メールが着信した。スマートフォンの通知欄に、見慣れない名前を見つける。
憶えがある名前だが、誰だか正確に思い出せない。
メールを開くと、ようやく誰だかわかった。
先輩だ。前の職場で新人の頃教わった、あの先輩だ。
久しぶり、ネットの記事でたまたま見かけたので、連絡してみました。
今度飲もうよ。
彼は連絡をもらったことは嬉しかったが、この誘いを受けるどうかについては、判断を留保した。
「なんとなく会わないほうが良いのでは」
そう思った。
———-
彼が、初めて仕事を教わったのがその先輩だった。
といっても、そこには何か特別な話があるわけではない。配属された営業部で、たまたま隣りに座っていた先輩が、そのまま教育担当になった、というだけだ。
「よろしく、わからないことがあったら、俺に聞いてよ。」
と、先輩は言ってくれた。
入社した会社は、それなりに厳しい営業ノルマがあることで有名な会社だったが、何しろ給料が良かった。
「入社年次とか、地位とか関係なく、頑張ったら、頑張っただけ報われる会社だから。」
と、先輩は彼に教えてくれた。
その1週間後、先輩から声がかかる。
「営業行くからついてきなよ」
はじめての営業同行で心が躍る。
「会話は全部メモを取って、後で反省会するから。」と、先輩は言った。
結果から言うと、先輩の営業はとても素晴らしかった。
初対面のお客さんにも関わらず、話は大いに盛りあがり、営業が終わる頃にはまるで旧知の間柄のように、親しくお客さんと話していた。
「すごいですね。あんなに盛り上がって……」と先輩に言うと、
「すぐにできるようになるよ。じゃ、飯でも食いに行こう。今日の反省会をやろう。」と先輩は彼に言ってくれた。
反省会では、先輩はノウハウを余さず教えてくれた。
まずアイスブレイクをする。きちんと相手の商品やホームページをみて予習すること。
ヒアリングは聞きに徹すること、相手のプライドをくすぐるような質問をすること、担当が一番気にするのが「上司への説明に使う資料」だから、おみやげを渡してあげると喜ぶ……
先輩について回れば、とにかく学ぶことだらけで、毎日がとても楽しい、と彼は感じていた。
先輩から本を「これ読んどけ」とたくさん渡されたこともあった。彼は必死に休日に時間を作って読んだ。
思えば、あの頃が一番成長したかもしれない。
そして3年がたち、先輩はチームのリーダーに、彼はそのチームのエースになっていた。
これまでの頑張りで会社は成長期にあり、高い予算をなんとか達成しようと皆、躍起になっていたが、そのため、先輩は上から厳しい予算を割り当てられていた。
毎日23時、0時まで残って仕事をしてもやりきれるかどうかわからない予算を前に、チームメンバーはギリギリまで頑張っていたが、中には体を壊して退職してしまう人物もいた。
その頃は、月の残業時間が200時間に達することも珍しくなかった。
当然、エースである彼はしっかりしなければならない。
だが、新人にも過酷なノルマが割り当てられた状態に彼は次第に疑問を抱くようになっていた。
「先輩、流石にこの数字はおかしくないですか?こんな遅くまで働かないと達成できないような予算をくむこと自体が。」
「ああ、でも会社の理念の実現のためには仕方ないよ。「世界中の人に素晴らしい製品を届ける」だろう?」
「そうですが……」
「まだ、世界中の人に届けていないよ。大丈夫、このつらい世界を超えたところに見える風景があるよ。」
しかし、そのちょうど1年後、彼は会社を去ることにした。
友人の紹介で良いキャリアアップになりそうな仕事が見つかったのと、経営陣と先輩の唱える「会社の理念」にどうしてもついていけなくなったためだ。
———-
迷ったが、結局彼は先輩と会うことにした。
会社をやめて以来だから、6,7年ぶりの再会だ。彼はかつて先輩とよく飲みに行った街、新橋の居酒屋で落ち合うことにした。
「よお」
「あ、ご無沙汰してます。」
先輩は相変わらずだ。
「あ、ビールください」店員に頼む。「同じのを一つ。」
「最近どうですか?」
「ああ、相変わらず頑張って営業してるよ。」
「そうなんですね。元気そうでよかったです。」
聞けば、会社は順調に伸びているらしい。
「相変わらずきつい目標なんですか?」
「うん、実は……あのあと過労が問題になって、残業も夜10時以降は禁止。休日も原則出勤禁止になったんだよ。」
「随分と改善されましたね。」
「お陰で、仕事はやりやすくなったけどな。そっちはどう?」
「別の業界に転職をしたので、ゼロから学び直して、ようやく一人前になったって感じです。」
「そうか。思うに仕事ってのは…………」
先輩が語り、あの頃の感覚が蘇ってくる。
6年ぶりの先輩の仕事についての話。
彼は素直に、久しぶりの先輩の話が楽しかった。そう思ったのは事実だった。
だが、聞いていて一つの事実に気がついた。
先輩の言っていることも、やっていることも、お薦めの本も、昔と一緒だった。
「お前はどんなことしているの?」
「それは……webサービスを運営する会社にいます。」
詳しく答えても、先輩は不思議そうな顔をしている。
「いや、おれはwebのことはよくわからないんだけど、そういうのが売れるんだ?」
「まあ、そこそこ売れます。」
実は会社は破竹の勢いだった。従業員にはストックオプションも振る舞われ、大きな成功を収めようとしていた。
webで先輩は私を見た、と言っていたが、それは我々のPR戦略の一環だった。
しかしそんなことは、とても先輩には言えなかった。得意そうに仕事について語る先輩に何を言っても、先輩に失礼に当たるような気がした。
ああ、相変わらずなんだな……。
目の前には6年前、いや、新人の頃私に指導をしてくれた、先輩の変わらぬ姿があった。
彼は帰途についた。
「別に、変わらなくてもいいんだよな。」
そう呟いた。
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(Aurimas)