緊急事態宣言が明けしばらくたったが、結局、生活は全く元どおりにはならなかった。
多くの事業者の「一刻も早くお客さんが戻ってきてほしい」との叫びも虚しく、ついに政府は「生き残れない企業は潰れてください」と言い出した。
政府は中小企業数の維持を狙った従来目標を見直す。これまで掲げてきた「開業率が廃業率を上回る」との表現を近くまとめる2020年の成長戦略から削る。
中小企業は新型コロナウイルス禍で経営環境の厳しさが増している。
統廃合を含めて新陳代謝を促し、全体の生産性向上をめざす方針に改める。
OK。
言いたいことはよく理解した。
少し前までは正直、私も楽観的だった。
「コロナウイルスが去ったら、もとに戻るだろう」と考えていた。
だがもう「コロナウイルスは去らない。いまが普通の状態なのだ」とハラを括らなければならない時が来た。
多くの人の従事する産業が崩壊しつつあるのは、見ていてもツラいが、
政府が事態を収集できる見込みは薄いし、むしろ「自己責任」と言い出した。
多くの企業がリストラ、あるいは自主廃業の準備を始めるだろうし、もちろん、自分自身も生活防衛の準備を始めなければならない。
そしてこの流れは、「不可逆」で、もうもとには戻らない。
*
考えてみれば、「消費」は、
過剰とも言えるほど、私の日常にガッチリ食い込んでいた。
私はフルリモートワークだったが、外出が多かったためだ。
朝、クライアントに顔を出し、お昼は外食。
合間は電車やタクシーで移動する。クライアントとの打合せが終わればカフェに立ち寄った。
また、幾ばくかの出張をこなしながらコワーキングスペースを使った。
夜遅くまで仕事をしていれば、外で夕食を食べ、たまに家族にケーキを買い、ときに繁華街で酒を飲んで帰った。
休日にはフラッと公園に行き、そばのカフェでサンドイッチを買って食べた。
子供の服を見に行った足で、シネコンで映画を見、そのまま夕食をフードコートで済ませて帰宅した。
釣りに行き、山に行き、海外へ行った。
だがそうした活動の多くが、あっさりと消えてなくなった。
出張やオフィスでの打ち合わせが劇的に減ったので、そもそも外出をしない。
外出をしなければ家で三食をとる。
作るのが面倒な時はデリバリーか、冷凍食品、あるいは近くのお店のテイクアウトを少々。
地元の幾ばくかの商店と、ネットスーパー、そしてAmazonで殆どの買い物済ませ、夜はYoutubeを見るか、オンラインゲームをしながら知人と盛り上がり、缶ビールと
自分で作った角ハイボールを飲む。
休日は子供とプラレールかゲームをやり、近くの公園で鬼ごっこをして、一緒に本を読んで、食卓で書き物をする。
最初は外出できないことに不満を覚えた。
ストレスが溜まっていたので、緊急事態宣言が明けたと同時に、通常モードに生活を戻しても良かった。
しかし、妻には嫌な顔をされた。
両親にも心配をされた。
取引先も「オンライン会議を継続」となっている。
であれば「適応」だ。
私は自宅の仕事環境を整え、コーヒーメーカーをフル活用し、子どもたちに会議中は静かにするようにお願いした。
キーボードとマウスを新調し、本棚を買った。
「惰性で消費していたスタバ」は、「コーヒーメーカー」に。
「とりあえずお腹が空いたので入っていたラーメン店」は、「インスタントラーメン」に。
「便利だと思っていたコワーキングスペース」は、「自宅の小さな机」に。
「子どもたちが喜ぶので買って帰ったケーキ」は、「お取り寄せスイーツ」に。
「1ヶ月に1回程度は行っていた釣り船」は「オンラインゲームとYoutube」に。
「居酒屋」は「家飲み」に。
そうしてすでに「コロナウイルスに適応したライフスタイル」が続いて半年近く。
現在ではついに、「外に出ない・移動しない・消費しない生活スタイル」が、ある程度確立した。
*
ストレスが溜まってしょうがない、というかたもいるかも知れない。
だが、人の適応力はなかなかのものである。
実は、今ではほぼ不満はない。
消費のスタイルは「外」から「自宅」にすっかり取って代わり、すでに違和感はないどころか、それなりの楽しみを見出している。
コーヒーは家で淹れるとうまい。
ゲームをやりながら食べるインスタントラーメンは、蠱惑的な味がする。
自宅の机は好きなだけカスタマイズできるので、すでに秘密基地の様相だ。
お取り寄せスイーツは全国の有名店のものを、しかも安く手にれることができる。
オンラインゲームをやれば、遠い昔に友達の家に集まってやったファミコンの興奮を思い出す。
家飲みはすぐに寝床に入れるし、つまみは鶏肉屋でレバーを買ってきて、自分で作ったほうがうまい。
ミーティングはリアルで会うよりも「zoom」のほうが資料を共有しやすく、盛り上がるので、大好きである。
あー、何気なく幸せかもしれない。
要は、慣れてしまえば「それなりの楽しみ」はどこにでも見つかるし、
別に惨めな思いをしているとも思えない。
最近、愛している漫画が「こづかい万歳」なのもそのためかも知れない。
「こづかい2万円はディストピア」という人もいるが、私は「やりくりの楽しさ」「適応する喜び」を突き詰めると、こうなるのだろうなと思う。
こうした話を哀れんでくる方もいるのだが、これは好きでやっていることなので、特に悲壮感はない。
そもそも「消費」はその人の格とは関係がない。
所詮は消費だ。
かけた金額の多寡で満足度が決まるわけではない。
「ゴルフ」の方が「オンラインゲーム」よりも格が高い、ということはないし、
「車でドライブ」が「スマホでSNS」よりも楽しい、ということもない。
「居酒屋」が「オンライン飲み」に勝ることもない。
「海外旅行」よりも「GoogleEarthで探索」のほうが好きな人だっている。
*
もちろん、いつまでも「コロナ前」にこだわり続ける人もいるだろう。
しかし全体として、「コロナ後」の体験は、コストが低く、その割には満足度が高い。
それゆえに、一旦適応してしまうと、「これでいいんじゃない?」という人が多数出てくるだろう。
私もその一人だ。
だがもちろん、この「適応」は多くの産業にとって大きなダメージとなる。
変化の起こるスピードが早すぎるからだ。
少し前、「定型業務の価値が下がり、ついていけない人が増えている」という趣旨の記事を書いた。
「そこそこ簡単で、それなりの給与と地位が約束される仕事」が消えた世の中では、見えにくい「弱者」が増えている。
しかし、いつから世の中はこんなに「定形業務を真面目にこなすこと」の価値が下がったのだろう。
それはおそらく「製造業」の衰退からだ。
作れば売れた時代、システムよりも人力が主たる事務をこなしていた時代は、工場、事務、サービス現場に大量の人力を要求したため、ブルーカラーもホワイトカラーも、「定形業務を真面目にこなす」ことで、明るい将来を約束されていた。
だが、時代は変わった。製造業の衰退でその一角が崩れたのである。
普通のひとは、ものをそれほど多く買わなくなった。生活にはすでにテレビ、洗濯機、冷蔵庫、スマートフォンがあり、「欲しいもの」を想像するのが難しいくらいだ。
変化が早すぎると、「コロナ前」に最適化されていたシステムは一気に崩壊する。
しかも、それを支える力は、政府にはない。
それが何を意味するか。
要するに、過剰消費の終わりと、真の「自己責任時代」のはじまりだ。
【著者プロフィール】
◯Twitterアカウント▶安達裕哉
元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(http://tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。
◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(http://note.mu/yuyadachi)
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