つい先日、自分の書いた原稿に、出版社の校正の方から手を入れていただいたとき「やっぱりプロはすごい」と感じた。

当たり前なのだが、改めて自分がいかに適当に言葉を使っているかが、よくわかる。

 

定義忘れ、表記ゆれ、時制の矛盾、前後の文脈との食い違い、変換ミス……改めて自分の国語力の無さに呆れたわけだが、これはこれで一つの訓練だと思い、一つ一つの指摘をボチボチつぶしていった。

そして、作業をしながら、私は一人のコンサルタントをふと思い出した。

 

「できない」→「できる」

正直なところ、彼はお世辞にも「できる人」ではなかった。

愛嬌はあったが、仕事のできは、良く言っても十人並み。

同じ時期に入社した、目から鼻に抜ける感じの同僚と比べると、明らかに物足りなさがあった。

 

例えば、私が在籍していた会社では、コンサルタントに日報を書かせていた。

だが彼の日報は、よく言っても学生のレポート並みで、箇条書きであればかろうじて内容がわかるのだが、文章になると途端に意味不明になってしまう。

 

あるいは、社内では訓練としてよくロールプレイをやっていた。

中小企業の経営者は気難しい人が多いので、ひとつ受け答えを間違うと、嫌われてしまう。

そのため、コンサルタントは新人のうちは想定問答の訓練を受け、無難な回答の方法を叩き込まれる。

 

その一つが「うちの会社の課題はなんだと思う?」という質問をする経営者に対するロールプレイ。

老獪な経営者の中には、若造のコンサルタントにそんな質問を投げかけて、力量を測ろうとする人もいる。

 

そんなとき、質問を真に受けて

「人事評価に課題がありますね」

「営業力が弱いですね」

などと素直に指摘してはならない。

 

大抵、その若造の指摘は間違っているし、たとえ間違っていなかったとしても、率直に指摘することはあまり良い結果を生まない。

 

いや、事実であったらなおさら悪い。

ズバリ事実を指摘すれば、「そんなことを言っていたのは誰だあ!」と怒りだしてしまう経営者もいる。

「聞いておいて怒る」というのは、誠に理不尽だが、そんな人が経営者には少なくない。

 

ただこれは、個人に置き換えるとなんとなくわかる。

例えば「仕事がうまくいかないのはなぜなんですかね」と相談されたとき、「頭が悪いからじゃないですかね」と率直に言われたら、誰でも怒るだろう。

それと同じだ。

 

要は、「うちの会社の課題は?」という質問は、回答に大変注意を要するものなのである。

そんな気を遣うべき質問に対して、彼は無邪気にも

「コミュニケーション不足ですかね?」などと、適当に放言してしまうタイプだった。

 

もちろん彼に

「相手の発言をもっと吟味しなさい」

「誤解を招く言い方は避けなさい」

「丁寧に情報を伝えなさい」

と、指導は繰り返された。

正直、コンサルタントにはあまり向いてないのではないか、と思うときもあった。

 

 

だが、驚いたことに彼は大きく変わっていった。

「男子三日会わざれば刮目してみよ」という言葉があるが、1年もたつと、すっかり「できる人」に変わった。

受け答えはもちろん、今やっていること、意見をもつこと、仕事に対する考え方、あらゆる面で進歩した。

 

これは、ドラクエでいうと、あそび人が、賢者にクラスチェンジしたようなイメージだ。

すごい。

私は改めて、「人は化けるんだな」と思った。

 

生まれ持った人間の能力は大きく変わらない。

しかし、仕事の出来不出来に関しては、短期間でも大きく変化する。

これは、とても不思議だ。

 

だから、上の彼がなぜ、「変わった」のか、それをもう少し、掘り下げたくなった。

そうしていくと、彼が「仕事ができる」ようになった変化の本質が浮かび上がってきた。

 

仕事の基本は、何よりまず「国語力」のアップ

誤解を招く可能性もあるが、思い切って言えば、彼の変化の本質は「国語力」にある。

もっと分解していえば、ここでいう国語力とは

 

・話者の意図を正確に理解すること

・正確な言葉を適切に使って表現すること

・語彙の豊富さ

 

の3点だ。

 

これを「国語力」と評したのは

「著者の主張は何か」

「論じなさい」

といった国語の問題をよく見かけるからだ。

上の3点に難がある人は、仕事でアウトプットが遅かったり、他者とのコミュニケーショントラブルを抱えたりする。

 

自分の思い込みで話し、相手の発言を自分に都合のいいように解釈してしまう。

人によって定義が変わる言葉を気軽に使ってしまい(例えば目標と目的)誤解を招く。

嫌な感じのメールを送ってしまい、相手から疎まれる。

文章を作るのが遅いので、レスポンスが悪い。

 

国語力は仕事にとって必須のスキルなのだ。

実際、数学者の藤原正彦は、「国語は思考そのものと深くかかわる」という。

読む、書く、話す、聞くが全教科の中心ということについては、自明なのでこれ以上触れない。それ以上に重大なのは、国語が思考そのものと深く関わっていることである。

言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。

 

仕事の中で「国語力」は上がるか

もちろん、受験生が勉強しているくらいだから、学習と訓練によって国語力はアップする。

 

ピーター・ドラッカーが指摘するように、「実践的な能力」は才能ではなく、努力と訓練で獲得することができる「習慣的能力」だからだ。

実践的な能力は修得することができる。それは単純である。あきれるほどに単純である。七歳の子供でも理解できる。

しかし身につけるには努力を要する。掛け算の九九を習ったときのように練習による修得が必要となる。六、六、三六が何も考えずにいえる条件反射として身につかなければならない。習慣になるまで何度も反復しなければならない。

才能や創造性、数理的能力などがもてはやされることが多い。

 

だが「仕事の能力」という観点から言えば、才能に大きく依存する領域はそれほど大きくない。

仕事のほとんどは、基礎的な「言語能力」が備われば遂行することができ、これらは訓練のたまものである。

 

では、上の彼の「国語力」は、実際には何によって進歩したのか。

 

日報

一つには、上で挙げた「日報」は大きい。

文章を書いて、人に何かを伝えることは、とても良い訓練になる。

上司から、すぐにフィードバックを受けることができる環境であれば、なお国語力のアップにつながるだろう。

 

読書

もう一つには、「読書」。

コンサルタントには1か月に10冊ほどの読書が要求されており、彼はまじめにそれをこなしていた。

私は「とりあえず漫画でもなんでも、読まないよりはマシ」と指導していたが、彼は自発的に「より文字数と語彙が多い書籍」に手を出していた。

 

そのため、彼の語彙は1年で飛躍的に伸びた。

何より「漢字」をレポートの中で適切に使えるようになった。

 

上で挙げた藤原正彦氏は、「国語の基礎は漢字」と言っているが、的を射ていると感じる。

漢字の力が低いと、読書に難渋することになる。自然に本から遠のくことになる。

日本人初のノーベル賞をとった湯川秀樹博士は、「幼少の頃、訳も分からず『四書五経』の素読をさせられたが、そのおかげで漢字が恐くなくなった。読書が好きになったのはそのためかも知れない」と語っていた。国語の基礎は、文法ではなく漢字である。

 

私的な話で恐縮だが、子供はとにかく漢字の練習を嫌がる。

だが、「本の中で出てくる漢字が読めるようになる」という体験はうれしかったらしく、読書と漢字の練習は組み合わせたほうがよいと実感した。

 

ディスカッション

そして最後に、一日の終わりに必ず行われたコンサルタント同士のディスカッションも大きいだろう。

このディスカッションでは特に「発言の真偽」ではなく「発言の正確性」が厳しく吟味された。

 

間違っている意見を言うのは一向にかまわない。

だが、「意図が正確に伝わらない言葉を言うのはダメだ」というわけだ。

 

以前にも書いたが、「大丈夫だと思います」といった、あいまいな発言はすぐに突っ込まれる。

すぐに周りから、どのような基準に対して、どの程度満たしているから、「大丈夫だ」と誰が判断したのか?

と聞かれる。

これは、人の発言をそのまま受け取らない、あるいは正確に相手に情報を伝えるための訓練となる。

 

「国語力」を推す

仕事に必要な力を挙げてもらうと、人によってさまざまだ。

論理的な思考やプレゼンテーション、あるいは創造性、行動力、人間力なんていう人もいる。

 

だが、私は最も初歩的なものとして、「国語力」を推したい。

最低限、仕事をするのには、小学校の頃からずっと教わってきた、「国語」ができればよいのであって、特別なことは何もない。

 

だから、究極的には、仕事ができるようになるためには、

「本を読め」

「文章をかけ」

「人と話せ」

でいい。

そうして、半年、1年と基礎的な訓練を地道にこなしていくうちに、人は見違えるように仕事ができるようになる。

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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