隷従への道―全体主義と自由ノーベル経済学賞を受賞した、フリードリヒ・ハイエクは景気循環や、知的所有権、自由主義の推進などにおいて、様々な業績を残した。

 

私は専門家ではないので、過剰な言及は避けるが、著作を読んで面白いな、とおもったのは「隷従への道」での一節だ。

 

彼は「強力な政党」はどのように組織されるか、という命題に対して以下のように考察している。

 

”あるグループが圧倒的な権力を獲得するために必要なことは、同じ一つの原則を少しでも深く追求することであり、また、その時々の選挙における多数の指示などではなく、少数でも非常に徹底して組織された母体集団の、絶対的で無条件の支持にその力を求めることであった。

全国民に全体主義体制を押し付けることができるためには、指導者がまず最初に、自分の周りに全体主義原理に進んで従う意志のある人々を結集できていなければならない。そしてこの人々が、力ずくでこの原理を、他の人に押し付けていくのである。”

 

これを読んで思い当たったのが、「強力なカリスマ経営者」を擁する企業だ。

カリスマ経営者は一つの原理、考え方に非常に固執する傾向にある。そして、徐々にそのまわりにはYESマンが集結し、ついにはその側近たちが他の社員たちに、カリスマに追従するように圧力をかけはじめる。原理は教義と化し、それについて異論を挟む人は放逐される。

そういう会社はいくらでもある。そして、そういう会社は時として強力なリーダーのもとで大成功する。そしてこう云うのだ。

「やっぱり、経営理念に従う人だけで経営するべきである」と。

 

 

ところが、ハイエクはこれを批判する。

 

”ところがこういった、構成員が全く同じような思想を持つ強力で人数の多いグループは、社会の最善の人々からではなく、最悪の人々から作られる傾向がある。これは主として、次に述べる3つの理由によっている。

 

①一般に、教育や知性の水準が高くなると、人々の考え方や趣味嗜好は多用になっていき、ある価値体系に対して人々が意見を一致させる可能性が少なくなっていくのはおそらく間違いない。

このことから推論すれば、もし人々の間に高度の一様性や相似性を見出したいのであれば、より道徳的・知性的でないレベル、より原始的で「共通」の本能がむき出しになる部分へと、視点をおろしていかなければいけないことになる。(中略)

つまり、ある人生観・価値観を他者に押し付けることができる程に強力な、多人数のグループが必要とされるのであれば、それは決して、高度にバラエティに富んで洗練された趣味嗜好を持った人々から構成されるのではなく、悪い意味での「大衆」に属する人々、最も非独創的・非独立的で、自分たちの思想を数の力でゴリ押しすることも辞さないような人々によって構成されるだろう

 

②独裁を目指す者は、従順な、騙されやすい人々を根こそぎ支持者に抱き込むことができるだろう。こういった、物事をぼんやりと断片的にしか考えず、他人の考えに動かされやすい人々、あるいは、情熱や感情にたやすくかられてしまう人々が(中略)数を増やしていくのである。

 

③人々が、積極的な意義を持つ事柄よりも、敵を憎むとか自分たちよりも裕福な暮らしをしている人々を羨むといった、否定的な政治綱領のほうがはるかに容易に合意しやすいことは、人間性に関する一つの法則とさえ言えるように思われる。「我々」と「彼ら」をはっきりと対照させたり、グループ以外の人々に対して共に戦っていくといったことは、(中略)不可欠な要素であるといえよう。”

 

 

つまり、ハイエクは構成員を一つの教義に盲目的にに従わせることで、「構成員の質が下がり、排他的・攻撃的になっていく」と述べている。

実際私が見た多くの会社も、「経営理念」を教義として押し付ける会社は、上の堕落を避けられなかった。

 

経営者は「上手く行っている」と述べるのだが、実際には組織はより硬直的になり、社員は上の人間の顔色をうかがうようになり、新しいアイデアは出ず、排他的・攻撃的な人物が上からの信用を得る。

 

もちろん経営者の会社だ、好きにすればいい。だが、「知識社会」にはそぐわない。