あまり気軽にできるモノではないのだが、ぜひとも一度経験してみてみて欲しい事の一つに入院がある。

入院は凄い。

何が凄いかって本当に、心の底から一刻も早く退院したくなるのだ。

 

毎日寝てて、全て家事のようなものは他人が代行してくれ、何もしないでも一日三食が提供される。

こう文字に書き起こすと「この生活で文句を言うのは筋違いにも程があるだろう」というような待遇であるにも関わらず、入院中の苦痛は筆舌に尽くし難いものがある。

 

不自由は不幸だ

なんでこんなにも入院は辛く厳しいのか。

医療関係者である自分がこんな事をいうのもアレなのかもだが、病院という場所がこの世で最も”不自由”を感じる場だからなのではないかと自分は推測している。

 

「肥った豚より痩せたソクラテスでありたい」という有名な言葉があるが、この言葉が示すように不自由というのは全てがお膳立てされた環境下であってもシンドイもので、自由は寒く虚しいものであっても人の心を温めてくれるものだ。

 

不自由は不幸だ。

実際、未だに大学卒業までの日々を思い返すだけで「よく生き抜けたな」と思うほどに実家や学校生活は最低最悪な体験だった。

文字に書き起こせば「そんなん大したことないよ」というような事でしかないのだが、それでもそこから感じられた不幸の味は確かなクオリアとして自分の脳に刻み込まれている。

 

自分に全ての責任があるいま現在の生活には若かった頃にあったような”保護”のような要素はないが、それでも今現在の自分の生活には自由があり幸福がある。

幸福とは自由の事なのである。

そして自由というものをもっと突き詰めて言えば、それは全てが自己責任だという事に帰結する。

 

幸せになりたいのなら、全部自分が悪いと考えよう

全てが自己責任。

これも文字で書き起こせば「そんなん普通の事じゃない?」というような軽い言葉に聞こえるかもしれないけれど、自分の知る限りこの言葉の意味をキチンと理解していない人の方が多いように思う。

 

たとえ話をしよう。

あなたが普通に街を歩いていて、身も知らない人から殴りかかられたとしよう。

このときに”悪い”のはどちらだろうか?

 

「そんなん暴漢に決まっているじゃないか」という人は自己責任という言葉の重みを全く理解していない。

こんな理不尽極まりないシチュエーションであったとしても、本当の本当に自己責任で生きている人なら間髪入れずにこう考える。

 

「周りをキチンとみていなかった自分が悪い」

「そもそも、こんな場所を歩いていた自分が悪い」

「自分の運が悪かった。まあ、こんな事もあるだろう」

 

人生をコントロール下に置く

「なにそれ。どんなにひどい目にあったとしても、全部泣き寝入りしろってこと!?」

こう憤る人の気持ちはわからなくもないが、この全部自分が悪いという思考にこそ本当の意味での自由を歩むキッカケのようなものがある。

 

先に上げた暴漢に殴られた後の考えだが、このように自分が悪いと考える事で人生をコントロールする余地のようなものが産まれた事に気がついただろうか?

 

周りをみていなかったのが悪いのなら、次からは周りをみればいいのである。

そうすれば殴られる確率を減らせる。

 

こんな所を歩いていたのが悪いというのなら、次からこんな所には近寄らなければいいのである。

今後の方針決定に役立てる事ができる。

 

運が悪かったというのなら、まあこんな下らない事程度の不幸でよかったと思えばいいのである。

車で轢かれてたらお陀仏だったか障害が残ったかもしれない。それよりかは遥かにマシだろう。

 

他責でモノを考えるという事は、自分の人生に”自由”が無いというのと同じ事

このように全部自分が悪いと考える事ができれば、そこに改善の余地が生まれる。

逆に「相手が悪い」だと、こういっちゃなんだが思考停止で全部が終わる。

 

殴ってきた奴は確かに加害者だし、殴られた自分は確かに被害者だ。

加害者と被害者の比較なら、そりゃもちろんカワイソウなのは被害者だ。

 

しかしそこで「カワイソウな私」を演じることに夢中になったり、被害者ポジションを死守して相手を逆に攻撃仕返し続けたりなどしたら…その人生は果たして”自由”だろうか?

 

むしろ加害者に影響されるままの人生を歩み続けてはいないのだろうか?

どう考えるかは人それぞれとしか言いようがないが、少なくとも僕はその人生には”不自由”しか感じない。

 

他責でモノを考えるという事は、自分の人生に”自由”が無いというのと同じ事だ。

誰かに影響され、その影響力が連綿なく続いていく人生は、延々と実家暮らしや義務教育における息がしにくいクラスに通い続けるのと同じぐらいに”不自由”な生き方のように自分は思える。

 

攻撃の気持ちよさに酔って被害者をやめられない人達

躁状態と鬱状態。どちらがいいかと聞かれれば、躁と答える人が多いだろうか。

 

鬱はシンプルに辛い。

その逆である躁は大体の場合において気持ちがいい。

 

しかし躁にも落とし穴がある。

人間、誰しもがあまりにも調子に乗りすぎて普段だったらやりもしない馬鹿げた選択をする事があるが、躁もあまりにも強すぎると身を持ち崩す。

 

酷い躁うつ病の患者さんは躁が極地に達すると大きな買い物やギャンブルなどで散財してしまう事があるというが、このように気持ちがいいという事は必ずにも良いというものではない。

 

これと似た関係が先にも登場した被害者と加害者の関係だ。

例えばイジメなら、イジメられるのはシンプルに苦だが、イジメるのは快だ。

イジメはあまりにも楽しすぎるからなのか時に殺人事件にも発展してしまう事があるが、誰だって冷静な時になら人を殺したというスティグマなど背負いたくはなかろう。

 

踊らされたら、せめて踊らされた事ぐらいは自覚しよう

快楽は決して悪ではない。悪ではないが…時に私達に牙をむく事もある。

この事は”自分はいま、調子に乗ってるかもしれない”と思うクセとしてインストールしておくに越したことはない。

これも言葉でもっていわれれば「当然」のように思える事だが、実は誰もやっていない。

 

例えば小室圭さんの一連の騒動はまるで彼が”朝敵”だといわんばかりの日本総出での征夷大将軍の大出陣のような凄みがあった。

あの騒動で攻撃の気持ちよさに酔っていた人は結構多いのではないだろうか?

 

人間、誰だって騙される時や転がされる事はある。

大衆はパンとサーカスに飢えがちで、マスコミがその希望に沿って醜聞のようなものを振りまくのは仕方がないし、そういう空気に一度ものせられない人などこの世には居ない。

 

そういう環境下で私達にできるのは「踊らされてしまった」という事実に真摯に向き合い、そして「踊らせてきた奴が悪いんだ」と他責思考に走らぬよう己の犯した罪に真正面から向き合う事ぐらいである。

 

それをしたところで別に誰も許してはくれないし、振り切れて攻撃し続ける側になった方が楽しいのかもしれないが、その人生はとても不自由だ。

 

被害者ポジションをとって、加害者をやるという麻薬

先の踊らされてる事に無自覚な人はまだマシなのかもしれない。

実は世の中には更にこれを拗らせた加害と被害の関係を悪魔合体させるタイプの人すらいる。

 

先日も温泉むすめというコンテンツが一部の人達によって炎上させられた事の話をした。

あれは「女性が性的に搾取されている」という被害者ポジションをとった上でのオタクへの加害行為ともいえるようなムーブメントなのだが、世の中にはこのように「被害者ポジションというマウントを取った上で、加害者のポジションをやる」という恐ろしい人達がいる。

 

一般的には加害的行為は”悪”の所業だが、大義名分のようなものがそこに加味されると攻撃してもOKだという”許し”のようなものが産まれる事がある。先程の小室圭さんの話もその一つだ。

 

辛すぎて現実を忘れたいからなのかイジメが楽しすぎて加速してしまっているのかはわからないが、世の中には自分でわざわざ傷つきにいって被害者にジョブチェンジして加害者を演じ続けるという当たり屋のような人達がいる。

 

個別に事情を追っていけば、そういう人達にも一定の同情の余地のようなものはあるのだろう。

だが、残念ながら世の中はそういう人に優しくし続けるほどには堪忍袋の緒は太くはない。

面倒くさいヤツだとレッテルを貼られて、そっ閉じされるのが関の山だ。

 

被害者ポジションをとって加害者を演じるのは、イジメが行き過ぎて人を殺してしまうかのような”快楽”が生み出した人を駄目にする何かだ。

少なくともそこに自由はない。何かに自分の人生をコントロールされ続ける不自由な人生だけがそこに取り残される。

 

攻撃は防御と違って楽しいけれど、その快楽の沼に落ちる事だけは避けなくてはいけない。

そういう闇落ちした不自由な人生を歩んでいたら、人生からコントロールなんて一瞬で消失する。

 

高齢者が入院するとボケる事からわかる残酷な現実

冒頭で僕は入院生活の息苦しさを書いた。実はこの話には続きがある。

医療関係者なら誰もが知っている事の一つに、高齢者が入院すると認知症がとてつもなく加速するというものがある。

 

若くて健康な人を病院という不自由な環境下に置くと…人は苦痛を感じる。

年老いた不健康な人を病院という不自由な環境下に置くと…人は痴呆になる。

 

じゃあ不自由な人生を歩み続けている人が、年老いて不健康になったらどうなるか…

もう言うまでもなかろう。たぶん自我が消える。

 

「あいつが悪い。こいつが悪い。私は何も悪くない。」

そういう他責の念で救われる時もあるだろう。それを否定するつもりはない。

 

けど、自我をもって人生をやりたいのなら…全部自分が悪いと思えるような人間をやろう。

たとえ万に一つも自分に原因がなかったとしてもだ。そう思える強い心にしか自由は宿らないのである。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Basil James