コンサルタントをしていた、ということもあり、15年以上にわたり、私にはずっと「文章のレビュー」を引き受ける仕事がついて回っている。

もちろん今も、1日に数本程度は誰かの書いた文章に赤入れをしている。

手間がかかり、非常に時間もかかる仕事だ。

 

とはいえ、実はこれはなかなかおもしろい仕事だ。

というのも、文章は話し言葉以上に「書き手の頭の中」が非常によく分かるので、ある種、人間観察のような側面があるのだ。

人間そのものに興味がある私にとっては、趣味と実益を兼ねたおいしい仕事と言えよう。

 

さて、そうして何百、何千という文章をレビューするうちに、ある日私は一つの疑問を持った。

それは「文章の説得力」についてである。

 

同じことを訴えているはずなのに、ある人の文章にはとても説得力がある一方で、別の人の文章はとても胡散臭い。

文章の説得力は、一体何が決めているのだろうか?

 

「説得力はエビデンスとロジックだ」といった上司

私はその気づきを、当時の先輩に相談した。

彼はコンサルらしく、「説得力は、エビデンスとロジックによって生み出される」と断言した。

つまり、適切なデータを示し、正しい論理に従って文章を書けば、その文章は説得力を持つ、というのである。

 

なるほど。当時の私はそれを「正しい」と思った。

そしてまた、希望をもった。

なぜなら、それは「適切な訓練によって、誰でも説得力のある文章を書くことができる」という夢のある話だったからだ。

 

実際、彼はいつも、

「小説家を育成するわけではないのだから、ビジネスで使う文章なんて、訓練次第で誰でも書けるようになる」と言っていた。

 

そして、それは確かに、間違ってはいなかった。

メールのような短文は、フォーマットを与えてしまえば誰でも書けるようになるのは事実だし、報告書やプレゼンテーションは一定の様式に落とし込んでしまえば、書くのは難しくない。

当時の私は、上司の言ったことに対して絶対の信頼をおいていた。

 

また、部下にも同じことを要求した。

例えば当時、部下に「文章」の訓練を施したことがある。

それは「とにかくエビデンスと論理の組み立てができれば、誰でも文章力はあがる」という考え方に基づいていた。

「とにかくたくさん書かせる」というカリキュラムを新人コンサルタントたちに課して進めたものだ。

 

そしてもちろんそれは、コンサルタントの基礎スキルとして大いに役に立った。

 

「読んでもらえない文章」に説得力はなかった。

しかし、程なくして私はその考え方に疑問を抱かざるを得ない状況になる。

 

それはあるwebサービスを立ち上げるときの「記事」を書いたときのことだ。

私達がコンサルティング会社として立ち上げようとしていたサービスは、心理学的な根拠も備え、論理的に十分顧客を納得させることができるものであった。

そのロジックをホームページに余さず表現し、引き合いを獲得しようとしたのである。

今で言うところの、「オウンドメディアからリードを獲得する」というやつだ。

 

が、期待に反して、webからのリード獲得はさっぱりであった。

問い合わせが来ない。

問い合わせが来ないどころか、読まれてすらいない。

 

たまに読んでくれる方がいても、感想は「ふーん」という無味乾燥なもの。

クライアントですら、「サービスの根拠は記事にしているので、ぜひ読んでください」と勧めても、読んでくれる人は殆どいなかった。

 

そう「読んでもらえない文章」に説得力はまったくなかったのである。

 

そして、私は気づいた。

「説得力は、エビデンスとロジックによって生み出される」という主張は、その文章を「読まないといけない」という強制力がある場合には妥当だった。

だが、そうでない場合、文章を読むかどうかが読者に委ねられている場合には、全く当てはまらなかった。

 

私は途方に暮れてしまった。

論理的に正しくとも、データが揃っていても、読んでもらえない文章に説得力は生まれない。

つまり「説得力」は、データと論理だけでは得られない。「人を惹きつけること」が求められるのだ。

 

エビデンスもロジックもない文章に惹きつけられる

私はそれ以来、「人を惹きつける文章」の正体を探しつづけた。

コンサルタントの書いた文章はダメだ。当然、学術論文もダメ。ニュースは事実を報道するだけだから論外。

私の求める「説得力」とは程遠いものだ。

 

ところがある日、こんな文章が目に飛び込んできた。

ちょっと古い記事だが、まだ色あせていない。

めちゃモテ日本

CanCamのコンセプトは「めちゃモテ」。

ただの「モテ」ではない。

「めちゃモテ」である。

「めちゃ」という副詞部分にオリジナリティはある。

JJのファッション戦略が「本命男性一人にとことん愛されること」であるのに対して、CanCamのめざすところは「万人にちょっとずつ愛されること」なのである。

だから、「めちゃモテのターゲットは必ずしも結婚対象の男性だけとは限らない。例えば女子アナがみなCanCam系『めちゃモテ』ファッションなのは子供からお年寄りまで幅広く受け入れられるからではないか」とM村くんは書く。

なるほど。

では、CanCam読者諸姉はこの「万人から愛されること」のうちにどのような生存戦略上の利点を見出しているのか?

(内田樹の研究室)

こんな女性誌のポジショニングの話から入っていく。

ところが驚くことに、最後にはなんと日本の国家戦略まで話が飛躍する。

私はこの「めちゃモテ」戦略は実は深いところで日本人の本態的メンタリティに親和するものではないかと思っている。
例えば、「九条」である。

あれは、よく考えたら、国際関係における「めちゃモテぷっくり唇」なのである。

「私はみなさんにぜえ~ったい危害を加えることはありません。うふ♡」

というあれは意思表示になっているのではないか。

私は以前、どうして日本ではイスラム原理主義者のテロが起こらないかについて考察したときに、日本でテロをしたら「テロリスト仲間から村八分にされる」からではないかという推理を行ったことがある。

だって、日本でテロをするなんて、「赤子の手をひねる」ようなものだからだ。私がテロリストだったら、そんなやつが手柄顔をすることは決して認めない。

日本がそのナショナル・セキュリティを維持できているのは、「とってもラブリーな」国だからである。

例えばの話、テロリストだって、たまには息抜きしたい。

そのときに家族旅行をするとして、どこに行くだろう。

水と安全がただで、道ばたに置き忘れた荷物が交番に届けられていて、ご飯が美味しくて、温泉が出て、接客サービスが世界一で、どこでも「プライスレス」の笑顔がふるまわれるところがあるとしたら、「そういう場所」は戦士たちの心身の休息のためにもできれば温存しておいたほうがいい、と考えるのではないか。

それはテロリストたちが(自分たちの闘争資金を預けてある)スイスの銀行を襲わないのと同じ理由である。

日本人は「ラブリー」であることによってリスクをヘッジしている。

おそらくこれは1500年来「中華の属国」として生きてきた日本人のDNAに含まれる種族的なマインドなのである。

アメリカにもラブリー、中国にもラブリー、韓国にもラブリー、台湾にもラブリー、ロシアにもラブリー。

この文章、もちろんデータもロジックも存在しない。いわばこの著者の「妄想」といっても良いくらいだ。

 

だが……、私はこの文章に、一つの理、すなわち説得力があると、確かに感じた。

データで固められた文章よりも、エビデンスもロジックもない、ブログやwebの掲示板に書かれた文章に、私は惹かれたのだ。

 

しかし、何故私はこのような文章に説得力を感じたのだろうか?

一体、どういうことなのだろうか?

 

「寓話」「おとぎ話」や「都市伝説」が持つ、妙な説得力

心理学の用語に「アンダーマイニング効果」と呼ばれるものがある。

これは、カーネギー・メロン大のエドワード・デシが、大学生にパズルを解かせ、金銭を与えた場合と、金銭を与えなかった場合について、そのパズルへの「自主的な」取り組みの時間の差異を調べた結果、「報酬が内発的動機づけを弱める」との主張に至ったものだ。

しかし、この話を聞いて「ピン」と来る人は少ないだろう。

 

そのかわり、以下のような話を代わりに提示したらどうだろう。

商店主がある朝店に来ると、ショー・ウィンドウにスプレイで下品な落書きがされていた。

商店主は落書きをすっかりきれいにしたが、翌日また同じことが起きた。そこで一計を案じた。

三日目、近所の不良が集まってきて落書きをすると、彼らに一〇ドルを支払い、その労力に感謝した。

翌日も同じように不良たちに礼を言ったが、今度は五ドルしか払わなかった。

その後も店を汚す不良たちにカネを払い続けたが、その金額は徐々に減っていき、ついに一ドルになった。

すると不良たちは姿を見せなくなった。

これっぽっちしかカネをもらえないのに、商店主を困らせるためにこれだけの手間をかけてもしかたがない、と思ったからだ。

これは単なるイディッシュの民話であるが、上の小難しい話に比べて、エビデンスもロジックもないが、遥かに「説得力」を感じるものになっている。(だから民話として永く語り継がれてきたのだ)

 

つまり説得力は「エビデンスと論理」だけでは生まれない。人が素直に主張を受け入れるための「物語」が必要なのだ。

ブラウン大のスティーブン・スローマンは著書の中でこのように述べている。

人間は出来事の因果を理解するために、自然と物語を作る。だから私たちの身の回りには、これほど物語があふれているのだ。

一九四〇年代に、フリッツ・ハイダーとマリアンヌ・ジンメルが行った社会心理学の古典的研究がある。

被験者に、画面上を円が一つ、三角形が二つ動き回るシンプルなアニメーションフィルムを見せる。それだけだ。音もなく、字幕もない。ときどき二つの図形が近づいたり、一つの図形がもう一つを追いかけたり、図形同士がケンカをしたりしているような場面がある。

すると被験者は、そこに円や三角形以上のものを読み取る。それをロマンチックなドラマのように解釈するのだ。

人間はあらゆるところに物語を見いだす。

物語なき場所に説得力は存在せず、物語があれば、逆に根拠薄弱でも人は信じてしまう。

これは人間の脳の構造の問題なのだ。

 

「寓話」「おとぎ話」や「都市伝説」の作り手は、それを知っている。問題となっている「フェイクニュース」の発信者もそうだろう。

「聖書」がこれほど長きに渡って説得力を保ち続けているのは、それが物語になっているからだ。

それが「説得力」の真実である。

 

「良い書き手」と「ダメな書き手」は何が違うのか

話をもとに戻そう。

私がレビューする文章を書く人の中には、「プロの書き手」も数多くいる。

「有名雑誌の編集をやってました」「有名ニュースサイトでの執筆実績があります」などだ。

 

しかし、彼らの書いた文章を提出してもらうと、上手くまとまっているのだが、残念ながら圧倒的に「面白くない。」ことも多い。

そう、彼らはジャーナリストであるかもしれないが、ライターではない。

客観的、中立的に事実だけを書いたり、アチラコチラで調べた知識を紹介したりするだけでは、「読まれない記事」の出来上がりである。

 

発信者として、記事を不特定多数に効果的に届けるためには、文章に「物語性」が絶対に必要である。

「良い書き手」と「ダメな書き手」の境目は、小説のような物語性、つまり「体験」「主観」「個人的に思い入れのあるエピソード」をいかに文章の中に織り交ぜて書けるかなのである。

 

 

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