マックス・シュティルナーが言ったかもしれないこと

栗原康という人の『何ものにも縛られないための政治学』という本を読んだ。

そこに、マックス・シュティルナーという思想家の考え方が紹介されていた。

シュティルナーは自由主義を三つに分けたという。

(一)政治的自由主義……カネによる支配

(二)社会的自由主義……社会による支配

(三)人道的自由主義……人間的なものによる支配

政治的に自由になる。すると、人はカネによって上に立ったり、下に置かれたりする。カネがすべてを支配する。

それじゃあいけねえとなって、金持ちが支配するなんてやめて、社会のためにみんなやっていこうとなる。

みんながみんなのために。一見、悪くない。

 

だが、その世界ではかられるのは、人がいかにみんなのために、社会のためになることができるかどうかだ。

みんなのためにならないことは評価されないし、みんなのためにならない人間は糾弾され、排除される。

 

そこで出てくるのが、人間的なものによる評価だ。みんなが自分らしく、自分の持つ才能を活かして、自分らしく生きよう。

人間を、いかに稼げるかだけではなく、いかに役に立つかではなく、人間的なものとして評価しよう。

 

これはよい、ように思えるかもしれない。でも、シュティルナーは、あるいはこれを紹介した栗原康はそれをも否定する。

これは逆にやばくないっすかと。毎日、毎日、いやもっといえば毎分、毎秒、たえず自分をたかめる努力をしないといけないということなのだから。

そして、それができたら人間的だということは、できなきゃ、おまえ人間じゃねえよといわれているのとおなじことだ。個性がない、創造力がない、ひととしてできそこない。

おれはこれに、賛同する。

 

かつてのミスコン論争

今どきのフェミニズム云々よりずっと昔の話。

もちろん今ともつながっているが、いわゆる「ミスコン」についての論争があった。

「ミス○○大学」とかそういうものは、女性を見た目だけで判断するけしからぬものだ。

もっと人間は総合的に評価されるべきだ。そういう意見があった。

それももっともだが、おれはそれに対する反論の方に納得した。

 

曰く、「人間が総合的に比較されて、それに負けてしまった人間に救いはあるのか」。

 

……「曰く」とか言ったけど、正確な言葉は覚えていない。だれの言葉かも覚えていない。

しかし、「見た目だけで比較されるなら救いもあるが、総合的に勝ち負けが判断される方が残酷ではないか」。

そんな感じの主張だったと思う。

 

「女性ばかりが見た目で……」というなら、それはそうだ。

ならば、ミスターコンテスト的なものも含めてもいい。

 

そこに「見た目」以外の「人間的なすべて」が評価基準になってしまったら、負けたやつはかなり悲惨だ。

「見た目ではあいつに負けたけど、ほかにいいところはあるよね」という救いがなくなる。

「見た目も、頭の良さも、人格の良さも、社会への貢献度も、すべて劣っている」と烙印を押されるのだ。

それは、悲惨なことだ。

 

コンテストだけの話じゃない

もちろん、それはコンテストに出るような人間が、勝手に審査されるだけだろうという話もあるだろう。

けれども人間、とくに日本において「社会人」ともなると、そういう基準で判断される。そうなった。

むしろ、昔の方が簡単な話だったかもしれない。出た学校の名前だけによって判断される。いわゆる学歴社会。

 

今も、学歴社会はある。そういうメールが流出したりしている。

とはいえ、「学校の名前とか、成績だけではなく、総合的に判断したほうがいいよね」という建前は存在する。存在するようになった。

 

これが、いいことなのか。

これは、先に書いたミスコン、ミスターコン批判に通じるのではないか、という疑問が出てくる。

 

出た学校の名前だけで判断されるのであれば、「なんだこのやろう、学校名だけで差別しやがって」という言い分が存在しうる。

しかし、本当に、総合的に、全体的に、人間的に判断しましたとなるとどうなるか。

 

もう、そこに逃げ場がないじゃないか。おまえはどう見てもあいつやこいつに劣っている人間だと言われて、反論のしようがないじゃないか。

そんな救いのない世界があっていいのか、ということだ。そんな救いのない世界は、望ましい世界なのか、ということだ。

 

小学生の世界、就活の世界

今はどうかしらない。

でも、思い返すに、たとえば、小学生の世界では脚の速い男子がモテた。

ちびで脚の遅いおれには「なんだそれは」という世界だった。

しかし、「脚の速さがなんだ、おれは国語と社会の勉強はできる」という余地はあった。算数と理科はできませんでした。

 

それはそれで非常に残酷な世界だったが、反論する余地はあったのだ。

だが、総合的に人間性をはかられてしまうと、反論の余地がない。これは厳しい。

 

その厳しさというものを体感するのは、あるいは就活などというものかもしれない。

「かもしれない」というのは、おれが大学をドロップアウトして、就活というものをしたことがないからである。

あくまで想像だ。もちろん、出た大学や大学院の名前も大切だろう。

 

とはいえ、もっといろいろ評価される。

コミュニケーション力とかそういうものだ。なので、「社会貢献的なサークルでこれこれこういうような立場にたち、これこれこういうような問題に対し、これこれこういうような解決に導きました」というようなエピソードが求められたりするのだろう。あくまで想像だが。

 

で、それって、すげえ厳しくねえ? 生きにくい世界じゃねえ? そこで負けた人間って、生きる余地あるの?

 

逆に、金さえ稼げればいい世界

就活。それを勝ち抜いた人間には、稼ぎのある世界が待っている。

ある意味、今の世の中はシュティルナーの言う政治的自由だけあって、金を稼げる人間だけが評価される社会のような気もする。

勝ち組と負け組。金の稼げるやつ、金を支払えるやつだけが偉くて、それ以外はごみみたいなものだ。

 

それは、今の日本において、かなりの核心であって、真理であると思う。

支払い能力だけが全てだ。そう言い切ってもいいと思う。

支払い能力におおいに欠けるおれが言うのだから、そうなのだ。

支払い能力のある人間は宇宙へも行けるし、ない人間は日雇いの仕事にありつくために、Free Wi-Fiを求めてファストフード店やコンビニを求めて歩く。それも真実だ。

 

人間の総合性、全体性を比較される世界に比べたら、まだそっちの方がましなのだろうか。ちょっとよくわからなくなる。

なにせ、人間、ものを食って生きていかなければいけない。

ものを食うためには、自給自足という道もあるだろうが、多くの場合、やはり金の支払いが必要だ。そうなってしまっている。

いきなり農地、いや、荒れ地に放り出されて耕作するとか、あるいは、森に迷い込んで、生きていけるだけのスキルがあるだろうか。ちょっと厳しいと思う。

 

都市における金の支払い能力がすべて。それも一面の真実だ。

 

そのうえさらに人間性が評価される

その真実のうえに、さらに建前で人間性まで評価されるというのが今の世だ。

地獄の上に地獄。地獄のツープラトン。それが今の社会。主語が大きいなら、今の日本社会。

 

逃げ場のある、単一的な評価。逃げ場のない、総合的な評価。

この両方にさらされながら、生きなければならない。

 

金さえ稼げれば、おおくの場合逃げ切れる。

とはいえ、「金だけ稼げる能力」というものを持つ人も多くはなかろう。

特別な技術を持つ人間、突出した能力を持つ人間。そういう稀少な人だけが「金だけを稼げる」。

 

となると、問われるのは総合力だ。人間性だ。

よくコミュニケーションをとることができて、信頼を得て、人脈を築くことができて、仕事以外でも自分の世界を持ち、生きがいがあって、充実した生活を送り……。

 

なんだそりゃ。そんなのなんだ、あれだ、できるわけねえだろ、ちくしょう。

おれのような無能者、社会落伍者、精神障害者はそう思えてならない。

人間ひとり生きるのにぎりぎりで、もう限界ですという人間には、そんなのは無理だ。

金を稼ぐというか、かつかつの生活に精一杯で、それ以外まで求められたら、もう参ってしまう。

生きる余地がない。生きようとする意思すら奪われる。

 

人間を人間性で比較するな

というわけで、おれは見た目や脚の速さだけで評価される世界の方が、まだましのような気がする。

総合的な人間性なんかで評価され、比較され、分別されたら、おれなんか生きる余地がないのよ。

もちろん、金を稼げないというだけで生きる余地も、資格もないのだけれど、その上で、そんなところまで評価されたら、もうなにもないんだよ。そう言いたい。

 

金を稼ぐ能力や環境に恵まれ、その労働によって十分な余力のある人間にとって、おれがなにを言っているのかわからないかもしれない。

それでも言っておきたいのだ。生きるのに精一杯の人間がいる世界は残酷だし、労働によって生きていく以上のものを求められる世界はもっと残酷だと。

 

せめて、おれに、それなりに稼げる能力があれば、この世界はもうちょっとましなものに見えたかもしれない。そうは思う。

それでも、その上で、さらに創造性や人格が問われる世界は、厳しいのだろうと。

 

だからこそ、そんな評価自体はぶっ壊すべきだと、もっと自由に、生きたいように生きたいと。

自分を高めたり、スキルアップしたり、そんなところからは逃げたいと。

そんな逃げたいと思う心からも自由になりたいと、そんなふうに思うのだ。

 

優秀なビジネスパーソンには考えもつかない、想像もできない境地かもしれない。

あるいは、こういう思想に触れることのない人にとっても無縁の考えかもしれない。

 

それでも、中途半端者のおれは思うのだ。

人間をはかるな、比較するな、評価するな、とくに、全体的に評価するな、肯定するな、否定するな。

 

おれはおれであって、おれだけであって、おれはおれのおれであって、おれはおれだ。

ただそれだけで生きていきたい。

生きていけるものではないのは承知で、そうでありたいと思うのだ。それだけなんだ。ただ、それだけ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Paolo Chiabrando