先日、コンビニが街の文化を支えているお話をbooks&appsを読んだ。

老害のおれ思うに、コンビニが街の文化を支えてるんだぜ

おれは街なかでコンビニを見るたびに、「ヨシッ、文化がある」と思う。

コンビニの明かりを見るたびにそう思う。

 

コンビニのなにが文化なのか。

それは、そこで売られているであろう新聞や雑誌についてである。

 

それが、おれにとっての「文化らしさ」なのだ。

筆者の黄金頭さんが書くように、確かにコンビニには「文化らしさ」がある。

新聞や雑誌以外のところに文化らしさを感じる人だっているだろう。

 

これに触発されて、私もコンビニの「文化らしさ」について語ってみたくなった。

私の場合は、田舎町の国道沿いでコンビニを見るたびに「ヨシッ、文化がある」と思うわけなのだけど、コンビニの明かりを心の底から肯定できない自分もいる。

そのあたりのアンビバレントな心情が誰かに届きますようにと祈りながら、これを書く。

 

コンビニの眩しい明かりが、私には文化の明かりに見えた

私の場合、コンビニの「文化らしさ」といえば、あの眩しすぎる照明を挙げずにいられない。

私が住んでいる田舎町にコンビニができたのは1990年±1年ぐらいのことで、確か、ローソンだったと思う。

 

プラスチックで包装された弁当や百円おにぎりが、シュッっとした姿で規則正しく並んでいて、とてもおいしそうに見えた。

コンビニに慣れた人が気にも留めないすべてのものが、当時の私には輝いて見えた。

田舎の○○ストアに売られている弁当やおにぎりやサンドイッチの野暮ったさとは、すべてが雲泥の差だ。

 

しかしコンビニが目を惹くのはなんといっても夜だ。

広い駐車場ぜんたいを照らすような、強力な照明。

夜9時のコンビニは真っ白に輝き、異彩を放っていた。

当時は光害という言葉を知らなかったけど、今にして思えばあれは光害だったかもしれない。

コンビニが建ったことによって、そのあたりの夜の景観は完全に変わってしまった。

 

店内の照明を反射するかのような、白くてすべすべした床。

田舎の○○ストアの床はだいたい灰色で、ザラザラしていて、床がほんのり湿っている店すら多かったから、ここでもコンビニは一線を画していた。

かといってコンビニのほうが値段が高いわけでもない。

学校の帰りに田舎の○○ストアに立ち寄るぐらいなら、少し遠回りでもコンビニに立ち寄るほうが望ましいよう、私には思えた。

ピカピカのコンビニで、シュッとした弁当や百円おにぎりを買って帰るのである。

 

だから私には、コンビニの明かりが文化の明かりのように見えていた。

 

まさに「マチのほっとステーション」でもあった

と同時に、コンビニは文化的な生活を可能にしてくれる生活拠点でもあった。

いつ頃からか忘れたが、ローソンは「マチのほっとステーション」というキャッチコピーを用いているが、実際、そのとおりだと思う。

 

学生時代、疲れ果てて何もしたくない日の生活を支えてくれたのはセブンイレブンやローソンやファミリーマートだった。

仕事の帰りが遅くなった時だってそうだ。

24時間365日、とにかく、コンビニに行けば生活はなんとかなる。

学業や仕事に全力疾走したい独り暮らしの人間にとって、コンビニは絶対必要なインフラだ。

 

遠いところまで旅に出た時ですらそうだった。

能登半島や房総半島、西国三十三か所巡礼や四国八十八か所巡礼に赴いた時でさえ、コンビニに立ち寄ればとりあえずのものが揃えられた。

 

気が付けば、私はコンビニの利便性に味をしめ、それに頼るようになっていたのだと思う。

コンビニはまず都市部につくられ、都市部の人々のライフスタイルに寄り添っていった。

次いで、コンビニが地方に進出するようになり、田舎町に住む人々のライフスタイルまで変えていった。

コンビニにまったく頼らないライフスタイルなど、2021年にいったいあり得るものだろうか。

 

コンビニで弁当を買うのか、新聞や雑誌を買うのか、ビールやコーラを買うのか──購入するものが何であれ、コンビニによって成立可能になった文化的な生活ってやつがあると思う。

いや、コンビニによって成立可能になった文化的なライフスタイル、というべきか。

 

冒頭リンク先の文章を読んで「スポーツ新聞や三流週刊誌なんて文化じゃない」と思う人がいる以上に「コンビニによって成立可能になったライフスタイルなんて文化じゃない」と思う人がいるだろう。

でもコンビニ以前の生活を覚えている私に言わせれば、それは間違いなく新しい文化だった。

その新しい文化に、田舎町の人々、それこそおじいちゃんやおばあちゃんまでがたちまち馴染んでいった。

 

そして旧い文化はものすごい勢いで廃れていった。

 

コンビニは文化の伝道師か、文化の破壊者か

コンビニが田舎町に新しいライフスタイルと文化をもたらしたのと軌を一にして、田舎町から旧い文化が消えていった。

暗くて湿った床の○○ストアは次々に閉店し、コンビニより照明の暗いその他の小売店もそれに続いた。

コンビニがあちこちに普及したのを見計らったかのように、車で30分ほどのところに大きなショッピングモールができあがった。

それと、ショッピングモールに追従するように軒を連ねる、全国チェーンの電器店や飲食店たち。

 

「コンビニが田舎の旧い文化を滅ぼした」と言ったら、因果関係と相関関係をはき違えた愚か者だと、人はいうだろう。

客観的に考えればそのとおりなのだろうし、コンビニそれ自体を田舎の文化の破壊者とみるのは無理筋だ。

 

とはいえ肌感覚で言わせてもらえば、コンビニが新しい文化をもたらし、それに田舎の人びとが慣れていった時期と、旧い文化が廃れていく時期は見事にシンクロしていた。

旧い文化の店舗が廃れていっただけではなく、旧い生活や旧いライフスタイルまでもが廃れていったのだ。

 

令和時代の田舎町の人々も、軽トラは運転するし、地元の社の例大祭を執り行いはする。

だけど例大祭の時に準備するお茶は、コンビニで購入されたペットボトルのものだ。

そして週末にはショッピングモールへ。

ショッピングモールもまた、照明の眩しい、白い床のピカピカした空間だ。

 

コンビニが建って、ショッピングモールが進出してからというもの、田舎町のライフスタイルは真っ白な照明とピカピカした白い床からなる空間によって漂白されていった。

それらの利便性を当たり前と思うようになり、それらに頼るようになっていった。

物質的に田舎の暮らしが変わっただけでは決してない。

それらは精神的にも田舎の暮らしを変えていって、コンビニナイズ、ショッピングモールナイズされたライフスタイルを老若男女に浸透させていった。

 

中央目線、東京目線でいえば、それはモノやサービスの乏しい田舎に文化を届けること、新しいライフスタイルを普及させることに違いない。

だが、滅ぼされる旧い文化とライフスタイルの側からみれば文化侵略ともうつる。

明るい照明とピカピカした白い床は、実のところ「より清潔で、より生産的で、より自由な個人生活を成立させましょう」と声高に誘惑していたのではなかったか?

人々をそういうライフスタイルへと馴らし、そうでないライフスタイルなどありえない身体に調教するアーキテクチャだったのではないか?

 

それだけではない。

今ではもっと狭い意味の文化も、コンビニやショッピングモールに取って代わられている。

 

人気シミュレーションゲーム『シヴィライゼーション』風にいえば、地元の社の例大祭が文化発信施設として機能することはもう無くなっている。

今、田舎町でいちばん文化を発信している施設はコンビニである。

 

コンビニに行けば、たとえば最新のアニメグッズが売られていて流行りの曲が流れている。

東京ドームのチケットだって注文できる。

地元の本屋なんてとっくに絶滅しているから、紙の文化にいちばん手軽にアクセスできるのもコンビニだ。

文化は、自分たちの町で自分たちの伝統にもとづいて産み出すものではなくなった。

コンビニやショッピングモールをとおして、中央の人々がパッケージしたものを贖うものになった。

 

中央の文化を購入可能になったという意味でも、「田舎町に文化がもたらされた」と言えそうではある。

でも、田舎町で産み出されていた文化を忘却せしめ、中央の文化に依存させるようにしたという意味では、やはりこれは文化侵略とうつる。

この比喩でいうなら、コンビニやショッピングモールは植民地につくられた教会やカテドラルのようなものだろうか。

田舎の人々は、それらに通っているだけで無意識のうちに中央の文化に感化され、無意識のうちに中央のライフスタイルへと改変されていく。

 

少し大げさな話になってしまったかもしれない。すまない。

 

でも私は割と本気で、こんな風に田舎の文化をコンビニが支えて(または壊して)いるとみている。

コンビニの眩しすぎる明かりと白くてピカピカした床は、きっと東京丸の内のオフィスビルまで繋がっている。

田舎町の人々が中央の人々に反発心を持ってみたところで、もはやコンビニ抜きの生活などあり得ないし、コンビニによって馴らされたライフスタイルを捨てることもできはしない。

これこそ、成功した文化の征服というものではないだろうか。

 

これからの季節の田舎のコンビニでは、誘蛾灯に群がって燃え落ちる虫を頻繁に見かける。

眩しすぎる照明と白くてピカピカした床に誘われ、虜になってしまった私たちは、あの燃え落ちる虫たちに似てないか。

いや、中央を富ませる養分になっているぶん、死して清掃されるだけの虫たちよりは役に立っているだろう。

そんなことを考えながら今日もコンビニの駐車場に車を停め、眠気覚ましのコーヒーと100円スナックを買い、職場に向かう。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Paolo Chiabrando on Unsplash