教育のありがたみは、それを享受しているその時には非常にわかりにくい。
小学校の時の音楽の授業、中学生の時の歴史の授業、高校生の時の数学の授業、どれも当時は「あって当たり前」のものであり、格別ありがたいものであると感じたことはなかった。
だが、今思い返すと当時は当たり前だったものが、実はとても貴重な時間だったのだろうと思う。
小学校の音楽の授業、滝廉太郎の曲を皆で合唱した。当時の私には滝廉太郎の曲の素晴らしさは全くわからなかった。しかし、私の中に滝廉太郎という偉大な作曲家がいた事の記憶は残った。
中学の歴史の授業、教師がマケドニアのファランクスについて熱く語っていたことを憶えている。が、内容は殆ど覚えていない。だが、今それについて調べてみると、ファランクスがいかに大きな役割を果たしたか、どのように衰退していったか、それを興味深く学ぶことができる。
とても些細な事なのだが、「その時教師が、ファランクスをとても楽しそうに語っていた」ということ自体が貴重な体験だったのだ。私はそれを記憶していることで、20年以上たってからでさえ学び直すことができる。
「あれは大人が興奮するような学びが得られるものだったのだ」と。
会社においても同じだ。
私は社会人1年目の時、当時の上司から「経営者になれ」と言われた。そして、経営者がどのようなものかを、事細かに教わった。だが、正直に言うと当時私は上司がなぜそのようなことを言うのか、さっぱりわからなかった。
今思い返せば、当時の私はとても貴重な機会をもらっていたのだが、それに気づくことはなかった。実際、私に残っているのは、上司が「経営者」というものをとても高く評価しているという事実だけだった。
私には、「経営は、大人が目指す価値のあること」という知識だけが残った。そして、その知識は12年後に役に立った。
教育は知識の伝達が目的であると思われがちだ。もちろんそれもある。だが、もっと肝心なのは教育を行う立場の人間が見せる、知識や人間の叡智に対する態度なのだと思う。それは、知識そのものよりも重要な何かを教えてくれる。
かつて、アルベルト・アインシュタインは教育をこう述べた。
「教育とは、学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの である」
学びはいつでも始めることができるし、誰からであっても学ぶことができる。
「学校がつまらない」
「職場で学ぶことがない」
そういった声を耳にすることもある。だが、本当にそのありがたみがわかるのは、おそらく10年後、20年後なのだ。
「今の自分には判断の付かない価値感がある」 そう思っておくことも悪くはない。
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(Photo:Amanda C)