36のおっさんになると「最低賃金を最低ちんちんに聞き間違えたよ、ガッハッハッ」って言っても、誰も叱ってくれないからな。誰も、叱ってくれないんだよ。
— 蝉川夏哉 (@osaka_seventeen) May 15, 2019
このツイートは他人事ではない。
私が10代や20代だった頃、間違いをやらかしている時や危なっかしい時には先生や先輩が叱ってくれた。ときには「お前、何やっているんだ!」的な、はじめに怒りの声が飛んでくる場面もあり、そのことに理不尽を感じることもあった。
その一方で、自分の問題点に注意を促してくれる人がいると肌で感じられる場面もあり、それらが私の行動を軌道修正してくれた。
しかし30代になり、さらに40代にもなってそういう機会が減った。今、私のことを叱ってくれるのは、若い頃から私のことを知っている先輩や友人ぐらいのものだ。
私だけが叱られにくくなっているわけでもあるまい。
たとえば冒頭のツイートのような言動をやらかし、放っておかれている中年をしばしば見かけるし私もそういう時にはスルーする。親切心のつもりが逆恨みされても面白くないし、そこでコストやリスクをわざわざ支払う理由が思い浮かばないからだ。他の人々も、そうだろう。
「これをやったら損をする」「これをやったら迷惑をかける」「これをやったら人望を失う」──そういう他人の言動が放置されているということは、私自身のそういう言動も同じくスルーされていると想定すべきだろう。
そして他人からスルーされたまま、そのことを自覚できない限り、私はまずい言動をずっと繰り返すだろう。
では「自覚できない限り、まずい言動をずっと繰り返す」という事態を避けるにはどうすれば良いか?
叱ってくれるような年上との人間関係をつくったうえで中年期に臨むか、同世代や年下からも叱ってもらいやすい自分自身になっておく必要がある。
そしてもし、本当の本当に誰も叱ってくれなくなってしまったら、よほど自覚する力が強いのでない限り、社会適応が行き詰まるまでまずい言動をリピートする中年が爆誕するのだろう。
いやむしろ、まずい言動が果てしなくエスカレートするかもしれない。誰も叱ってくれず、自覚する力も乏しい人は「自分の言動はどれもセーフ」と思い続けるだろうから、どれだけ迷惑をかけようが、どれほど人心を失い続けようが、その行動を改めることができない。
自覚する力が乏しければ乏しいほど、事態が深刻になるまで気付きようもないので、その自覚力の乏しさに応じたトラブルや騒動を起こし続けるだろう。
相互不干渉の社会で「叱る」「叱られる」難しさ
そもそもの話として、「叱る」「叱られる」は、現代社会では歓迎されていない。
「叱る」とは、他人に対する強い干渉だ。危なっかしいことをしている子を親が叱ったり、患者さんの命にかかわることをしているレジデントを指導医が叱ったりするのは、強い干渉を行ってもおかしくない立場や役割があり、叱られる側を緊急に保護しなければならない切迫性が伴うからだ。
逆に言えば、そういった立場や役割や切迫性も無いのに「叱る」というアクションが許容されることはまず無い。
だから赤の他人を「叱る」のは難しい。
なぜ、赤の他人にそのような強い干渉をするのか?
本当にして構わないのか?
これに答えられる状況でない限り、不当な干渉とみなされかねない。
逆に赤の他人に「叱られる」のも同じぐらい難しくなった。
なぜ、赤の他人に強い干渉をされなければならないのか?
これが理解できる状況でない限り、私たちは「叱られる」を不当な干渉と解釈する。相手の立場や役割や切迫性が理解できない人は、そうした「叱られる」をすべて不当な干渉と受け止め、憤ったり、傷ついたりするだろう。
相互不干渉は、現代社会ではひとつの通念として浸透している。
かつての日本では、相互干渉は日常茶飯事だった。親が子を叱ったり、指導医がレジデントを叱ったりするのは当然として、近所の人に口出しされる・姑が嫁にお小言を言う・部下が上司の家まで飲みに行く、といった無数の干渉がまかり通り、慣習化していた。しがらみが無数にあった、とも言えるだろう。
「叱る」は、そういった無数の干渉のひとつとして、いろいろなコンテキストのなかで発生し得るものだった。
団塊世代以降の人々は、そうした無数の干渉を嫌って、しがらみを避けて、相互不干渉な社会を建設してきた。ニュータウン然とした生活が普及したことで、地域社会にありがちだった濃密な相互干渉も希釈された。
物理的にも精神的にも核家族化が進んで、嫁姑のコンフリクトも緩和された。90年代以降は会社の上司と部下の飲みニケーションも減少し、少なくとも昭和時代に比べれば上司から部下への干渉は減った。
現在は職場でのセクハラやパワハラが問題視されているが、これは、上司から部下に対する干渉についての私たちの意識が変わったからでもある。
相互不干渉の慣習がいよいよ徹底し、干渉に対して昔よりもずっとデリケートになったから、昭和時代には許容されていた干渉、我慢の対象だった干渉が、令和時代にはハラスメントとして告発される。部下の側だけが嫌がるのでなく、大半の同僚や上司もそれらをハラスメントとみなし、許さないだろう。
相互不干渉の浸透した社会のなかで他人に干渉することはますます難しく、勇気の必要な、リスクを孕んだものになっているわけだから、私たちはおいそれとは他人を叱れないし、他人に叱られにくくもなった。
ここでいう「他人に叱られにくくなった」とは、他人に叱られる頻度が低下したという意味だけでなく、他人に叱られ慣れなくなった、という意味も含んでいる。
「叱られる」というルートで他人から何かを学び、自分自身の言動を省みるのは非常に難しくなってしまった──これは、叱られて行動を変えるのが苦手な人にとって大きな福音だったろう。
そのかわり、叱られて行動を変えるのが得意な人にとって災厄だった。世の中には、叱られることをとおして行動を変えるのが得意な人もそれなりにいる。
野球選手のイチローが「高校生たちに『自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれ』って言うのは酷なことなんだけど、今はそうなっちゃっているからね」と2023年のインタビュー で述べたことがあったが、ここでいう厳しさに最も影響されるのも、叱られることをとおして行動を変えるのが得意な人だろう。
叱ってくれる誰かがいればグイグイ伸びる若者も、今日では叱られる機会が乏しく、自分で自分厳しくするしかない。ということは、若いうちからきわめて自律性の高い人間であるよう要求されるようになったわけである。
若者でさえそうなのだから、まして、中年はなおさらだ。
高い自覚力と自律性。あなたは身に付いていますか?
誰も叱ってくれない社会では、自分の言動のまずい部分を自覚できないまま、すっかりスポイルされた中年になってしまうやもしれない。
それは、ある種の人々にとって不幸なことである。他方で戦後の日本人がそのような社会を望み、相互不干渉という果実を手に入れ、そのおかげで好き勝手に生きられるようになったのも事実である。
そのあたりの功罪はどう考えるべきだろうか?
どうあれ、「中年になったら誰も叱ってくれない社会」、いや、「若いうちさえ誰も叱ってくれない社会」では、私たちは相互干渉が当たり前だった頃よりもずっと高い自覚力と自律性を求められるだろう。
しかし、現代の40代以降を見ればわかるように、それは誰もがやってのけられることではないし、完璧にやってのけられることでもない。私もまったく自信が無い。ここらへんで「そんじゃーね。」と言って匙を投げたくなってしまう。
『シロクマの屑籠』セレクション(2019年5月16日投稿)より
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:UnsplashのDeclan Sun