映画監督の押井守さんが、著書の『ひとまず、信じない情報氾濫時代の生き方』(中公新書ラクレ)のなかで、こんな話をされていました。

僕の父は明治生まれのデタラメな男で、村始まって以来の秀才だと周囲の期待を一身に背負い、青雲の志を抱いて東京に出てきた。

そこまでは良かったが、結局は望んでいた法律家になる夢が破れ、最終的には私立探偵や髪結いの亭主をやって、まともに働くこともしなかった。ふだんは酒に酔って大暴れをしているだけで、家庭内では暴君だった。末っ子の僕は被害に遭わなかったが、一番上の兄が何度も理不尽に父親に殴られているのを見た。

結局、父は何一つ自分にとっての優先順位を決めることができないまま、「立身出世できなければ、男としてはクズだ」という価値観だけに縛られて、不満を抱えただけの人生を終えた。父が亡くなったとき、最期を見届けた姉が「自分が死ぬことも信じられない、というような顔をしていた」と話していたのを思い出す。

おそらく本当に、自分がそんな人生を送り、何一つ実現することもないまま、幕が下りようとしているのを信じられなかったのだと思う。これは本当の不幸だ。

 

一方、こういう人を父に持ったことは兄の価値観に大きく影響した。僕が幼いころから兄が「自分はあんな父親にはならない。家庭人になる。食ってさえいければ、仕事は何でもよい」と言っていたのを覚えている。

事実、兄はそういう人生を送った。家族を優先順位の一位に据え、おそらく幸福な一生を終えた。最期はガンで亡くなったが、残された妻や子どもたちから、いまだに兄は愛されているようで、彼らの口から今でもよく父親の話を聞かされる。

「立身出世できなければクズ」という価値観を持つこと自体が悪いわけではない。だが、そんな夢を果たせるのは男の中の5%くらいのものである。成人後は幸福な一生を送った兄も、父の価値観ではクズの部類になるのだろう。では、出世できなかった95%は本当にクズなのかというと、そんなことはない。

これを読んで、僕は身につまされました。

この父親って、僕のことではないか、と。

いちおう、今はそれなりに働いていますし、酒に酔って大暴れをすることもありませんが、僕は40代半ばにあっても「自分のなかでの優先順位」を決めることができずに、何かを諦めることもできず、「すべてがいつのまにかうまくいったらいいのにな」みたいな夢を見続けている、という現実を突きつけられた気がしたのです。

 

もちろん、すべてがうまくいく、という可能性も、まったくゼロではないのでしょう。

でも、そんなことは、まず現実的ではない。

立身出世しようと思えば、家庭生活にかける時間よりも、仕事や研究にかける時間を優先しなければなりません。

時間というものが限られている以上、人生の時間配分を決めなくてはならない。

 

押井監督は、これを「良い映画を作るための条件」にあてはめています。

映画の世界で考えてみよう。「良い映画を作るための条件とは?」と聞かれて、あなたは何と答えるだろう。

「良い原作があって、良い脚本があって、良い監督がいて、良いキャスティングができて、良いスタッフがいて、良い宣伝ができたら、良い映画ができます」

もしもあなたが映画監督で、スタッフに「良い映画を撮るための条件は?」と聞いて、そんな答えが返ってきたら、ためらわずにスタッフをクビにした方がよい。そんなことは、どんな馬鹿でも言える。なぜならそれは、当たり前のことだからだ。

大事なのは、そのいくつかの要素のうち、自分は何が重要だと思うのか。どれを優先すべきと思っているのか、ということにほかならない。

そして、そこには優先順位をつけるための根拠が必要となる。その根拠に、その人ならではの価値観が現れるのである。

何かを選ぶということは、何かを諦める、ということでもあります。

どちらが正しい、ということではなくて、その優先順位を自分自身で決めて、それを全うできれば、結果がどうあれ、「幸せ」なのだと押井さんは仰っているのです。

 

今の世の中って、「仕事はほどほどにやって、定時に帰宅しましょう」とか「仕事よりも家族を優先しましょう」なんていう考え方が、かなり広まってきています。

大部分の人は、「すべてを犠牲にして、仕事に打ち込んで成果をあげる」よりも、「家庭生活に重きを置いて、身近な人たちを愛し、愛されて寿命を全うする」ほうが、成功率が高いはず。

 

冒頭の押井監督のお兄さんは、父親を反面教師として自分の優先順位を決め、それを貫いたのです。

こういう生き方をすると、それはそれで「単なるマイホーム主義者で、社会的な業績を残していない」と批判されることもありそうです。

 

でも、外野がそんなふうに値踏みしたとしても、本人にとっては「ちゃんと目標を達成した」ということなんですよね。

そして、「仕事人間」も、それが本人の望んだ道であり、それに伴う犠牲も受け入れる覚悟があるのなら、けっして、「悪」でも、「間違い」でもないのです。

 

実際は、バランスをとっているつもりで、結果的に、仕事も家庭も中途半端になってしまう、ということばかりなのだけれど。

仕事がイヤになると、家庭を大事にしようと思い立ち、家庭がうまくいかないと、仕事があるから、と考えようとする。

結局、どっちつかずになってしまう。

そうやって、中途半端に終わるほうが、「人間らしい」とも言えるのでしょうけど、それで、自分の人生に満足できるのだろうか。

 

世の中には、大きな仕事をした(している)人に対しても、その人生において欠けているもの(優先順位が低かったもの)をあげつらって、「でも、あいつの人生には、○○が足りない」と嘲る人がいます。

たとえば、村上春樹さんや武豊騎手、イチロー選手に「でも、この人たちは、子どもがいないよね」って、言う人たち。

押井さんは、こう仰っています。 

定年まで仕事一筋ということで生きてきたのであれば、定年時に妻から「あなたとはこの先、一緒に暮らしたくありません」と通告されても、「それは仕方ない」とあきらめるしかない。そこに優先順位を置かなかったのだし、そこまで覚悟を決めていたのであれば、寂しい老後が待っていたとしても何の問題もない。

そういう人間は映画業界にはいくらでもいる。僕がよく知る宮崎駿監督だろうと、高畑勲監督だろうと、あるいは鈴木敏夫プロデューサーも、みな家庭難民みたいなものだ。

仕事ばかりして、家庭に下宿しているようなものだ。奥さんや子どもたちともコミュニケーションが取れているとはとても思えない。

ただ、その3人は家族とのコミュニケーションなど、もともと求めてもこなかった。このオヤジたちに「あんた、人生を後悔していないの?」と聞いたら、必ず「後悔なんか、するわけないじゃないか」と答えるに決まっている。

つまりは3人とも、幸福な人生を送ってきたということだ。それは、3人が映画の監督やプロデューサーとして成功したからという話でもない。今のような成功を収めていなかったとしても、彼らは後悔などしなかっただろう。そこで後悔するような人間だったら、そもそも今のポジションにはいなかっただろう。

正直なところ、いまの僕のように、40歳をすぎてから、「優先順位」を決めようとしても、これから仕事で大きな成果をあげたり、家族との関係が劇的に変化したり、というのは難しいと思います。

この「人生の優先順位を決める」というのは、20代、あるいは、社会人になって数年くらいの時期に、やっておいたほうが良いのでしょう。

ただ、宮崎駿監督とか、ノーベル賞を受賞した研究者の場合は、「優先順位を決めたというより、自分が好きなこと、やりたいことをやる、やらずにはいられない、そういうふうにしか生きられなかった」ような気もします。

 

「優先順位を決めなくては」と迷って、それを意識せざるをえないような時点で、仕事で飛び抜けた成功を収めるのは難しいのかもしれませんね。

 

僕も「自分が死ぬことも信じられない、というような顔をしていた」と言われることになるのだろうか、それは、すごく怖くてむなしい。

その一方で、大部分の「ふつうの人生」って、そういうものなのかな、とも思うのですが。

 

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(2024/3/26更新)

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

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(Photo:tanjila ahmed)