先日、ある二十代の男性から「シロクマ先生、『何者かになりたい』と思っている人はいったいどうしたらいいんでしょうか」という質問をもらって、びっくりすることがあった。
「えっ? その……『何者かになりたい』って気持ちって、今の若い世代にも通じるんですか?」
私がそう問い直すと、彼は
「そういう気持ちを持っている人はまだいますし、私にも『何者かになりたい』気持ちはあります。」
とはっきり答えてらっしゃった。
「何者かになりたい」という欲求は、まだ死に絶えてはいなかったのか。
「何者かになりたい」の全盛期と、その行方
20世紀に思春期を過ごした私には、この「何者かになりたい」という欲求は懐かしさをおぼえるものだ。
1980年代にはフリーターという新しいワークスタイルが持てはやされ、「ただのサラリーマンになりたくない」若者たちが自らフリーターになった。
1990年代にはバブル経済の崩壊や阪神淡路大震災で社会が動揺していたけれども、ユースカルチャーの世界には浮かれた雰囲気が残っていて、自分探しが流行っていた。
1996年に『進め!電波少年』で海外ヒッチハイクの企画が大ヒットしたことが象徴しているように、1990年代は、「何者かになりたい」や自分探しの全盛期だった。
ところで、自分探しとは何だったのか。
本当は、自分なんて探すまでもない。
今、鏡にうつっている自分の姿、他人の目にうつる自分の姿が自分自身だ。
言い換えるなら、今の仕事・今の人間関係・今の趣味・今の身なりや服装、そういったもののトータルが自分自身で、それらのひとつひとつがその人のアイデンティティの構成要素ということになる。
ただし、若いうちは仕事も人間関係も趣味も変化しやすい。
自分のアイデンティティをかたちづくる要素が定まっていない以上、1年後、3年後にはアイデンティティの構成要素がごっそり入れ替わり、鏡にうつる自分自身の姿もすっかり変わってしまうかもしれない。
だから、前途有望な若者が今とは違った「何者かになりたい」と望むのは、それほど無謀なことではない。
実際、若者は数年程度で大きく変わってしまうことがしばしばある。
逆に言うと、「何者かになりたい」と望むためには自分自身に変化の余地や可能性がなければならない、とも言える。
かつて、心理学者のE.エリクソンは思春期のはじまりから就職ぐらいまでの時期を猶予期間(モラトリアム)と呼び、この期間の心理的な課題としてアイデンティティの確立を挙げた。
エリクソンが活躍した20世紀中頃のアメリカでは、高校や大学を卒業するぐらいまでにアイデンティティを確立する、つまり自分探しを終え、何者になったのかが定まったとみてだいたい合っている。
いっぽう1990~2000年代の日本では、大学卒業後も思春期が続き、猶予期間も続くとみなされていた。
20世紀末~21世紀はじめの頃、著名な日本の精神科医が「いまどきの思春期モラトリアムは35歳程度まで続く」と語っていたのを私はよく覚えている。
実際、30代以降も「何者かになりたい」と願い続ける男女は珍しくなかったし、精神科の診療面接のなかで「何者かになりたいけどなれない」といった悩みが語られることも珍しくなかった。
2020年においてはどうだろう。
令和時代の若者が自分探しをやって、「何者かになりたい」と望む余地はいったいどれぐらいあるのか。
表向き、今の若者にも体裁やアイデンティティを変更する余地や可能性があるようにみえる。
なぜなら、転職や転勤はますます増え、雇用の流動性は高まり、仕事の内容も次々に変わっていく世の中になっているからだ。
この一面だけみると、むしろ私たちは永遠に自分探しをすべきで、「何者かになりたい」と問い続けなければならない21世紀を生きているようにもみえる。
しかし、別の一面もまたある。
いまどきは、転職や転勤を繰り返しても収入は増えないし生活水準も変わらない。
生まれや育ち、実家の太さ、新卒までの経歴、そういったもので人生のかなりの部分が決まってしまっているとみなす認識も広がっている。
少なくとも、努力という万能ワードをもって「努力すれば何者にでもなれる」と吹聴したがる気分は今の日本社会には漂っていない。
だとしたら、身のほどをわきまえ、従容として生きるのが令和風なのではないか。
あるいは、小手先の変化を強いられていても、全体としてはあまり変わらないし変われない、そんな人生を見据えたうえで、アクセス可能な幸福を追求しているのが令和の若者のテンプレートなのではないか。
私はそんな風に捉えていたし、少なくとも精神科の診療面接のなかで「何者かになりたいけどなれない」悩みをあまり聞かなくなった。
バブル崩壊以前に生まれ育ち、努力という万能ワードを浴びながら思春期モラトリアムを経験した世代と、バブル崩壊後に生まれ、努力という万能ワードが失効したなかで育てられた世代では、大きな断絶があるように思っていた。
語られにくくなった。が、死滅したわけではなかった!
冒頭の会話に戻る。
2020年にもなって、20代の男性から「何者かになりたい」という質問をいただいた時、私はまず耳を疑った。
そしてこう質問を返さずにいられなかった。
「あの、あなたのいう『何者かになりたい』というのは、高収入を得たいとか、高い地位が欲しいとか、有名になりたいということですか?」
「いいえ。そういうことではありません。そうではなく自分にしかできないような役割を果たしたい、そんな存在になりたい、といった感じです。」
彼の話を聞けば聞くほど、語られる「何者かになりたい」の内容は、私の世代で流行っていたソレとよく似ていた。
なんだ、この懐かしい感じは。
「そういう、自分探しみたいなことを言っていられる猶予って、今の若い人にもあるんですか? だって、いまどきの若い人たちってもっと即物的で、数字にこだわる生き方をしているものだと思ってました。それこそ、”TOEICの点数は戦闘力の高さ”みたいな。」
「でも、私みたいな若者もまだいます。それに、即物的な数字と『何者』に引き裂かれている人もいるんじゃないでしょうか。」
即物的な数字と「何者かになりたい」に引き裂かれた人、か。
ふと、朝井リョウさんによるヒット小説『何者』のことを思い出した。
たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意志のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、「就職活動をする」という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分は、幼いころに描いていたような夢を叶えることはきっと難しい。だけど就職活動をして企業に入れば、また違った形の「何者か」になれるのかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。
『何者』に登場する就活生たちには裏表があった。
いや、裏表というより複雑さというべきか。
“TOEICの点数は戦闘力の高さ”のような就活を地でいく若者が、そういう就活や人生を全肯定しているとは限らない。
反対に、「自分探し」を諦めきれてない若者も、未来を見据え、したたかに立ち回っていたりする。
どちらが本心でどちらが自己欺瞞なのか──そういう二分法では割り切れない若者たちの群像劇に、『何者』というタイトルがとても似合っていたのを思い出した。
そうなのかもしれない。
1990年代の若者にしても、「何者かになりたい」という気持ちを抱えながら「ただのサラリーマン」への道を選んだ者は少なくなかった。
「何者かになりたい」という気持ちを語ってやまなかった同級生が、内定をもらったとたん目を輝かせ、「おれはサラリーマンになるぞ!」と意気込んでいたことだってあった。
ふたつの気持ち、それか、みっつ以上の気持ちのどれかひとつが本心で、他が自己欺瞞でなければならない道理など本当は無い。
たとえば”TOEICの点数は戦闘力の高さ”を地でいく気持ちと、もっとウェットな「何者かになりたい」気持ちの両方を抱えていること自体はあってもおかしくない。
その二つが一人の人間のなかで調和しているのか、分裂しているのかはさておくとしても。
社会が変わっていくなかで、大人が若者に期待する人物像は変わっていった。
それに伴って、若者が大人に対して表明するメンション、たとえばSNSの表のアカウントに書き込む内容は変わったのかもしれない。
ひょっとしたら、精神科医に打ち明ける内容も変わってしまったのかもしれない。
それでも腹の底に「何者かになりたい」という望みが残っていて、それと表裏一体の「まだ何者でもない」という悩みが横たわっているのだとしたら、いまどきの思春期だって捨てたものではない、と私は思わずにいられない。
そういうことに悩めるのは、まだ人生を諦めきっていない可能性、人生の余白があるってことだろうからだ。
それでも注意深くならなければならない側面もある。
1990年代~00年代にかけて、大人たちは「何者かになりたい」という若者の気持ちを体よく利用し、金儲けのタネにしてきた。
若者に夢を売って実利を引き出すビジネスなどはその典型だし、2010年代でも、いわゆるインターネットサロンのたぐいで若者たちに夢を売りさばく無責任な大人の姿を見かけたりもした。
「何者かになりたい」という気持ちを利用し、搾取してやろうとする人々が遍在しているのも、このことが大っぴらに語られない一因なのかもしれない。
だとしたら、夢売りビジネスやインターネットサロンのたぐいで搾取している人々は二重に迷惑な人々である。
実際に若者たちを搾取しているだけでなく、若者が夢や希望を語ることを難しくしているわけだから。
もう少し耳を傾けてみたい
冒頭で紹介した二十代の方との会話をとおして、私は「何者かになりたい」という気持ちについて考え直してみよう、と思うことにした。
「何者かになりたい」という願いにはある種の青臭さが伴っているけれど、その青臭さは若者を成長させ、変えていくモチベーションのひとつでもある。
そのモチベーションが死滅することなく、大人にバレにくいかたちで生き残っているとしたら、私は愉快に思う。
あなたの間近にいる一見ものわかりの良さそうな若者も、心の中では「何者かになりたい」と熱望していたりすると思ったら、ワクワクしてきませんか。
少なくとも私はそういうワクワクが大好きだ。
大人にばれないように「何者かになりたい」と熱望する若者には共感しかない。
なので、今まで以上に若い人とお話をさせていただき、きっと簡単には表に出てこないであろう「何者かになりたい」に思いを馳せていこうと思う。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo by Marc-Olivier Jodoin on Unsplash