先日、早すぎる雪が降りました。
今年の秋ももうおしまいですね。
こういう寂しい季節になると、私はお寺や神社をお参りしたくなり、つい、旅行に出かけてしまいます。
私は仏教徒ですが、こういうのにもめっきり弱くて、つい、手を合わせてしまいます。
これはサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の夜の写真ですが、宗教や宗派に関わらず、寺院や神社を訪れると特別な気持ちが沸いてきます。「この場所には敬意を払いたい」「きちんと手を合わせたい」――そんな気持ちです。
私は、人間には何かを拝んだりありがたがったりしたい欲求があると思っています。
「崇拝欲」とでもいいますか。
寺院や神社に神仏が宿っているか否かを科学的に検証することはできません。けれども、素晴らしい寺院や神社には、敬意を払いたくなるような、それこそ“スピリチュアル”な雰囲気が漂っています。その雰囲気の正体は、建っている場所が特別だからかもしれませんし、外見や内装が特別だからかもしれませんし、たくさんの参拝者が真剣にお祈りしているからかもしれません。いずれにせよ、神社や寺院の魅力は一般的な娯楽施設のそれとはだいぶ異なっています。
「崇拝欲」は現代社会でも廃れていない
私のようなお参りマニアにとって、「崇拝欲」はしょっちゅう意識させられる間近なものですが、あまりお参りなどせず、普段は「崇拝欲」を意識しない人も多いのではないかと思います。
それでも、何かを拝んだりありがたがったりしたい気持ちって、意外なほど現代社会に残っていると思うんですよ。
特定の宗教・宗派に入信してはいないけれども、初詣には寺社で手を合わせ、冠婚葬祭を宗教式にこなし、旅先でお守りを購入する日本人は非常にたくさんいます。クリスマスだってそうですよね、キリスト教徒は少ないはずなのに、“祝された日”“おめでたい日”としてすっかり定着してしまっています。
ときに、「日本人は無宗教だ」と言われますし、欧米の組織宗教の定義どおりに考えるなら、そのとおりかもしれません。ですが、八百万(やおよろず)の国に育った私達の心性は、時と場合によって「崇拝欲」がいろいろなものに差し向けられるようにできています。そういう意味では「日本人は無宗教」とは言い切れませんし、そんな国だからこそクリスマスもすんなり定着したのでしょう。
そして“パワースポット巡り”のようなレジャーは今も人気です。仏教や神道に入れ込んでいるわけではない人でも山奥の寺社を訪ね、元気をもらってくるわけですから、寺社がもたらす“スピリチュアル”な雰囲気は健在なのでしょう。さしずめ、“宗教は廃れても「崇拝欲」は廃れなかった”といったところでしょうか。
拝むものを間違えると大変なことになる
ただし、崇拝できそうなものなら何でも拝めば良いというものでもありません。
“パワースポット巡り”や観光地でお守りを買うぐらいの「崇拝欲」なら、さして問題無く、ちょっとした心の支えにしても構わないように思われます。
ですが、たとえば怪しげな健康増進法や健康食品が「崇拝欲」の対象になってしまったら、どうなるでしょうか。
その筋の健康商品は、万病に効くかのような“スピリチュアル”な雰囲気を伴ってしばしば売り出されます。健康食品の広告欄に載っている経験談も、あれは科学的な裏付けによって買い手を説得しているわけでなく、ありがたい雰囲気を醸し出すことによって、つまり「崇拝欲」に働きかけることによって人を惹き付け、モノを買わせているのです。
そうした健康商品に惹き付けられるあまり、きちんとした医療を受けるタイミングを逃してしまう人もときにいます。
また、現代社会にもカルトな集団がそれなり存在していて、「崇拝欲」が宙ぶらりんになっている人を捕まえようと虎視眈々と狙っています。何かを拝みたい・ありがたがりたい気持ちが高まっているけれども自分では気付いていない人は、カルトな教祖や集団に出会うとたちまち魅了されてしまい、ありがたがっているうちに金品を巻き上げられてしまうかもしれません。
現代社会では用無しのようにみえる「崇拝欲」ですが、おざなりにしておくと結構危ないのではないでしょうか。
「崇拝欲」を飼い慣らそう
じゃあ、どうすれば良いのでしょうか。
私は、「崇拝欲」を野放しにしておくのでなく、飼い慣らしておくのが良いと思っています。
人間は、調子に乗っている時には「崇拝欲」を充たしても充たさなくても案外平気だったりします。「自分の力でなんでも解決できる」「自分の生活に理不尽なものなど無い」と思っている時には特にそうです。
ですが、「苦しい時の神頼み」という言葉もあるように、「崇拝欲」は、調子が悪い時や自分の力では解決できない事態に直面した時に首をもたげてくるものです。
普段、あまり拝んだりありがたがったりし慣れていない人は、そういう事態に直面した時に、目利きも加減もきかないまま、とんでもないものを崇拝しはじめてしまうかもしれません。
それぐらいなら、崇拝しても無難なものを、普段のうちから拝んだりありがたがったりしておくのが安全ではないか、と思うのです。
特定の宗教に入信している人なら、自分の宗教関連のものを崇拝対象にしておけばとりあえずは安心でしょう。さしあたって、歴史や社会的信用のある宗教なら危なげがないように思われます。
そうでなくても、自分自身の「崇拝欲」を安心して預けておける対象を見つけておき、常日頃から「崇拝欲」を充たせるように心がけておけば、心に隙間ができた時にも、危ないものを崇拝し始めてしまうリスクを遠ざけておけます。
もし、人間がいつも科学的に判断して合理的に行動する生き物だったら、「崇拝欲」なんて気にする必要はないのかもしれません。しかし、現実の人間はそれほど科学的でもなく合理的でもなく、ときには「崇拝欲」にグイグイ引っ張られてしまうものですから、そういう気持ちもきちんと視野に入れて、お手入れしておきましょう。
科学や合理主義と「崇拝欲」は両立する
ちなみに、「崇拝欲」を充たすことと科学的思考や合理主義にもとづいて生活することは、必ずしも矛盾するものではありません。
たとえば「われ思う、ゆえにわれあり」で有名なルネ・デカルトは、科学や合理主義に大きく貢献した人ですが、彼はキリスト教の信者でもありました。このほかにも、宗教をしっかり信仰しながら科学的業績を挙げた人はたくさんいます。
むしろそういった人達は、科学や合理主義と「崇拝欲」の両方の世界を知っていたからこそ、どこからが科学や合理主義を適用すべきで、どこからが神や宗教といった「崇拝欲」に身を任せるべきなのか、わかっていたのでしょう。
今日の社会では、科学的思考や合理主義が尊ばれていて、「崇拝欲」にまつわる神や“スピリチュアル”のたぐいはあまり重視されていません。しかしそれだけに、どこからが科学や合理主義を適用すべきで、どこから宗教や“スピリチュアル”に身を任せるべきか、わかったようでわかっていない現代人が案外いるようにいるのです。
思うに、怪しげな健康食品を拝むように買い漁ったり、科学の装いをした偽物をありがたがったりしている人達は、そのあたりの区別ができていないのではないでしょうか。科学や合理主義が時代のメインストリームになっている今だからこそ、人間の心の内に潜む「崇拝欲」をしっかり認識して、マネジメントしておく価値があるように私は思います。
(2025/7/14更新)
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著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)など。
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