フランスの優勝で幕を閉じた、サッカーワールドカップのロシア大会。

直前の監督解任劇や、負け試合でのボール回しなどが議論を呼んだが、日本代表も決勝Tに勝ち上がり、総じて成功と言える大会になったのではないだろうか。

 

さてその中で、今回も日本サポーターのスタジアムでのゴミ拾いが世界のメディアの注目を集めたことが記憶に新しい。

日本人であれば当たり前に持ち合わせている価値観であり美徳ではあるが、やはりこのような行為が世界の舞台で称賛を受けると悪い気がしない。

掃除だけが一人歩きするのではなく、その根っこにある感謝の気持ちや思いやりの文化と併せて、ぜひ世界に広まって欲しいと願う。

 

しかしその上で、この国際舞台で広げられるゴミ拾いという美徳。

本当に手放しで称賛をしても良いのか、以前から僅かばかり違和感を持つことがあった。

我ながらいい度胸だと思うが、「武士道」の価値観を引用しながら、敢えて疑問を投げかけてみたいことがある。

宜しければ、少しばかりお付き合いをお願いしたい。

 

まず、「武士道」という言葉についてだ。

言うまでもなく武士道は、日本人的な道徳観や価値観を表す言葉であり、世界でもっとも知られた日本語の一つだろう。

しかしその一方で、例えば訪日外国人から突然「武士道とは何でしょうか」と聞かれた時に、自分なりの解釈を回答できる日本人が果たしてどれだけいるだろうか。

きっと、そう多くはないのではないだろうか。

 

武士道について書かれた書物では、旧五千円札でおなじみの新渡戸稲造が1899年にアメリカで著した「Bushido: The Soul of Japan」がよく知られている。

原文は英語だが、明治期に日本に逆輸入され、日本語版も出版されており内容も平易なので、もし興味があれば一度手にとって欲しい良書だ。

武士道という価値観について、基本的な知識を身につけることができるだろう。

 

なおここで武士道を持ち出したのは、もちろん本の宣伝が目的であったわけではない。

この新渡戸が著した「Bushido: The Soul of Japan」にはとても興味深い記述が多くあり、そのいくつかをご紹介したかったからだ。

それは、例えば以下のようなセンテンスである。

”日本人の過度に感じやすく、激しやすい性質についても、私たちの名誉心にその責任がある”

”外国人からよく指摘されるような「日本人は尊大な自尊心をもっている」という言葉も、これもまた名誉心の病的な行き過ぎによる結果であると言える。”

(以上、Bushido: The Soul of Japanより引用)

武士道の中での新渡戸の言葉だが、正しい日本人評だと素直に聞くには、なかなか違和感のある内容ではないだろうか。しかし間違いなく、100年余り前の日本人は自分たち自身をこのように評価し、また欧米からこのように理解されていた。

 

そして実際に、この本の出版から6年後となる1905年、日露戦争の講和条件に腹を立てた日本人は東京中で大暴れし、内務大臣官邸や新聞社、都電などを破壊し尽くし死者17名、負傷者500名を超える大騒動を起している。

いわゆる日比谷騒擾(日比谷焼打事件)だが、これほどまでに100年ほど前の私たち日本人は激しやすく、政府や政治のやり方を許せないとなると、死人が出るまで大暴れする凄まじい一面を持っていた。

 

一方で新渡戸は「武士道」で併せて、日本人が礼儀正しく、忍耐力にあふれる民族だと欧米で理解されている理由についても説明している。

つまり、100年前も今も「ゴミ拾い」の価値観を持つ民族であったということだが、それでは感情的で激しやすい性質だけが、この100年で私たち日本人から抜け落ちたということなのだろうか。

恐らくそういうことではないだろう。

そしてその答えはきっと、「礼儀正しさ」の根底にある価値観が変わっていることにあるのかも知れない。

 

ワールドカップなど世界的イベントで日本人がゴミを拾うのは、恐らく運営スタッフやスタジアムに対する感謝であり、清掃スタッフに対する思いやりの気持ちからだ。

少なくとも私が同じようなことをする時には、そのような思いで掃除をする。

 

しかし明治期の、武士道を行動規範としていた日本人の価値観では、礼節の底には違うものがある。

この時代の日本人は、新渡戸の言葉をやや乱暴にまとめると、恥を恐れ、名誉を守るために礼節を重んじた。もっと平易な言い方をすると、「人として恥ずかしいこと」を嫌っていたと言うことだ。

 

同じ「武士道」の中には「武士の約束に証文はいらない」という下りがあるが、恥を嫌い名誉を重んじる当時の日本人の価値観がよく分かる一文であろう。

そして、ここまで大事にする名誉を傷つけられ、恥を与えられた時、当時の日本人は非常に沸点が低く、礼節の人が突然暴れ出す光景を見せた。

 

つまり、現代の日本人は相手や周囲を思いやり礼儀を重んじるが、100年前の日本人は恥を嫌い名誉を重んじて礼節を大切にしていたのではないか、という仮説だ。

そしてこの2つは、時にイコールだが、時に全く違うものでもある。

そしてそのギャップが、現代の日本人を苦しめる原因になっていないだろうか。

 

例えばこの違いは、仕事の上で判断に迷った時に、頼るべき価値観に影響を与える。

相手や周囲を思いやるという価値観は、わかりやすく言えば相手の価値観を尊重し、そこに自分の意思決定をある程度依存させる行為だ。

顧客から無理な納期や価格を提示された時、相手の事情に過度に配慮をして、その結果として自社のエンジニアや下請けを泣かすような仕事を受注することは、この最たるものだろう。

言い換えれば、相手に配慮をして身内で過度な負担を背負い込む行為と言ってもよい。

 

一方で、恥を嫌い名誉を重んじる価値観は、あくまでも価値の判断主体は自分自身だ。

相手に対し一定の配慮をすることがあっても、最終的な判断基準は自分の価値観に依拠している。

言い換えれば、仕事の是非を切り分けるに際して、他人に依存しない確たる価値観があり、論理性を重んじる余裕があると言ってよいだろう。

 

 

具体的な話をしてみたい。

 

もうずいぶん以前のことだが、私が初めて発行体(会社)の立場でM&Aに携わった時の話だ。

事業の売却を検討していた当社は、M&A仲介では業界でよく知られた大手に依頼し、ディール(取引)を進めていた。

 

その一方で、株主系の別の大手仲介会社にも依頼をして、別の買い手候補を探そうと同時並行で話を進めようとした。

すると、最初に仲介を依頼した会社、仮にA社とするとA社の担当者が大慌てで飛んできて、

「困ります、M&Aは専任仲介が原則です。専任仲介でなければディールを進められません。」

と言ってきた。

 

なお専任仲介とは、一度ディールに着手すると、他の仲介会社はもちろん、他の買い手候補との交渉を一切禁じる約束で、M&Aを1:1で進めることを強制する約束事のことだ。

つまり、A社に仲介を依頼すれば、B社にも相手候補を探して貰おうという行為を禁じる約束事である。

 

納得がいかない特約であったが、この時にはすでに専任仲介条項を含めた契約が成立してしまっていたこと。

業界を代表する大手が言うのだから、恐らくそれが業界の常識なのだろうと思考停止したこと。

経営トップを含めて納得しているディールを、CFOである自分が一からもめてひっくり返すと、いろいろな人に迷惑がかかるだろうと「周囲に気を使った」こと。

そんな理由で、まずはやむを得ず、そのままディールを進めることになった。

 

しかし当然のことながら、どうしても売りたい事情がある売り手側に対し、買い手候補は1社しかいないのだから、交渉は完全に相手ペースだ。

売却の時期、人員整理や雇用の維持と言ったルール、売却価額に至るまで全て、ほぼ相手の言いなりで交渉事が進むことになる。

そして、3ヶ月に及んだ交渉は最後には決裂し、無駄な時間と労力を散々に使い果たし、最初の交渉が終わることになってしまった。

 

非常に大きな失望と徒労を感じる結果に終わってしまったが、するとすぐに、仲介会社A社の担当者が飛んできて、「次の候補先を紹介しますので、契約をお願いします」と言う。

さらに差し出したのは、以前と同じ内容の、専任仲介条項付きの契約書であった。

 

私はこの経緯に大いに疑問を感じていたので、その思いを率直に担当者にぶつけた。

「なぜ、専任仲介条項を呑まなければならないのか。」

 

すると担当者は、専任仲介条項でなければならない理由をいろいろ説明するが、その全てが納得の行くものではなかった。

当社の立場からすれば、交渉相手を最初から1社に絞り込んだことで、不必要な譲歩を重ね、売却価額でも全く交渉のテーブルに着くことすらできなかったという、苦い思いがある。

そのため担当者の言い分をすべて聞いた上で、

「M&Aはビット(入札)で行います。専任仲介で無ければディールを進められないというのであれば、どうぞ降りて下さい。」

と突き放した。

 

結果としてこの時、A社はディールに残り、最終的に3社のビットでM&Aが進むことになった。

なおかつ、専任仲介と違い買い手候補は3社なので、「どうしても売りたい」事情がある当社と、「絶対に手に入れたい」買い手候補の立場はイコールになり、非常に実のある交渉を進めることができた。

そして最後には、1回目の破談の時には数億円ですら成立しなかった事業売却のディールが、10億円を超えるディールとしてまとまることになった。

まさに入札効果だ。これ以上はない条件を、買い手側から引き出すことができる結果になった。

 

なお、念の為に補足しておくと、専任仲介条項は必ずしもデメリットばかりがあるわけではなく、またビットはどのような場面でも有効というわけではない。

ここでは、M&Aの手法についてご説明することが目的ではないのでその辺りは割愛するが、その点だけ、断片的な教訓のすくい取りはしないよう、くれぐれもお願いしたい。

 

その上で、この話で私がお伝えしたかったことだ。

私は最初、破談になったM&Aのディールに際しては、仕事の本質ではない様々なことに気を遣う判断をしてしまった。

いわば、相手や周囲に気を使い、その価値観とルールに無条件で依存をしてしまい、仕事を進めようとしたと言うことだ。

 

その結果、最初から意味のないディスアドバンテージを背負い、自社関係者ばかりが泣きを見るディールをまとめざるを得なくなってしまった。

 

しかし結果的に見れば、それは幸運にも破談になった。

そして仕切り直しのM&Aでは、私は自分の疑問を解消するよう相手に要求した。

M&A仲介大手の担当者が断言する「専任仲介が常識です」というルールに納得の行く説明を求め、合理性が感じられなければルールの変更を求め、結果として自分の価値観で仕事をすることができた。

何のことはない、相手や周囲の価値観に無意識に依存していた発想を変えるだけで、これほどまでに成果は変わるということだ。

 

話を最初に戻したい。

相手を思いやり、関係者に感謝をする気持ちは言うまでもなく大事だ。

しかしそれは、状況によっては自分の行動の判断を相手の価値観に依存させる危険をはらむことにもなる。

特に経営者であれば、この切り替えは強く意識する必要があるだろう。

経営判断をする上で、経営者が他人の価値観に依存をして良い場面など、まず想定できない。

 

その上で思うことは、もしかして100年前の日本人がワールドカップを観戦しても、ゴミ拾いをしないのではないだろうか、ということだ。

武士道の行動規範で考えると、自分の出したゴミはもちろん持ち帰るだろう。

人の道から外れる恥ずべき行為を嫌い、名誉を重んじるからだ。

 

しかしその道には、他人の散らかしたゴミの積極的な後片付けまでは含まれないような気がする。

なぜなら、武士道はどこまで行っても、他人とは無関係に、「自分がどうあるべきか」という道を追求する考え方だからだ。

 

「武士道」の解釈として、あるいは的外れな考え方かもしれない。

しかしもしこの解釈が正しいのであれば、私たち日本人は世界から称賛される一方で、武士道からは遠いところに来てしまったような気がする。

個人が独立し強い信念を持ち、確固たる判断基準を持っていた時代の日本人とは異なり、まず周囲に依存しようとする行動様式に流れてしまっているのではないか。

 

そしてそのことが、恥を嫌い名誉を重んじる、私たちの奥底に今も眠る価値観とぶつかり合い、時に現代人を大きなストレスに晒しているのではないか。

ワールドカップのゴミ拾いを見ていて、ふとそんなことを考えさせられた。

 

 

【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。

複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を持つ。

(Photo:Dawn)