先月、25歳のauthorによる『大人には、苦労話ではなく「人生の楽しさ」を語ってほしい』という記事をBooks&Appsで見かけました。
仕事を楽しんで輝いている大人がいることを知れば、中高生が「大人は疲れている」なんてイメージは持たないはずだ。
それどころか、「将来こんな大人になるために勉強をがんばろう」とか、「将来の夢を探そう」とか、自分の未来にも希望を持てる。
子どもたちに人生を楽しんでいるカッコイイ背中を見せるためにはやはり、いま働いている”大人”たちが輝ける環境が必要だ。
自分の背中が子どもたちにとって誇れるものであるか、もう一度考えてみるといいかもしれない。
記事の主旨は、「大人の疲れた背中を見ていると、若者は、未来や仕事に対して悲観的にならざるを得ない。生き生きとした、もっと楽しそうな大人の姿をみてみたい」だと理解しました。
そこで、42歳の私が感じている大人の「人生の楽しさ」について、お返事を書いてみます。
「大人は疲れている」≠「大人は楽しくない」
まず最初に、誤解を解いておきたいと思います。
若い方は、「大人は疲れた顔をしていることが多い、だから楽しくなさそう」という読みしがちですが、これは、間違っていることのある読みです。
10代や20代に比べて、40代や50代が疲れた顔をしていることが多いのは事実です。
皺や皮膚のたるみによって、そのような顔貌に見えやすいのもあるでしょう。若者基準で眺めると、「この人は、とても疲れて不幸に違いない」とみえやすいかと思われます。
しかし、そうじゃないんです。
40代や50代を精一杯生きている人達は、楽しくても疲れた顔になるんです。
これぐらいの年齢になると、やらなければならないことが増えると同時に、やれることも増えてきます。仕事はもちろん、遊びも、子育ても、色んなことができればできるほど、忙しくもなり、そのぶん疲れます。
若者は若者で忙しいのは事実ですが、年を取ったら年を取ったでまた忙しく、けれども体力が落ちているぶん、疲れた顔になりやすいのですよ。
たとえば私なども、精神科医としての仕事、原稿づくり、子育て、それからゲームにアニメにワインに……といった具合に、とても忙しく、楽しく生活しています。
ものすごく充実した、かけがえのない時間を生きていると感じますが、若かった頃に比べて疲れやすくはなりました。
職業柄、特に神経が疲れると感じます。
疲れた顔のおじさんやおばさんは、ただ疲れているだけかもしれない反面、人生を謳歌しているがゆえに疲れた顔をしているのかもしれません。
このあたりは、人間観察を続けていればだんだん区別できるようになってくるでしょう。年上の人の挙動をよくウォッチしてみてください。
なお、電車のなかで疲れた顔をしている中年については、過去にブログ記事を書いたことがあります。
満員電車で死んだ目をしたサラリーマンは死んでいるのではない。チャージしているのだ。
「満員電車で死んだ目をしたサラリーマン」とはよく使われる言葉だが、ひどい勘違いである。
なかには数%程度、本当に死にそうなサラリーマンも混じっているかもしれないがそういうのは例外で、ほとんどのサラリーマンは死んだ目になってチャージを行っているのである。
「チャージ」が言い過ぎだとすれば、「スリープ状態」に訂正しても良いかもしれません。
とにかく、電車のなかで疲れた顔をしている中年は、無駄なエネルギー消費を避けるために疲れた顔でじっとしているのです。
若いうちは、通勤通学の時間もスキルアップに活用して、時間を節約したほうが利口かもしれません。
ところが中年の場合、時間以上に疲労が問題になりがちで、通勤電車のような学習効率の悪い環境では体力を温存したほうがトータルの効率が良くなります。
つまり、加齢が進むことによって、時間よりも疲労が活動のボトルネックになりやすくなり、電車の中でのベストな行動が若者とは違ってくるわけです。
電車のなかで疲れた顔をしている中年が、内心では「今日は俺のターンだ。今はじっと消耗を避けて、会社に着いたら一気に行くぞ!」と意気込んでいる可能性は十分にあります。
まあ、本当に疲れ果てて何にもできなくなっている時もあるんですけどね。
大人になると「楽しい」のかたちが変わる
体力だけでなく、楽しいと思うことも大人になって変わりました。
少なくとも私の場合は、大人になって楽しいと思うこと・生き甲斐を感じることの幅が広がりました。
たとえば子育て。
10~20代の頃は、子育てなんて苦労を進んでやろうとする人の気が知れませんでしたが、現在はとても楽しいです。
面倒なことや辛いことが無いと言えばウソになりますが、若者の活動にだって面倒や努力を強いられる場面はあるわけで、そこのところが決定的な違いだとは思えません。
しかし、若者が若者盛りの時期に、子育てが楽しい、ということはまずあり得ないでしょう。
なぜなら、若者とは、まず、自分を成長させることに一生懸命な存在であり、自分の欲求をかなえることに一生懸命な存在だからです。
それが悪いわけではありません。年齢的には伸び盛りの時期でしょうし、これから自分のアイデンティティとなっていく仕事や人間関係や趣味を育てていかなければならない時期でもあるからです。
中年は、そうではありません。
中年も成長は続けていきますが、成長のピークは過ぎていて、アイデンティティも大体できあがっています。
生きることに一生懸命にならなくても、今までの方向性に沿ったかたちで頑張っていけば、だいたいのことはこなせます。若者時代よりも世間知が豊かになったぶん、楽に世渡りできる部分も増えてきます。
自分の成長に一生懸命のうちは、子育てという課題に直面するのはさぞかし辛いでしょう。
子どものせいで自分はもう成長できない・子育ては成長の邪魔だ、と元気がなくなってしまいそうです。
しかし、自分の成長に一生懸命にならなくて構わない境遇になると、子育ても悪くない……いや、子育てのほうが良いんじゃないか? と思える時が来ます。
中年からみると、子どもの成長速度は驚異的です。
自分自身に100投資しても10ぐらいしか成長しないところが、子どもに100投資したら80ぐらいは成長するのです。
そのうえ、子育てに伴って自分自身の経験も増えていきますし、そもそも、子育て自体が、ひとつの壮大なプロジェクトです。人生をオンラインゲームに喩えるとしたら、子育てに匹敵するほどの“クエスト”はなかなか無いでしょう。
子どもがものすごい速度で成長して、しかも、自分も壮大な“クエスト”を体験できるって、“コスパが良い”と思いませんか?
自分自身の成長という狭い範囲で考えると、子育ては“コスパが悪い”ようにみえますが、親子とか家族といったもっと大きなユニットで考えると、子育てはユニット全体を育てて、みんなで経験を分け合うことができる、なかなか“コスパの良い”営みなのです。
子育てを楽しいと感じたり、後進の育成に生き甲斐を感じたりする感覚は、自分自身の成長や欲求充足に忙しくて仕方がない人にはわかりにくいと思います。
子どもだって、しょせんは他人ですからね。他人のことより、自分の成長や欲求充足を追いかけるのが若者としては妥当だし、若者たるもの、それで良いのだと思います。
しかし、裏を返せば、若者である限り、自分自身の成長や欲求充足に束縛されざるを得ません。
親子とか家族とか、師匠と弟子とか、そういうもっと大きなユニットを見据えて一生懸命になるには、かなりの工夫が必要でしょう。
自分自身の成長や欲求充足に束縛される度合いが低くなって、一生懸命にならなくてもとりあえず生きていけるようになって、そういう風に生きたって構わない気持ちになったら、いわゆる【大人】のできあがりではないでしょうか。
私が10~20代の頃には、この【大人】という境地がまったく見えていませんでした。
だから、子育てをする人や後進の育成に力を注ぐ人の気持ちを、かなり読み違えていたと思います。
しかし、自分が年を取ってそういう立場になってみて、彼らの気持ちがわかったような気がしました。子どもの成長や、後進の成長は、大人にとって喜ばしくて楽しいことなのです。
楽しいからこそ、そこにお金や情熱を注ぐ価値が生じます。このあたりは、若い頃には本当にわからなかったことで、楽しさのかたちが広がったんだなぁ……と思います。
大人が楽しそうにしている場面は、若者には見えにくい
じゃあ、若者の頃から楽しんでいたものが無くなってしまうかといったら……そうでもありません。
若い頃に着ていた服が似合わなくなる・徹夜で遊ぶのがしんどくなる・遊びに費やせるリソースが減る、といったペナルティは避けられませんでしたが、趣味や娯楽に対する理解は、年を取るにつれて深まり、効率的にもなりました。
「遊んでいる時間が短くなる」という一点では若い頃にはかないませんが、遊んでいる時間の密度や理解については、今のほうが良いように思われます。
たとえば私は、20代の頃ほど旅行に時間やお金を使えなくなりました。しかし、旅行が楽しいという感覚は変わらないか、それ以上です。
京都やローマなどを訪れると、若い頃には気付きもしなかったものに気付いたり、素通りしていたものに出会ったりできます。楽しくてしようがありません。
同世代の趣味仲間などとの親交も、相変わらず楽しいです。
お互い、仕事や家庭で忙しく、なかなか会えなくなっても、会えば旧交が蘇りますし、今はSNSもあります。
大人だから遊んじゃいけないという道理はありません。いやいや、大人は大人で、ちゃんと遊んだり息抜きしたりしていますって。
ただ、そういった大人が楽しそうにしている場面が、若者には見えにくい、というのはあると思います。
私が同世代と楽しい時間を過ごしている時に、その場に20代の人が一緒にいることは稀です。
同世代同士でつるんでいることが増えて、年下の人と一緒に楽しむ機会は少なくなりました。新たに親交が始まる時も、同世代のことが多いです。
ということは、私が楽しく過ごしている時間を観測している年下は、ほとんどいないでしょう。
ついでに言うと、年下の人が楽しく過ごしている時間を、私も簡単には観測できなくなりました。
SNSやインターネット上でそれらしい痕跡を追うだけでは、わかったようでわかりません。やはり、じかに会わなければわからないことがたくさんあります。
個人的には、年下の人と会えるチャンスが楽しくてしようがないのですが、これは、意識的に求めなければ得られないチャンスで、同世代の多くは、そんな手間暇をかけてはいられないでしょう。
若者と大人、それぞれが別々の場所に集まって、別々のコミュニティを作って楽しんでいる限り、世代の違う人間が楽しく過ごしている様子は不可視になってしまいます。
だからつい、年上は「最近の若い者は~」とつぶやくのでしょうし、年下は「大人は楽しくなさそう」と想定してしまうのでしょう。
実際に会って話せれば、もっといろいろ伝わるはず
私は、なんやかんや言っても世の中の人間は楽しいことをちゃんと探していて、年齢や立場に合わせた生き甲斐を見つけているものだと思っています。
もちろん、そうでない人がいないとは言いません。が、たいていの人間は、しぶとく楽しみ続ける生物ではないでしょうか。
そして、生き甲斐も、楽しさも、年齢を重ねるにつれてちょっとずつ変わっていって、それはそれで飽きなくて面白いんじゃないかと思います。
若者を60年続けるのもいいかもしれないけれども、若者を30年やった後に、それとは少し違った大人を30年やったほうが、人生の経験の幅が広がっていいんじゃないの? というのが現在の私のオピニオンです。
さすがに肉体的な衰えだけは惜しいのですが、だったら尚更、若者の生き方から大人の生き方にシフトチェンジして、年を取ったなりの楽しさを開拓していきたいし、もし、自分が高齢者になったとしても、そのような自分であり続けたいと願っています。
ゴチャゴチャ長い話になってしまいましたが、こういうことは、実際に会って話してみて、そうですね……二時間ほどオフ会をやれば伝わるものだと思います。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。
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(Photo:chrisada)