本が読めない看護師さん
大分以前であるが、わたくしが主宰して看護師さんと読書会をしたことがある。
看護師さんというのは非常に難しい立場の職業で、医者は(例外はあるが)決してそうは思ってはいないのだが、多くの患者さんは、看護師さんを医者のただの補助者、単なる手伝いであると思っている場合がまだまだ多い。
一部の看護師さんは、それに反発するあまり、看護の自立性や独自性に過度にこだわる傾向があり、そのため大量の「看護論」「看護概論」が書かれる。
しかし未だに看護論で面白いのは、ナイチンゲールの「看護のための覚書」である。
あとはベナーの「看護論」、あるいは中井久夫さんの「看護のための精神医学」であろう。
一方、医者で「医学概論」などというのを読むひとはまずいない、それはそれでいささか困るのだが、その反対になかなか自分のやっていることに自信を持てない看護師さんも多い。
それでもっと自信をもってもらおうと思って、確か「患者さんを治すのは医者ではない、われわれ看護師だ!」というような勇ましいタイトル(正確な題名は失念)のアメリカの看護師さんの書いた本を読む会をもった。
それではじめて経験したというか、びっくりしたのだが、本を読むのに慣れていないひとというのは実に本を読むのに時間がかかるのである。
一章20~30ページの本を週に一度、一章ずつ読んでいくのであるが、その20・30ページが一週間かけても読みおわらない。
読書好きなら、おそらく30分もかからず読める量である。
どうしてなのかなと思ってつきあって読んでみると、どうもセンテンスとしてまとまって読むということでできていないようなのである。
一語一語単語として読んでいて、何かわからない単語があるとそこでとまってしまう。
そういう読み方をしていたら文章を読むということはまずできないわけで、当然時間もかかるし、しかも頭に入らない。
だから時間がかかるわりに内容が残らない。
これでは日常の調べものにも困るだろう、と思う。
別に本を読むということではなくても、ネットで何かを調べるという場合においても、文章をそのまま文章として読むということができなくては、成果は得られないはずだからだ。
患者の気持ちがわからない医師
さて、現在、医学部というのは理科系と分類されている。
医療の基礎が生物学や化学であるのだから当然ではあるのだが、実は、物理学や数学はそれほど使わない。
統計学の理解にはかなり高度な数学が必要であるが、日常臨床においては足し算、引き算、割り算、掛け算ができればまず充分である。
微分積分三角関数などというのがでてくることはまずない。
わたくしは高校1年くらいまでは文学部にいこうと思っていた人間なので、受験科目で一番得意なのは国語で、受験勉強はまずしなかったけれども、一番点がとれた。
しかし、35歳で研究をきりあげて臨床をはじめた時、はじめはとにかく不安で仕方がなかったが、数年するうちに何とか臨床をやっていけるのではないかという気持ちになれるようになってきた。
それはどうも、読書をするときのように、患者さんの気持ちを、ある程度理解できるからであるように思う。
しかし、周囲の一部の医師をみていると、患者さんの訴えからすぐに器質的疾患をさがしはじめてしまう。
それがどんな気持からの訴えであるのかという方向には頭がいかない。
そのため、何だか見当違いの方向の検査を進めていく先生方が少なからずいて、そういう先生方は必ずしも患者さんと良好な関係を築けないようなのであった。
現在医学部は受験において一番難易度が高くなっているらしい。
そうすると物理、数学ができないと医者になれないことになる。
理科系と文科系の一番の違いは、正解が原則一つの世界と、正解が多数ある(あるいは状況のよって正解が違ってくる)世界ということにあるのではないかと思う。
医療の世界が正解が一つの世界であるか、正解が複数あってケース・バイ・ケースで正解がきまる世界ではあるか意見がわかれるところであろうが、それが理科系と文科系の中間に位置する分野であることは間違いない。
医療の場では、ある人には当たり前であることが、別の人には少し当てはまらないことが、さまざまな局面でおきている。
もっと広くいって、社会でおきる人間関係の様々な軋轢のかなりというのはそれに起因しているのではないかと思う。
それぞれの当たり前がお互いにまったく違っていることの自覚の不足である。
アメリカにおけるインテリ対カウボーイ、そして日本の安保闘争
最近のアメリカをみているとそれを強く感じる。
例えば、本を読む人つまりインテリ対カウボーイ。
アメリカは本を読む人が少しも尊敬されない社会なのだそうだ。
前回アメリカ大統領選挙におけるトランプ大統領の勝利、ヒラリー・クリントンの敗北というのは、《カウボーイ》対《本を読む人》の対立において、アメリカでは本を読んで偉そうな理屈をこねるひとがきらわれるので、その対極の黙々と牛を追うカウボーイのような人間が勝利したという側面があったのではないかと思う。
従来は、さすがに政治という高度な知識や知見が必要とされる領域は、《本を読む人》が担当するものと思われていた。
だが《本を読む》ばかりで頭でっかちになっていて、日々働くひとの現実を見られない人間に、その舵取りをまかせてきたからアメリカはおかしくなってしまった、もっと実地の社会を知った人間に政治もまかせようというのが、前回の大統領選挙の結果であったのだと思う。
しかしどうもそれだけでも困るというが今回の結果なのだと思うが、それでもアメリカには依然としてカウボーイ派がほぼ半数いるわけである。
わたくしのような、もっぱら本を読む人間は剥き出しの暴力というのが大の苦手だ。
野蛮というのは《力》が前面にでた状態、文明というのは《力》が背後に隠れた状態であると思っている。
それゆえ現在、世界がだんだんと野蛮なほうへと退化していているように感じているのだが、もちろんそうではなく、世界はあるべき方向に向かおうとしていると感じているひとも多いはずである。
これを書いている時点でアメリカから議事堂への乱入の映像が届いている。
これを見るとわたくしの世代の人間は60年安保の騒ぎを思い出す。その当時、全学連の学生たちが国会を取り囲み、その一部は国会内に突入し、その騒ぎの中で樺美智子さんが亡くなった。
今のアメリカと同じように、当時の日本は左右に二分されていたわけで、今のアメリカは右?が左?を攻撃しているのだが、当時の日本は左が右を攻撃していた。
そしてかなりのマスコミも言論人も左を応援していた。
しかし、この国会突入を期に態度を一変させ、「暴力を排し 議会主義を守れ」という七つの新聞社の共同声明を出したりした。
「話せば解る」「問答無用」というのは五・一五事件であるのでさらにその以前のほとんど100前の出来事だけれども、歴史は繰り返すのかもしれない。
東大出の研修医「ババア、手前なんか死にやがれ!」
さて、医療の場において、最近はエヴィデンス・ベイスト・メディシン(EBM)といって過去からつみあげられてきた様々な知見の積み重ねによって正しい治療方針がきまっていくという前者の見方が優勢になってきている。
そういう流れの中で孤高?の地位を保ってきた精神医学の分野においても最近はDSM(精神障害の診断・統計マニュアル)というマニュアルができて、それに当てはまるかどうかで診断をしていくという方向が大勢になってきている。
こういうものがでてくる背景としては、精神症状にある程度有効な薬が続々と開発されてきているからということがあって、ある薬剤の有効性を判定するためには、医者毎に診断基準が異なっていたのでは困るからである。
今のところ、脳のCTをとってもMRをとっても精神疾患の診断にはほとんど役にたたない。脳波も血液検査も役にたたない。
しかしだからといって診断は医者の主観によるということでは困る。ということでDSMといったものが出てくることになる。
しかし、私は、まだ若い時、米国リウマチ学会(ACR)によるリューマチの診断基準(1987年作成)というのをはじめて見たときの強烈な違和感が未だに忘れられない。
症状とその持続時間、血液検査などを点数化して何点以上あればリューマチと診断するといったやりかたである。
DSMをみてもそれと同じようなことを感じる。いかにもアメリカ的だなあと思う。
機械が診断しているような感じでどこに人間がいるのだろうと感じてしまう。
昔、きいたことがあるのだが、「人工無脳」というコンピュータ・プログラムがある。
ある人間の言葉を解析して、それに対する適当な応答を自動的に作るプログラムである。
「いつから具合が悪いのですか?」 「〇〇からです」 「〇〇からなのですね。どんな具合ですか?」 「お腹が痛いです」 「そうですか、それは大変ですね」・・といったほとんどオウム返しのプログラムされた応答をしていくだけなのだが、患者さんは生身の医者が対応してくれたと思って満足して帰っていくのだそうである。
そのさらに原型となった「イライザ」というプログラムもあるらしい。
「人の話を聞き、対話する」という機能を持ったプログラムで、相手の話す内容を聞き、それに対して、その核心であると思われる部分についた質問を投げかけ、相手の悩みからそれないようにうまく誘導していくことで、それと対話した人間は、まるで精神科医やカウンセラーと対話しているように感じたひとが多かったという。
なかには、感情移入して号泣したり、さらなる悩みを自分から打ち明けるようになった人もいたそうである。
そういう意味では、現在、文科系の領域であると思われている人と人の交流というのもかなりのところは(上辺だけかもしれないが)コンピュータで代用できるのかもしれない。
しかし、それができないことで、臨床の場で困るひとというのはやはりいる。
ある時、受験生の間では常に全国の模試で上位にいたというので有名人であったという東大出の研修医がやってきた。
みるといつも最先端の分子生物学の英語の本に読みふけっている。
ある時、その先生が高齢の女性の受け持ち医になって、病室に点滴を刺しにいった。
しかし、何回刺しても入らない(高齢者の血管はもろくて入りにくい)。
ついには頭に血がのぼったのか、「ババア、手前なんか死にやがれ!」と叫んで帰ってきてしまった。
もちろん点滴を刺すのには頭脳は一切必要ない。経験といささかの手先の器用さだけが必要である。
今、医療の世界で受験がどんどん難易度がまし、受験秀才が医者になる傾向が強くなって、いろいろと問題になっている。
たとえば何で東大医学部を目指したのかといえば、そこが一番難易度が高いからというただそれだけという医者がたくさん排出している。
高校の側も東大や医学部への進学者数が学校のランキングを決めるようで、成績のいいものには自動的に医学部受験をすすめるらしい。
そういう受験生は大学合格とともに目的は達成で、その後の目的を失ってしまう。
昔、開業医がお金を積んで私立の医学部に子弟を入学させているのが問題になったころ、ある開業の先生が「医者になるのに頭はいりません。ニコニコしている能力さえあれば医者はつとまります」などといっていた。
それはそれで困ると思うけれど、物理・数学の秀才ばかりが医者になってくるというのも困ると思う。
個人的には受験科目に国語があることが少しはその是正に役に立つのではないかと思っている。
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(2024/12/6更新)
【著者プロフィール】
著者:jmiyaza
人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。
2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。
Photo by Sebastien Wiertz