はじめに、今月上旬にやたらとバズった以下のXのポストをご覧いただきたい。
「惚れた」と「社会適応にとってプラス」が重なりあう体質の人を例外として、大半の人にとって、配偶の相手として最適な人物と恋愛の相手として最高に思える人物って別じゃないですか。 それならもう、配偶や結婚や人生にとって恋愛は要らない子、なんなら足を引っ張る子でしょう? https://t.co/YuzoUG8zoP
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) December 6, 2025
家族やパートナーとして長く付き合っていくのに適した異性と、恋愛において魅力的とみなされる異性がイコールではないことが多い。だとしたら、合理主義的に考えて、恋愛は人生の舵取りにとって邪魔な存在、控えめに言ってもせいぜい脇役の域を出ない存在であるはずだ。
そのことをXに書き置きしたらたくさんの引用リポストが集まり、非常に面白く拝見した。引用リポストする人たちの過半数は、このポストに違和感をおぼえている様子だった。「恋愛を経た相手でなければ熟年離婚になるぞ」とか「惚れてなければ欠点が目につくぞ」といったコメントを読むと、つい私も、そうかもしれないと思ったりもする。
しかし、それは私も恋愛が結婚の必要条件とみなされていた時代の人間だからだろう。私が思春期を過ごした1990年代±10年は、結婚は恋愛というプロセスの所産であるのが当然とみなされていた。それより昔の家父長制的な見合い結婚に対する反動として、それは必要なことだったのかもしれない。またあるいは、1990年代の人々の合理主義の程度は、しょせんその程度でしかなかったのかもしれない。
若者の恋愛離れと、リスクとしての恋愛
統計的にみると、若者の恋愛離れ、2020年代の人々の恋愛離れは進んでいる。博報堂生活総合研究所『Z家族 データが示す「若者と親」の近すぎる関係』から少し引用しよう。
現在の若者の若者であるZ世代では「恋愛が人生のすべてではない」という感覚が強まっています。実際、男女ともに恋愛願望は減少しており、「自分は恋愛願望があるほうだと思う」と答えた人の割合は、30年前は83.9%と8割を超えていましたが、直近では69.2%と7割弱になっています(男女差はそこまでなし)。同時に「同性の目と異性の目では、どちらかといえば異性の目を意識する」人は69.5%→51.5%に減り、「どちらからといえば同性の目を意識する」人が30.5%→48.5%に増えたことで、ほぼ同じ割合となっています。
他のさまざまな調査結果と同じく、本書もまた、若者において恋愛が退潮しているさまを示している。他方、結婚願望には変化はみられない。

ちなみに結婚願望に関しては大きな変化は見られません。結婚願望がある方だと思う」と答えた人の割合は、59.7%→60.0%と、横ばいにとどまっています。「恋愛はすべてではないが、結婚はしたい」ようです。
この、『Z家族』という本はもっと広範囲の若者世代の人間関係や社会関係について調査・分析している本で、他にも面白いデータがたくさん記載されている。この文章と関連のありそうなところでは、たとえば
・性的な話をすることを許容する度合いが昔よりも低下している
・露出度の高い服装をするのは同性の友達といる時
・異性の友達は減っている。同性の友達は変わらない
・子ども時代から馴染んでいる友達との縁を大切にしている
といったことも記されている。これらは、私の周辺から聞こえてくる話とも矛盾していないし、学生時代に知り合ったパートナーとの結婚のパーセンテージが増えているといった別調査の結果とも矛盾していないように聞こえる。
本書のデータとその周辺から類推されるのは、現代の若者は恋愛、というより男女交際についてまわるリスクやコンプライアンス違反に対し、昔よりもずっと慎重に構えていること、そして相手がローリスクである既知性を重視していることだ。
昨今は、コスパやタイパが重要だといわれ、かつ、コンプライアンスを遵守し各種ハラスメントを避けるべきとみなされている。
本書の調査から浮かび上がってくるのは、パートナーや友人といった親密な人間関係の領域においても合理性やリスク回避の考え方を適用している若者の姿、あるいはそうした考え方が親しい仲の次元にまで及ぶほど内面化されている若者の姿だ。
30年前の私たちの世代にも比較的慎重な若者がいなかったわけではない。けれども私が記憶している限り、全体としては男性も女性も恋愛に対してもっと体当たり的で、合理的かつリスク回避的なパートナー選択が行われている程度はもっと低かったよう記憶している。
若者の性体験率や交際経験率が今よりずっと高かったのも、恋愛が特権化された位置にあったことに加え、若者だった当時の私たちに合理性やリスク回避の考え方が十分に内面化していなかったから、無分別な交際や衝動的な性行為が起こり得たためだろう。
さきに挙げた恋愛願望と結婚願望のパーセンテージの推移が示すように、1990年代においては恋愛が結婚に優越し、なおかつ結婚の必要条件として捉えられていた。しかし、今日の目線で見る恋愛、ひいては男女の間柄とは、なかなか合理主義に馴染まず、リスク回避の精神とも合致しない厄介な代物だ。合理主義やリスク回避の考え方に沿うなら、むしろ、恋愛よりもマッチングアプリのほうがそれらに合致していようし、既知のパートナーと結婚したり、信頼できる者の仲介に基づいて結婚したりするほうがよりそれらに合致してもいよう。
結婚は、人と人との間、なんなら血縁集団と血縁集団の間で起こることだから、そこにはどうしても合理性に馴染みきらない部分、リスクを伴う部分が含まれる。
である以上、合理性とリスク回避を突き詰めた結果、結婚しないという結論にたどり着く人が増えているのは理解できることだ。
と同時に、どうせ結婚するならローリスクに模索する、またはローリスクにことを進められそうなら結婚を選択する、というのも理解できることだ。結婚それ自体の合理性の当否はともかく、もし結婚するなら合理性やリスク回避といった今日の考え方に沿ってそれを行うのは、現代風のやりかただと言えるだろう。
合理主義者は勤勉な異性の夢を見るか
それでも、いまどきの合理主義者において恋愛と結婚とが重なり合う可能性はゼロではない、と思う。
それが起こるのは、「結婚後の生活や社会適応にとって好ましい性質を持った異性に思慕が募る」、そのような異性の好みを持っている人の場合だ。
恋愛対象に期待される性質と結婚に期待される性質は、しばしば異なっているといわれる。
たとえば恋愛においては華やかさや見栄えの良さ、ドラマチックさは結婚よりも優先度が高い。スリルが恋愛の一要素になることだってあるだろう。うまくない表現であることを承知で書くなら、ドーパミンの出るようなパートナー・ドーパミンの出るような時間が、恋愛においてプライオリティが高い。
しかし結婚生活においては、華やかさや見栄えの良さはそこまで優先度が高くない。長い日常を共有するにあたってはドラマ性やスリルは邪魔ですらある。
ドーパミンの出るようなパートナー・ドーパミンの出るような時間のプライオリティも低い。うまくない比喩を重ねるなら、セロトニンの出るようなパートナー・セロトニンの出るような時間こそがふさわしい。
経済面でも、恋愛対象と結婚対象の最適解は異なる。パートナーの羽振りが良いことは、恋愛に際しては好ましく思えるかもしれない。
しかし結婚生活が始まった時、パートナーの羽振りの良さは浪費体質となって仇となる。SNSでは、デートに安い店を選ぶ人に難癖をつける声が充満しているが、結婚、特に合理主義者の結婚に関しては、状況によってはサイゼリヤやガストを選ぶこともためらわない、そのような性質のほうが安心できる。
進化生物学の観点から考えると、女性が羽振りの良い男性に惹かれやすいのはわかる気がするし、男性が若い女性に鼻の下をのばしやすいのもわかり気がする。ディスプレイの派手な雄がモテて、若く妊孕性の高そうな雌がモテるのは自然界でも人間界でも本当は変わらない。
だがそれらは本能に根ざした選り好みでしかなく、今日の合理主義にフィットした選択でもない。
いみじくも合理主義者であるなら、本能的な選り好みでパートナー選択するなどあってはならないことだ。人生の終わりまで結婚生活が続くという前提に基づき、それに最適なパートナーを選択するのが道理にかなっている、つまり合理的であるはずである。
では、本能と合理性、恋愛と結婚それぞれの間のギャップをどう解決すればいいのか。
ひとつの方法は、マッチングアプリや見合いや結婚相談所を利用することだろう。恋愛に依拠しないかたちで結婚のパートナーを探し、決定するこれらの方法はこのギャップを解決しているようにみえる。
ただし、この方法にも問題点はある。それは、恋愛したい本能を合理主義で無理やりに封印した場合、その封印が解けてしまったら大変なことになってしまうかもしれない点だ。特に、本当は恋愛したいと思っている人が合理主義的に強引に恋愛に封印をほどこして生きていく場合、封印が解けてしまうリスクはどこかに残る。
もうひとつの方法は、自分自身の選り好みを変えてしまうこと、できるだけ若いうちからセロトニンの出そうなパートナー・セロトニンの出るような時間を志向するように育ってしまうことだ。
もう少しだけ言い換えをさせていただくなら、恋愛に際して魅力的と感じる性質と結婚に際して好ましいとされる性質が事前に重なり合わせるよう、そうした性質を内面化してしまうことである。
そんなもの内面化できるの? と突っ込む人もいらっしゃるだろう。だが、合理主義者諸氏は自分の胸に手をあてて振り返ってみるべきである。
そもそも、その合理主義じたいが子ども時代からの環境や教育によって内面化され、社会経験の積み重ねによって強化され、しまいに当たり前すぎて疑問に思うことすらなくなった行動原理ではなかったか? 近代以前の人間のほとんどが合理主義者ではなく、もっと衝動的に生きていたことを思い出すにつけても、ある行動原理、ある志向を経験の積み重ねをとおして内面化していくことは不可能ではないはずである。少なくとも、そのように人間自身を馴致する余地はある。
馴致する余地はある、と書いたが、『Z家族』の内容を思い出すにつけても、これは現在進行形で起こっている現象ではないだろうか? と私は疑う。
合理主義とリスク回避の考え方がこれほど広く浸透している今、そこで行われる結婚、ひいては世代再生産は、恋愛に最適化した者はうまくいかず、結婚生活に最適化した者がうまくいくかたちで進行していくだろう。社会全体のトレンドとしてセロトニンの welfare が来ているこの数十年の流れを踏まえるなら、やがて日本人の性嗜好はもっと合理主義に寄ったものに変わっていき、ドーパミン頼みの恋愛はますます下火になっていくかもしれない。
そうなれば、合理主義者は恋愛と結婚のギャップに悩むことなく、ぐるっと回ってロマンティック・ラブと合理主義的配偶者選択の幸福な結婚をみるだろう。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

Photo:Zoriana Stakhniv





