前職の上司は、仕事が素晴らしくできた人だった。が、一番私が感嘆したのは、その「ネーミング」に対するこだわりだった。
「いいか、名前は大事だ」
と彼は、繰り返し述べた。
例えば、ある商品開発の会議において、「商品の中身」と「商品の名前」を決めなければならないとする。
会議の時間配分はどの程度だと思うだろうか?
私はせいぜい、中身に8割、名前に2割程度だと思っていた。ところが現実的にはそれは逆だった。なんと、名前に8割、中身には2割の時間しか割かなかった。
極端な事例であり、不合理だと思うだろうか?
だがこれは決して不合理なわけではなかった。なぜなら、彼は「ネーミングによって、商品の中身が決まり、人の動きが大きく変わる」ことを理解していたからだ。
仕事は人を動かした人物が大きな成果を収める。彼は本質を知っていた。
みうらじゅん、という人物がいる。
「マイブーム」「ゆるキャラ」という独自の言葉を創り、ブームにしたことで知られる人物だ。
彼はその著作※1で次のように述べる。
ここ数年ブームが続いている「ゆるキャラ」も、私が名づけてカテゴリー分けをするまでは、そもそも「ない」ものでした。(中略)
「ゆるキャラ」と名づけてみると、さもそんな世界があるように見えてきました。統一性のない各地のマスコットが、その名のもとにひとつのジャンルとなり、先に述べた哀愁、所在なさ、トゥーマッチ感、郷土愛も併せて表現することができたのです。
ゆるキャラ、と名付けたことで皆がこれを認識できるようになり、産業がつくられた。ネーミングによって、人の行動が変わったのだ。
「近代言語学の父」と呼ばれた、フェルディナン・ド・ソシュールという19世紀に活躍した言語学者がいる。
ソシュール的な考え方に立つと、ネーミングや表現は我々が認識している以上に大切なものだ。
私たちはともすれば、表現とは思考なり情念なりの衣だとかその翻訳であるように考えがちですが、実は思考というものが、その言語表現を見出す前に一種のテクストとして存在しているのではありません。(中略)
つまり表現というものは、それ以前には存在しなかったその内容自体を初めて存在せしめるという考え方です。※2
名前を与えられると、人はそれについて初めて考えられるようになり、概念について共感したり、議論したりできるようになる。
そう考えても良いのかもしれない。
村上春樹の著作に※3「ル・マル・デュ・ペイ」という言葉が出てくる。
その言葉は作品の中で次のように述べられる。
フランス語です。一般的にはホームシックとかメランコリーと言った意味で使われますが、もっと詳しく言えば、「田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ」。正確に翻訳するのは難しい言葉です。
私はこの一文を読んで、衝撃を受けた。
電車から田園風景を見た時、確かに哀愁を感じることがあった。ホームシックではない。私は田園風景に囲まれて育ったわけではなかった。
これはル・マル・デュ・ペイというより他はない。それに名前がついていたとは…
そして、初めて私は、この哀愁について人に聞くことができた。
「こういう感覚を持ったことはない?ル・マル・デュ・ペイというらしいけど……」
「ああ、わかる、その感覚!」
私はそれだけで嬉しかった。
人は、名前のないものについて、深く考えることはできない。逆に名前を生み出すことで、新しい概念についても考察できる。
だから、できる人はまず考察の対象の「定義」を考える。そしてその定義に名前をつける。ネーミングは、思考の出発点だ。
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(nofrills)
※1ない仕事のつくりかた(みうらじゅん 文藝春秋)
※2ソシュールを読む(丸山圭三郎 講談社学術文庫)
※3色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年(村上春樹 文藝春秋)