安達さんの「問題解決能力」とは、具体的にどのような能力なのか。 | Books&Appsという記事を読んでいて、超激務病院での日々を思い出した。

 

自分は初期臨床研修を日本でも有数の野戦病院にて行ったのだが、そこは本当に色々な意味で凄い病院であった。

文字通り死ぬほど働かされたのだが、振り返るとお金では絶対に買えないような様々な経験ができた。

 

もうあの病院を離れて何年もたつのだが、その病院出身者の多くは業界最前線にてバリバリ活躍している人間が妙に多い。

いわゆる出世コースに乗っかっている人間もたくさんいる。

 

最初の頃は「単純に労働耐性が高い人間が多く集まったから、そういう結果が出ているのだろう」と思っていたのだが、最近また違った感想を持つようにもなった。

 

人は激務病院で何を学ぶのか。

それは安達さんが冒頭で書いた問題解決能力に実によく似ている。

端的に表現すれば雑務処理能力というのが妥当のように思う。

 

本質ではない仕事をどれだけサクサクと処理できるか

世の中には2種類の仕事がある。それは本質的な仕事と本質的ではない仕事だ。

医者にとっての本質的な仕事は病気の診断や治療だ。

この2つは医者にしか行うことができない大切な仕事であり、医者の仕事の面白さは究極的にはこの2つに集約されているといってもいいかもしれない。

 

しかし世の中の多くの職業がそうであるように、医者もこの本質的な仕事だけをやれるわけではない。

それ以外にも数多の書類仕事や他職種間のコミュニケーション、病院におけるお作法といった数多の本質的ではない仕事がある。

 

この手の本質的ではない仕事を多くの医者は非常に嫌う。

だいたいの医者は「こんなん医者の仕事じゃない」といってブツクサいいながらイヤイヤ処理をしている。

 

実は激務病院はこの手の本質的ではない仕事の量が凄い。

よくもまあこんなにと感心するぐらいの雑務があり、それをスピーディに処理できないといつまでたっても本質的な仕事に取りかかれない。

 

なので多くの人は雑務を物凄いスピードでさっさと処理するように自然と適応していく。

普通だったらダラダラと「嫌だなぁ」とかいって机の上で放置し続けてしまうタイプの仕事を、心を無にしてザザザっと早急に捌くようになる。

 

本質ではないタスクの処理速度は本質的な仕事のクオリティを著しく上げる

新卒を上がりたての頃、僕はこの山のように積み上げられた雑務を大量に処理するのが本当に苦痛だった。

せっかく医者になったのに、なんでこんな馬鹿げた仕事ばっかりやらなくてはいけないのかワケガワカラナイと毎日のように嘆いていたのを思い出す。

 

書類を書く時間で一冊でも多くの本が読みたかったし、馬鹿げたカンファレンスに出席する時間があるのなら現場にたって診療行為を行いたかった。

もっと本質的な仕事でもってちゃんと働きたかったのだ。

同じような事を思っている人は多いのではないだろうか?

 

しかし最近になって、この本質ではない仕事をどれだけスキマ時間の間で効率よく処理してしまえるのかというのは思っている以上に今の自分の仕事の礎として機能しているなと痛感する。

 

僕は医師としては中堅ぐらいの年齢に差し掛かってきたが、残念ながら本質ではない仕事の量は年々増えている。

おまけに以前とは異なり仕事の本質的な部分における責務も比較にならないほどに増えてきていて、本質部分での失敗が許されないような状況に晒される事も多い。

 

そのような状況下において、かつて身につけた本質ではない雑務的な仕事の処理技術がビックリするぐらい役にたっている。

雑務処理がサクサクやれるから、いざ本質的な仕事に取り掛かる際に余力が少し残せておけるような感じになるのである。

 

つい先日、研修医同期で会った時にこの話をしたのだが、やはりみな考えている事は同じようで、みんな「あの体験はやってる時はわけがわからかったが、振り返ってみると貴重な経験だった」と口を揃えて言っていた。

 

本質的ではない仕事を整備する能力は万能の基礎である

本質的な仕事に全力で注視するために本質ではない仕事を心を無にして高速で処理できるようになる。

この技術は実に重要だが、改めて振り返ってみると本質的な仕事だけをしていたら絶対に身につかないタイプの能力でもある。

 

仮に僕が診断と治療だけに若い頃から特化できていたとしたら、多分だけど僕は現場で理想論だけを振りかざす、まるで役立たずの頭でっかちな医者になっていたと思う。

 

様々な現場を経験してきたが、どこの病院にも固有の本質的ではない仕事が敷き詰められている。

そういう本質ではない部分をいち早く察知して整備し、本質的な仕事がキチンと流れるような環境をつくれる能力は自分の何よりの礎として役立っている。

 

そう考えると、ある意味では仕事の本質ではない部分に若い頃にたくさん関われた事は良い事だったのかもしれない。

 

本質の外には思わぬ副産物が転がっている

実のところ、この手の本質の外にある無駄にしか思えない部分に思わぬ副産物が隠されている事は結構多い。

最近気がついたこの手の副産物の1つに無駄な会議への出席がある。

いま所属している病院は物凄く会議が多いところで、それこそ一言も発言できないのに出席しなくてはいけない会議が山ほどある。

 

最初の頃はこのあまりにもバカバカしすぎる時間が苦痛で仕方がなく、僕は会議に出席する度に

「こんなところサッサと辞めてやる」

と砂を噛むような気分で会議に出席していたのだが、最近になって真面目に会議の内容を聞いて自分の心をそこに同調させるから苦しいのであり、己の心を切り離して置いておけば心があまり辛くならないという事にふと気がついた。

 

この会議からの心の解脱技術に気がついてからというものの、僕は他人に共感する事が全く苦痛ではなくなった。

あの虚無ともいえるような会議で過ごす時間を思い出す事で「あ、いまは本質タイムではない休憩時間だ」と心を外部スペースへと置くシステムが自分の中に構築されたのである。

 

共感するのに自分の心を通過させる必要など無い

今までは他人の話を聞くというと、それを自分の身の上の話であったかのように翻訳し、一緒になって心を痛め、その上で相手の身に寄り添っていた。

それが共感するという事だと思っていたのだ。

 

だが最近はわざわざ相手の言っている事を自分の中に通過させる必要などどこにもなく、単に相手の言っている事をそのままオウム返ししていれば大体の場合において相手は勝手に「共感してもらえてる」と解釈してくれるという事に気がついた。

 

むしろ余計な解釈やアドバイスが加わる分、前者の共感スタイルの方が評判が悪い。

前者のキチンと相手にコミットする共感スタイルのほうが明らかに心労は多いのに、後者のオウム返しな共感スタイルの方がウケるのだから、誠に人生というのは面白いものである。

 

以前は後者のオウム返し共感をやっている人間の事を超人だと思っていた。

「なんでこんなにこの人は自分という存在を殺しきって、虚無な時間を何十分も過ごせるのだろう?」と不思議で仕方がなかった。

 

しかし馬鹿げた会議にあまりにも出席し続けなくてはいけなくなった今の自分は、虚無な時間というものは残念ながら世の中には確かにあるという事を理解した。

それを避ける事は残念ながら不可能で、大切なのはどうやって心を傷めずにその時間をストレスフリーで通過するかである。

 

虚無の時間で心が傷んでしまうと、その後に続く本質的な仕事のクオリティがガクンと落ちてしまう。

それだけは絶対に避けなくてはいけない。

 

そんな状況で産まれたのがオウム返し共感という一種のカラ共感だ。

ガランドウなもう一人の自分を生み出し、本質部分にある自分の心を決して通わせないというこの技術は、本質的ではない時間を過ごす際に非常に大切なディフェンスとして僕の精神を快適に機能させている。

 

このように無駄な会議から有用な技術が派生する事もあるのである。人生、なんでも修行になるのだ。

 

副産物が本質に彩りを与える

かつて人生のコストパフォーマンスという話が話題になった事がある。

その議題は、とにかくお金を稼いで子供を作らずに自分の為だけに時間もエネルギーも没入させるのが最もコスパに優れた人生設計であり、己が不快になりそうなものを人生に巻き込む意味がサッパリわけがわからないというようなものだったように記憶している。

 

これは先ほどの仕事の本質と本質ではない部分の話に似たものがあるように思う。

実際、仕事にコスパを追い求めていけば、本質以外には価値は無い。

それこそ生産性を極限まで突き詰めていけば、本質の外にあるものはガンガン切り捨てられてしかるべきだろう。

 

しかし…生産性の向上≒やりたい仕事だけをやってもOKな環境という事には残念ながらならない。

そういう本質的な仕事だけで構成された環境というのを僕はみたことがない。

逆に本質的ではない仕事をたくさん抱える組織から唯一無二な高度の技術が生み出されている姿は沢山みた。

コスパを追い求めるだけであれが生み出されるとは到底思えない。

 

確かに生産性を上げていくことは大切だ。

そこに異論はまったく無い。だが、それは本質的ではない仕事から逃げてもいいという事とは同じではない。

本質的ではない仕事は改善されて然るべきではあるが、それはそれとしてキチンと処理されるようにしなくてはならない。

そうやって、初めて本質的な仕事に彩のようなものが産まれるのである。

 

さて先ほどの人生のコスパだが、本質を突き詰めていけば人は必ず死ぬ。

だから今すぐに全財産を使い切って安楽死するのがある意味では最もコスパはいいのかもだが、この選択肢が素晴らしいと諸手を挙げて賛成する人はそう多くはないだろう。

 

じゃあどういうのがいいのかというのを考えていくと…多かれ少なかれ、多くの人は人生にどんどん余計なものを付け加えていく事になる。

突き詰めていえばだ。僕は人生の豊かさというのは本質にどれだけの余計なものを収納できるかで決まるのではないだろうか?

 

若い頃に採算度外視でバカみたいに真剣になってガムシャラに働いて、そこで様々な思い出や社会適応の技術などを身に着けたり

結婚してたくさん子供を作って育ててだとか

そういうコスパという意味においては本質から外れたものは否が応でもその人の人生に奥行きを与える。

 

抱えて、抱えて、抱えてゆき。

抱えられるだけ、余計なものを抱えていく。

これがたぶん、良い人生というものの正体だ。

 

男らしさとか甲斐性のような、コスパという観点からみれば不純物としか形容できないものの中にこそ、人生の大いなる彩りがたぶん隠されている。

その彩りを自分の人生に組み込めるかどうかは、全てあなたの度量次第だけど。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Daniele D’Andreti