符の値段が大人料金になったことをもって「大人になった」と考える人はあまりいないでしょう。 

  

「あの人は大人気ない」「自分は大人になり切れていない」と私達が語る時、想像されている「大人」とは ㋑「思慮分別があって、社会的な責任を負える」のほうです。

もっと具体的な含意としては、経済的・精神的に自立しているだとか、自分の人生に責任を持っているだとか、そういったものが含まれているわけで、シンプルに年齢だけを指す「成人」とは意味合いが違います。 

    

精神年齢の進まなかったおじさん/おばさんを避ける条件   

「大人」という言葉は曖昧なニュアンスを含み、その定義も人によってまちまちです。ですが、あえてひとつの条件に絞るとしたら、私は、「世代や立場が違う人に、その違いを踏まえて対応できること」が「大人」の第一条件だと思います。 

 言い換えると、自分の世代のことしか考えられない人、自分の世代の目線を年下世代にそのまま適用している人には、「大人」という言葉が似合いません。

 

干支が一回り以上若い世代に、自分の世代の価値観や考え方をそのまま当てはめてしまう人は、古臭くみえると同時に、「大人気なく」みえるでしょう。

たとえば、昭和時代の若者にありがちだった価値観や振る舞いを、年下世代に当てはめて考えてしまい、それに同意が得られないといって腹を立てる人は、かなり「大人気ない」人とうつるはずです。 

 

ロスジェネ世代や、ゆとり世代も、それは同じ。時が流れ、自分が若者だった頃とは若者の内実が変わっているにもかかわらず、そのことを自覚せずに振る舞っていれば、年下世代からは「精神年齢の進んでいないおじさん/おばさん」とうつることでしょう。 

「精神年齢の進まなかったおじさん/おばさん」にならないためには、自分が歳をとったことを自覚し、かつて、自分達が若者として占めていた社会的ポジションを年少世代が占めていて、もはや自分達のものではないと認めなければはじまりません。

そして、自分よりもずっと年下の人達が、自分とは異なった時代・状況のなかで異なった思春期を生きているという事実を意識し、その意識に即した振る舞いを実践しなければならないでしょう。 

  

もちろんこれは、「早く老けなさい」などと言いたいわけではありません。  

なかには、何歳になっても肌が若い頃と変わらない人、エネルギッシュな行動力を保ったまま年を取っていく人もいます。それはそれで大変結構なことです。

しかし、どれほど若々しく年を取っていくとしても、四十歳の人間は、二十歳の人間からは二倍の年齢を生きた人間とうつりますし、挑戦する側というより挑戦される側、これから出来上がっていく者というより既にできあがっている者とうつるでしょう。

自分が歳をとるにつれて社会的ポジションが変化し、自分よりも年下の世代からは若者とはみなされていないことを意識できなければ、「精神年齢の進まなかったおじさん/おばさん」の典型となるでしょう。 

 

世代や立場の違いを意識するための近道

では、世代や立場の違いを意識できる「大人」になるためには、どうすれば良いのでしょうか。   

原理的には、答えはシンプルです。 

世代や立場の違いを意識せずにいられない生活をしなさい」。 

  

たとえば子育てをはじめた父親や母親は、新生児という、どこからどう見ても世代や立場の違った他者に直面します。

「親が子どもを世話し」「子どもが世話を受ける」生活の積み重ねは、親と子どもの世代や社会的ポジションの違いを親に痛感させます。

ネグレクトや虐待に走ったり、子育てを思春期の敗者復活戦にしたりしない限りにおいて、子育ては、親に「大人」たることを促します。 

  

また、職場においても、指導される立場から指導する立場へ、責任を委ねる立場から責任を取る立場へとキャリアアップしていけば、立場の違いを突き付けられます

いや、なかにはキャリアアップしても指導もせず責任も取らないロクデナシが存在するのかもしれませんが、ちゃんと指導をして責任を取るような仕事をしている限り、年下の新人に対する目線が「大人」寄りになっていくでしょう。 

  

似たようなことが、趣味の世界のコミュニケーションなどでも起こるかもしれません。

たとえば同人誌制作のコミュニティ、たとえばゲーム愛好家のコミュニティにおいて、ベテランとルーキーが持続的な接点を持つ時、年長者が年少者に感じる感慨というのは小さなものではないと私は思います。

知っているアニメやゲームの種類が違う、同じ作品を眺める目線が違う、そして若さゆえに冒しがちな失敗の気配に気づくetc……そういったかたちで、自分が歳を取ったということ、そして年少者がかつての自分と同じ年齢を経験ししかして同じではない時代の思春期を呼吸していると実感するチャンスはそれなりにあるはずです。 

 

コミュニケーションが少ないと「大人」になれない  

逆に言うと、家庭や職場やコミュニティで年少世代と接点を持つ機会の乏しい人が「大人」になる(=世代や立場の違いを意識できるようになる)のは難しいだろう、と想定されます。 

子ども世代を育てたり教育したりせず、職場で年少者を指導したり庇ったりせず、種々のコミュニティで年少者と接する機会も乏しい人は、世代や立場の違いを実感する機会がそのぶん少なくなってしまいます。 

  

世の中には、経験を経ずに自分の頭で考えるだけで、世代や立場の違いを意識できる凄い人もいるかもしれません。   

ですが世の中の人間の大多数は、経験や努力を経てようやく、「ああ、自分は年上という立場になったんだな、そして過去の自分は年下という立場だったんだな」と実感が伴ってくるものだと思います。

だとすれば、一握りの凄い人を除くと、年下世代とコミュニケーションを持つ機会が得られない人達は、「大人」になるためにエッセンシャルな経験を積むことができない、ということになるのではないでしょうか。 

  

昔の農村社会ならともかく、今日の都市や郊外において、年少世代と接点を持つ機会、とりわけ世代や立場の違いを意識しやすく、ある程度経験を積み重ねていけるような接点を持つ機会は限られています。 

たとえば、独り暮らしをしている現代の中年男性が、よその子どもと関わって世話を焼く機会は、あまりありません。

教職に就いているとか、地域の子どもスポーツチームの指導をしているとかでない限り、自分の子ども以外の子どもに対して「大人」をやる機会は得られにくいでしょう。へたに子どもに声をかけようものなら、不審者扱いされてしまいかねません。 

  

仕事の世界でも、人的流動性が高くなり、成果主義が叫ばれ、テクノロジーが日進月歩の昨今の状況のなかで、年長者が年少者に「大人」を引き受けられるようなポジションが、一体どこにどれだけあるでしょうか。 

趣味のコミュニティにしても、同世代同士がダンゴのように寄り集まったタイプのコミュニティでは、このような「大人」にまつわる経験は得られません。 

  

以前私は、大人は「なる」ものではなく「やる」ものだ)というブログ記事を書いたことがありますが、現実には、この、大人を「やる」ための機会が異様に少ない社会になってしまっているように思われるのです。 

  

も大人になるための機会を提供してくれない 

子どもを育てたり年少者の育成に力を注いだりするのは、もちろん苦労なことですし、そのような苦労に関わりたくない人は関わらなくても構わない社会のおかげで、なんとか生きていられる人がいるのも事実でしょう。

誰もが「大人」に強制的にアップデートされることのない現代社会は、ある面では優しい社会だと思います。 

  

その反面、自分が親になるとか、仕事で特定の立場に就くとか、世代の異なるコミュニティに自ら飛び込むかしない限り、「大人」をやる機会が得られない――

そして、それらすべてがコミュニケーション能力をしばしば要求する――

現代社会は、「大人」をやりたいと内心では思っている人にも、その「大人」をやるための経験の機会をなかなか提供してくれない、厳しい社会であるように私には思われます。 

  

20世紀からこのかた、「日本人は未熟になった・大人になっていない!」、といった指摘は心理学者や精神科医によってしばしば為されてきましたし、そういった見地もあるかもしれません。 

ただ、その一背景として、そもそも「大人」をやるための機会、すなわち年少世代と接点を持つ機会が社会からどんどん減って、その希少な機会を得た者だけが「大人」たるための経験を積み重ねることができるようになったという、社会の変化を見定めずに「日本人は未熟だ・大人になっていない!」とディスるのは、なんだか不公平だなぁ、と思わなくもありません。 

  

いつまでも「大人」にならない・なれないのは、年下世代からみて「大人気ない」ことに違いありませんが、一体、どこの誰が、その「大人」をやるための機会をどうやって提供してくれるのでしょうか?

誰もが長生きするようになり、出生数が先細っていく今だからこそ、そういった心理的成長の機会のこれからのありかたが、私、ちょっと気になります。 

 

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(2024/3/26更新)

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

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