「人間、話せばわかりあえるはずだ」

今年で32歳になる僕だけど、昔から一貫してずっとこう思っていた。

犬猫とは会話が成立しないからわかりあえないという事もあるけれど、人間とは対話が成立する以上、話せばわかるとずっと思ってきた。

 

だけどTwitterやブログをやっていて思った事はこれと全く間逆であった。

どんなに精密なロジックを組み立てたり、揺るぎない事実を元に会話をしても、過激なフェミニストを始めとする一部の人とは全くといっていいほどには対話が成立しないのである。
僕は人間はロジックとファクトで動くものだと思っていたので、むしろ逆に相手と同じレベルで対話が成立しないという事が嫌で嫌で仕方がなかった。

論理的整合性がとれるのならば、大人も子供も同じレベルで知的対話は成立するべきだと、もう十何年前もからずっと思っていた。

 

けど、この歳になってようやく気がついたのだけど、人と人とを対話させるのは思ったより、ものすごく難しい。というかほとんどの人には対話自体が不可能なのである。

というわけで今日は人間の信仰心について書いていこうかと思う。

 

ロジックやファクトより、原理原則の方が圧倒的に大切

人間は大なり小なり何らかの宗教の信者である。

ここでいう宗教とは、仏教とかキリスト教のようなものではない。どちらかというと、自分自身の哲学や何らかの信念のようなものを思い浮かべてもらえればわかりやすいかと思う。

 

私達は何らかの意見を形成する際、この自分自身の哲学や信念のような、自分自身の原理原則に基づいて意見を形成する。

例えばインターネットが善いものであるか悪いものであるのかを考える際、ほとんどの人は一からものを考えない。まず自分自身の原理原則に則った善・悪の判定を下し、その後でそれに整合性があった形で理由を形成する。つまり初めに答えありきなのである。

 

この事を理解するとインターネットで議論なんて成立しえないという事がよくわかる。

例えば過激なフェミニスト団体がムチャクチャな事をいったとしよう。その発現の矛盾点を他人が指摘しようが、対話なんて絶対に成立しない。

なぜなら、そのムチャクチャな発現は、そのフェミニスト団体の頭の中にある原理原則から導き出された意見であり、その発現を成したフェミニスト団体の頭の中では、既に結論が出された上での答えなのだ。

 

脱洗脳はものすごく難しい

苫米地英人さんという方がいる。賛否両論色々ある方ではあるが、初期の頃に書かれた洗脳原論等の著作に関しては抜群に出来がよい。

 

最近の人はもうあまり知らないかもしれないけど、かつてオウム真理教というちょっと問題のある新興宗教団体が活動していた事がある。

この団体は、地下鉄サリン事件というものを引き起こしたりと、まあ色々大変だったのだけど、苫米地英人さんはオウム真理教に一家総出で入信したオウムシスターズといわれる方の脱洗脳作業に取り組んでいた事があった。

 

僕はこの脱洗脳をどうやって成し遂げるのかものすごく興味津々に眺めていたのだけど、結論からいってしまうと、苫米地英人さんはなんとオウムシスターズの1人と結婚した。

僕はそれを聞いてその当時ぶったまげたのだけど、洗脳の原理から考えると、これは結構合理的な判断だ。

 

さっきもいったけど、人間は基本的には自分の原理原則を元に考える。だから他の宗教の信者に、信仰する神を変えろというのは、基本的には相手の宗教を否定する行為に相当する。

当然だけど、自分の信奉する神を攻撃されて「はい。私が間違っていました」と素直にいう人はいない。そんな事をしたら、むしろ逆に相手の信仰心をより高める結果につながってしまう。

 

だから脱・洗脳というのはものすごく難しい。簡単にいってしまうと、それはキリスト教信者を仏教徒に変えたり、熱心な広島カープファンを巨人ファンに変えるようなものだ。

少し考えてみて欲しい。これ、あなたにできます?

 

じゃあ苫米地英人さんは何故オウムシスターズのうちの1人を自分の妻にしたのだろうか?

たぶんだけど、自分の家族という共同体に入れる事でしか、真の意味での脱洗脳が施せないという判断があったからなんじゃないかというのが僕の考えだ。

 

出家してオウム真理教に入信したオウムシスターズからすれば、オウム真理教はもはやある意味家族みたいなものである。

ならばオウム真理教という共同体から、別の共同体に移し変える事さえできれば、脱洗脳を施す事が論理上では可能だ。

 

苫米地英人さんは色々な事がいわれる方だけど、僕はこの実績に関しては実に凄いと思う。相手の信念を根本から変えたいのなら、自分の家族にするぐらいの度量と責任がないと、やってはならぬのだ。

 

この問題の類似パターンはブラック企業にもみられる。

実はブラック企業にどっぷりハマってしまった人をそこから抜け出させるのは結構難しい。

少なくとも、そこにおける内在論理が一時的にもハマってしまった人を、そこから抜け出させるのは、オウム真理教から脱入信させるのと等しい難しさがある。

 

「ブラック企業?そんなの辞めればいいじゃん」

こう口でいうのか簡単なのだ。けど会社という共同体に一度入ってしまうと、それを自分で断行するのは本当に難しい事だ。

本当にその人をブラック企業から抜け出させたいのならば、それこそ自分の配偶者として娶る位の事をやって、脱洗脳を計画しないとうまくいかないのだ。

 

責任感もないのにロジックで相手の宗教を攻撃しても恨みしか残らない

ディベートなどでは、より弁が立つ人間優れているとされている。

ディベートというものは、基本的にはロジックとファクトで会話が進む。これらが厳密であるか否かが、強さの基準とも言って良い。

 

少し前にロジカル・シンキングというものが流行った時、僕もこの考えに随分と惹きつけられ、色んな人を論破しようと躍起になっていた時期があった。

 

「自分のロジックとファクトの方が強いのだから、みんなをうち倒せばみんなが自分にひれ伏す」

そう思っていたけど、結果は真逆もいいところで、いろんな人を論破した結果、僕は当然のごとく孤立するようになった。

 

そうなってみて初めて、よくいわれている「野球と政治と宗教の話はするな」という言葉の重みを理解した。

繰り返すが、ロジックやファクトより、原理原則の方が圧倒的に大切なのだ。

広島カープと巨人のどちらが優れているかは宗教論争のようなものであり、ロジックやファクトで討論して決められるものではない。民主党と自民党、仏教とキリスト教も似たようなものだ。

 

だから相手がどんなに論理が破綻した事をいってたとしても、ロジックを用いた知能による暴力を加えて、自尊心を傷つける事はできる限り避けるべきだ。

それは道端であった人が、変な雰囲気がしていたら殴ってよいという事にならないのと同じ事で、相手の原理原則というのは、ある種の人権みたいなもので、頭がよい人間がロジックでぶん殴ってよいものでは決して無いのである。

 

野球と政治と宗教の話はするな。この言葉の重みをゆめゆめ忘れぬ事である。

相手の原理原則をロジックとかファクトで攻撃する事は、相手に改教を迫るような卑劣な行いなのだ。

相手の話が多少筋が通らない部分があっても、目くじらなど立てず、優しくなろうではないか。我々は大なり小なり特定の宗教の信者なのだ。

 

相手の信仰心をできる限り尊重しよう。それは論とか筋なんかより、よっぽど大切なものなのだから。

 

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(2024/3/13更新)

 

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高須賀

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