おれはバカかもしれないと思ったときに手に取った本
図書館で倫理、哲学、道徳あたりの文庫本の書棚を見ながら、「どれも難しそうで、読めそうにない。おれはバカなんじゃないか」と思ったら、この本が目に入った。
『自分はバカかもしれないと思ったときに読む本』。これである。
おれはまさに自分が「バカかもしれない」と思ったのである。今、この本以外に読む本があるだろうか。
借りて帰ったおれは、この本を午後の中央競馬の特別戦が始まる前に読み終えてしまった。
「ひょっとしたら、おれは賢いのか?」とも思ったが、もともとは「14歳の世渡り術」というシリーズの本の文庫化だったらしい。
おれがいまの知識のまま14歳に転生したらそれなりに賢いのかもしれない。……と、言えるのだろうか。
バカは作られるというけれど
この本の冒頭で述べられているのは、「バカは作られる」ということだ。そのときの環境や、なにより周りの見る目によって作られるという。
自分自身をどういう人間かと思っているか、すなわち自己イメージは、周囲がその人をどう捉えているかというイメージに連動します。その両方が「バカ」だということになっていたら、「挑戦する」というポジティブな発想にはなかなかなれないですよね。
ここでは、著者が家庭教師をしたという、ラグビーのスポーツ推薦で進学しようとしていた子供の話が出てくる。
中学2年生なのに、ほとんど漢字が読めなかったらしい。なので、漢字の基礎から学び直したら、数学の文章題なども解けるようになり、偏差値もアップしたという。
だが、本人も親も教師も「バカ」だという思い込みがあり、著者の勧める一般入試を受けなかったという。
その後、その子がどうなったかはわからないが、「バカ」というものは環境によって作られるということだ。
そういう著者も人生で二回、「学年ビリ」になったことがあるという。
一度目は、親の転勤でアメリカの小学校に放り込まれたとき。英語のABCもわからないので、当然なにもわからない。
これはビリだ。だが、日本の九九という技によって、算数だけは高得点を取って、周りの見る目を変えたという。
「言葉がわからないだけで、頭が悪いわけではないのだ」と。
二度目は、日本に帰ってきたときだ。
英語はできるようになっていたが、漢字の知識が何年か抜けていた。これでは基礎となる文章が読めない。それでビリになった。
が、中学にあがって英語が始まると、それが武器となって「漢字がわからないだけで、頭が悪いわけではないのだ」となった、という。
なるほど、著者にはピンチとそれを切り抜ける武器が偶然備わっていたのだな……などと思いつつ、「竹内薫」という著者名で経歴をWikipediaで確認してみる。いや、名前くらいは知っている。
筑波大学附属高等学校→東京大学教養学部教養学科→東京大学理学部物理学科→マギル大学大学院博士課程修了(マギル大学はカナダで一番の大学らしい)……ねえ、これってもとから文化資本の高い家庭に生まれ、生まれつきの頭もよかっただけじゃねえの? そう思ってしまった。
するとなんだろうか、なるほど、このレベルの人間にとっては「バカは環境が作る」ものと感じるかもしれないな、ということにはならないか。
自分のような凡人、もとから能力のない人間が「バカであること」が理解できないんじゃねえのかと、そう思えてしまうのだ。
「バカであること」はどういうことか。
九九は覚えられても、その先の算数で躓く。躓いて大転倒して、開放骨折をする。二度とまともには歩けない。数学? そんなものがわかるわけないだろう。つるかめ算の坂道を登ることもできなかったんだ。
して、そんなことは著者もお見通しだ。
数学の怖いところは、実は積み重ねていく知識だから、どこかで躓くと、途中ちょっとブランクがあったからその先を勉強して追いつこうと思っても、そうはいかないんです。そのブランクの部分をちゃんと勉強して埋めていかないと、結局身に付かない。成績も上がりません。
おっしゃるとおりで……。これが文系の歴史とかになると、メソポタミア文明あたりは苦手でも、明治維新は得意だとか、そんなこともありうる。それで成績が上がるかどうかわからんけど。
というわけで、おれが算数ができない話は前にも書いたっけ。
英語が必要であるということ
して、この著者にしてこれからの日本人、若い人に必要なことが二つ記されていた。
一つは、英語である。
ミもフタもない話ですが、情報をどれくらい集められるかっていう技術の問題になるので、今らなどうしてもインターネットでどれだけうまく一次情報まで到達することができるかという検索能力が鍵を握ります。
ふむふむ。
やはりミもフタもないけれど、このときに効いてくるのが、英語なんですよね。
玉石混淆の情報が溢れかえるこの現代社会において――インターネット社会、情報化社会といわれますね――、精度の高い情報っていうのは、どうしても英語に偏っているんです。
うーん、やっぱり。
今、国家間戦争なども行われており、そこでは現実の戦場のほかに、ネットを舞台にした情報戦も盛んに行われている。
そこでファクトとフェイクを見分けるのはなかなかに難しい技術だ。
とはいえ、限られた誰かが、限られた情報を日本語化したものに比べて、元になる英語情報の方がはるかに量が多いし、その中にファクトや精度の高い予測が含まれている場合も多いだろう。
もちろん、英語情報の中にこそ大量のフェイクが紛れ込んでいるのはたしかだろうが、そこに潜り込んで精査し、よりよい情報にアクセスするためには……英語が必要よな。
いや、このたとえを出すなら、ウクライナ語かロシア語だろう、という話もあるだろうが、まあ、それはそれとして。
なにせもう、英語はたくさんの人が使っている。
「え、ダブルスコアで中国語(の標準語)使ってる人間の方が多いじゃん」という声もあるかもしれない。
が、所詮それはほとんど中華人民共和国で使われているに過ぎない。
英語はイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、その他、いろいろな国で使われている。
それぞれに小さな差はあるかもしれないが、同じ言葉だ。
もちろん、いろいろな違いはあるだろうが、おおよそ一緒だろう(英語わからんから、しらんけど)。
そして、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアがこの世から一斉に消失することもないだろうし、いきなり情報を遮断して世界から孤立することもないだろう。
だから、英語は強い。中国語は危うい……って、この段落はおれの考えたことなので。
まあ、そういうわけで、英語ができなければ話にならない。
今後、日本という国も没落していく一方だろうし、海外に買われていく運命にある。
そのとき、必要なのは中国語かもしれないが、リスクヘッジという面からは英語のほうが無難のように思える。日本に留まるにしても、世界に旅立つにしても。
英語 is 素晴らしい。しかし、おれは英語ができない中年である。
今後、どんなに素晴らしい翻訳システムが開発されようとも、英語の情報の海を泳いで、大切な情報を得るためには、自分自身が英語を理解していなければならない。そうでなければ自由がない。
まだ若い人、あるいは子供を持つ人。英語はミもフタもなく重要だ。
できなければ死より過酷な運命が待っているかもしれない。
こんなこと、できるビジネスパーソンには当たり前すぎる前提かもしれないが、底辺の高卒にとっては、「やっぱりそうなんだな」と思わざるをえない話である。
数学が必要であるということ
もう一つは、数学だ。
グーグルの検索エンジンが出現したとき、他の検索エンジンの会社の連中がみんな仰天したんですよね。なんでこんなことができるんだ、って。その仕組みは最初だれもわからなかったんですよ。映画『スター・ウォーズ』のプレビューを世界配信したとき、ほとんどのサーバーはアクセスが殺到してダウンしましたが、アカマイのサーバーだけは生き残った。なぜ、グーグルだけに検索できて、なぜ、アカマイのサーバーだけがダウンしなかったのか。それは、圧倒的な数学力の差が生んだ技術のギャップなんですね。
というわけで、現代の「圧倒」は数学力から生まれる。
でも、そんな最先端企業のトップレベルの技術者でなければ? しかし、数学は必要なのだ。
代数を学ぶ効用というのは、難しい演算ができるようになることじゃない。それははっきりいっておきたいですね。
次々に抽象度のレベルを上げていくっていうのが、おそらく人類特有の能力であり、文化の発展の秘密なんです。そういうプロセスが純粋なかたちで表現されるているのが、数学(代数学)なんですね。
「数」というのは抽象的な思考の第一段階だという。
なるほど、それはわかる。わかるが、おれにはその中身がわからなかった。
それゆえに社会の底辺に這いつくばっている。そういう性能しかない。だからこそ、わかる、といってはいけないだろうか。
それにしても抽象化だ。
デヴィド・ソベルという人の『足もとの自然から始めよう』という本を読んだことがある。
ひとつの大問題として「早すぎる抽象化」がある。私たちはあまりに早くから、抽象的な事柄を教えてしまう。
そう、数は抽象化なのだ。
早急な抽象化が、小学校低学年の間にマスフォビアを生む主な原因のひとつであることに算数の教育者たちは気づいたのである。
そして、算数の「早急な抽象化」がマスフォビア(算数嫌悪)を生むという。
マスフォビアを起こした子どもたちが大人になってからの述懐によると、多くの場合マスフォビアは小学校3、4年のつまづきを覚えた時に始まり、それ以降努力する気も失せてしまったのだという。そして算数がより難しくなると、彼らはそれを無視した。心理学でいうところの「解離」が起きてしまったのだ。
まさしく、まさしく。一度躓くと、もう戻れない、算数、数学の恐怖。これである。
幼い子供を持つ人、これを意識しなくてはならない。抽象化する能力の重要さと、危険さだ。
早すぎる抽象化は、危ない場合がある。かしこい性能をもって生まれた人間ならばともかく、そうでなければ、悲劇を生む。
この現世において、数学ができないという決定的な欠陥を持つことになってしまう可能性がある。
おれは決定的な欠陥を持ってしまったからこそ、そう忠告したい。え、おれみたいな高卒の底辺から聞く言葉はないって? それも正解だ。
競争社会は他人をバカにする仕組みでできている
競争社会は、他人をバカにするような仕組みになっていて、その罠には誰でもはまりうる。でも、その仕組みさえ知っていさえいれば、バカにされる前に避けることができる。あるいは、すでにバカにされてしまっていても、その状態から脱することができる。あきらめる必要なんかない!
と、東大を二度卒業して、海外で博士号を取得できるような人が書いていますが、まあどうでしょうか。
「まったくそのとおりだ」と思える人は人生に成功しているか、その子供に幸せの道を歩ませることができる。
「他人をバカにするような仕組み」で、他人をバカにできるような人間は幸せだ。その道を歩めばよい。
「えーと、そうなの?」とか戸惑っている人間、もういい年になって、英語も数学もできない人間には、競争社会の敗北者として大人しく底辺を這いつくばって死んでいくしかない。
とはいえ、その人間に子供がいなければ、そこで不幸の再生産を止めることができる。それだけが人類に対する希望となるだろう。
もし、子供がいたならば? そんなのはおれの知ったことではない。ただ、子供だけが幸せになる、細い糸にすがりつけるよう祈るだけだ。
競争社会、自由社会とは、他人をバカにするような仕組みになっている。
おそろしいが、それが事実だろう。
バカにされないためには、英語と数学だ。物事の抽象化だ。
そして、おれはバカだから書き忘れたけど、フィードバックの重要性を学ぶことだ。そうでなければ、生きる価値もない。
生きる価値もない人間が、どうして生きようか。まったくもって難しい問題だ。
そんな人間の行き着く先は、仏教かもしれないし、アナキズムかもしれない。おれはそんなところにすがって生きている。
栗原康の『アナキズム』にはこんなことが書いてあった。
ひとが生きていくのに「はじまり」なんていらねえんだよってことだ。カネ、カネ、カネ? なにがカネだよこのやろう、くれよ! ってね。生きることに目的なんてない。はじまりがなければ、おわりもない。過去もなけりゃ、未来もない。あしたなんてない、きのうも大キライ。だったら、将来のために、いまを犠牲にするのはもうやめよう。いまこの一瞬に、人生まるごと賭けちまえ。いま、いま、いま。きょうもあしたも、やけのやんぱち。なんどでも、なんどでも、死んだつもりで生きてみやがれ。やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ。きっと、そういう「いま」を生きつづけるのが自由ってもんなんだとおもう。フリーダム!
どうだろうか。やるならいましかねえ。
おれはものごとの抽象化がすごく苦手だ。即物的な俗物だ。即仏の超横もありゃしねえ。
いきなり話が飛んだと思う人もいると思うが、英語と数学の世界と、こっちのどっちを取るかという話でもない。おれにとってはそうだ。
おれはもう、「いま」しかない。英語と数学を極めた十年後なんてありゃしねえ。そういう年齢になってしまった。そうやってここまでだらだら生きてきてしまったからだ。
まだ、間に合う人間は、英語と数学をやるべきだ。
以上。
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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
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