人間は、火をおこし、田畑を耕し、街を築き、環境を変えることでみずからを家畜化してきた。

 

「家畜化」という表現に疑問が沸く人もいるだろうが、まず、現代人の人口密度を考えてみて欲しい。

首都圏などで顕著だが、野生動物では絶対不可能な密度で人間同士が集まり、働き、餌を食ったり生殖したりして社会を築いている。

それなら、未来の人間が自己家畜化にますます拍車をかけたとしても驚くほどではあるまい。

 

とはいえ、人間の自己家畜化の度合いが跳ね上がる時期には戸惑いが、悲喜こもごもの反応が起こる。

 

2020年代のパンデミックをとおして、日本人の自己家畜化の程度は急激に進んだ。

このパンデミックは、私たちに度重なる予防接種を強いて、今以上の清潔を、防疫を、ソーシャルディスタンスを強いた。

 

つまり防疫の必要性によって日本社会と日本人の自己家畜化の圧力が急に高まったわけである。

これにより、リモートワークでも平気な人は外出しない飼い猫のようにぬくぬくと過ごし、宴会や出社がなければイライラしてしまう人は檻に入れられた野生動物のように苦しく過ごした。

人間社会の自己家畜化の進行は、その管理の枠組みに馴染む人々には恩恵と感じられ、そうでない人々には脅威と感じられる。

 

パンデミックで進んでしまった私たちの自己家畜化が、どこまで不可逆なのかはまだわからない。

幾つかの点ではバックラッシュがあろうけれども、幾つかの点、たとえば誰もがマスクを装着し、そうでない個人には感染リスクがあるとみなすような目線は定着するだろう。

マスクが平気ではない人間には以前よりも生きづらい未来が予想される。

 

自己家畜化の大本命はスマートシティ

では、パンデミックが私たちの自己家畜化をうながす大本命か? といったら、私はそう思っていない。

大本命として私は、情報環境をとおして私たちがますます繋がりあっていく未来や、その結果として公私の区別なく働き、生きなければならない未来のうちに、人類の自己家畜化がきわまっていく可能性をみている。

 

こうした可能性を頻繁に考えるようになったのは、『博報堂生活総研のキラーデータで語るリアル平成史』という本のなかで、建築家の豊田啓介さんが書いた文章を読んでからだ。

豊田さんは、パンデミックによって進行したようにみえる生活基盤の変化について、まず、こう述べている。

こうした生活基盤の情報化により進むのは、社会の離散化と流動化です。これらはコロナ禍だけが理由というより、以前からゆっくりと進行していた変化が、パンデミックにより一気に本来のスピードを見せ始めたというのが正しいように思います。情報化が進み社会が離散化、流動化することのポイントは、「モノと情報の分離」と「編集可能な情報チャンネルの劇的な増加」という点にあります。

社会の離散化と流動化は、まず交易手段や交通手段の発達というかたちで、続いて情報技術の発達というかたちで進行してきた。

でもって情報環境がだいぶ整備されたところにパンデミックが起こったから、リモートワークをはじめ、一気にそれが顕在化した……といった調子で豊田さんは書いてらっしゃる。

 

私には、こうした変化は人間の働き方や暮らし方を変えるだけでなく、環境が人間に要求するクオリティをも変えるものとうつる:つまり、社会の離散化と流動化は、それによく耐え、それによく適応する人間にアドバンテージを与え、それに耐えづらく、それに適応しづらい人間にペナルティをもたらす。

言い換えるなら、どこでも・いつでも・誰とでも働けることがよりアドバンテージとみなされるようになり、そうでないことがペナルティとみなされるようになるわけだ。

 

そうしたアドバンテージやペナルティは、当然ながら、人間それぞれに対して経済的・生物学的淘汰の圧力となってのしかかるだろう。

 

この、第一の圧に加え、第二の圧が社会の離散化と流動化に伴うように私にはみえてならない。

続けて豊田さんは、この動向が進行することによって、たとえば公私の区別が一層わかりにくくなる未来を想定されている。

こうした状況は場所やモノだけでなく、人の役職や集団への所属といった属性情報にも当てはまります。例えばリモート勤務中の身体は、常にオフィスにいた時のような拘束は受けなくなりますし、結果として勤務時間や濃度の専従性も不透明になっていきます。いわば仕事か否かを時間や場所で白黒はっきり色分けするということが、どんどん難しくなっていくわけです。所属という意味でも、以前はひとつの会社に定年まで100%所属することが前提とされていましたが、70%だけ所属する、20%だけプロジェクトベースで貢献する、5%の売り上げにコミットするといった多様な形が、時間や成果など様々な尺度で導入されていくのは、自然で不可避な流れなのです。これは同時に居住の空間にも、否応なく職という時間や所属の価値が薄く、断続的に入ってくることも意味します。

情報化が進行し、社会の離散化と流動化が進むほど、個人の身体の専従性や所属性が不透明になっていく。

私たちのいる場所、私たちが帯びる役職、私たちが所属する組織、私たちの過ごす時間、そうしたものの境界も曖昧になっていく。

その帰結として、仕事時間中に気にしておかなければならなかったことがプライベートにも侵入してくることになるし、プライベートに気にしなければならなかったことが仕事時間中にも侵入してくることになるだろう。

 

しかしそうなった時、結局社会は(そして企業や他人は)、私たちにますます高いクオリティを要求するようになるのではないだろうか。

2021年の9月1日に、NHKのニュースで「在宅勤務中も禁煙を求める企業が相次いでいる」という報道があった。

つまり、職場での勤務中に社員にタバコを吸わせないだけでなく、在宅勤務中もタバコを吸わせない、そういう動きである。

ネットでの反応を見るに、このニュースにたじろぐ人も多かったようだが、そもそも、こうした社員の健康維持と生産性向上を図るムーブメントは以前からみられていたもので、経済産業省は、これを「健康経営」などと呼んで後押ししている。

 

この、在宅勤務中もタバコを吸わせない動きが象徴しているように、個人の身体の専従性や所属性が不透明になっていった時に私たちに要求されるのは、「不透明だからなんでもアリ」ではなく、「不透明だからこそ、いずれの専従先や所属先の要求にも応えられる」、そんな社会適応となるよう、私には思われる。

 

たとえば職場で働いている時だけ企業が健康を管理するのでなく、在宅勤務中の社員の健康も管理するようになったら、次は、勤務していない在宅中の健康までもが管理の対象となり、問われるようになるのではないか。

 

生産性という点でも同様である。就労時間とそうでない時間、公私の垣根が曖昧になった近未来において、職場でだけ生産的であることが社員に許されるものだろうか?

おそらく、許されないだろう。職場か否かにかかわらず私たちの生産性が問われることになろうし、管理され、介入されることにもなろう。

そうやって私たちは職場から、ときには社会全体から管理され、評価されることにもなる──ホルスタインやイベリコ豚がそうであるように。

 

病院や学校で私たちはもう管理されている

そうなってしまったら、建前の上では自由でも、人間の実態はご主人様のためにいつも最大限の生産性や効率性をキープしなければならない、そんな家畜めいたものになりやしないだろうか。

 

この場合、ご主人様に相当するのは人間自身か、人間を使う法人格か、人間を管理する公の機関、ということになる。

いや、資本主義のシステム全体がご主人様だとみなすべきだろうか。

 

どの場合も、世間で広く想像される人間と家畜の関係そのものにはあたらないかもしれない。

だとしても、管理の手技は家畜を効率的かつ健康に飼育し、その家畜からのアウトプットを最大化し、その家畜についてまわるリスクを最小化する時の手法と基本的には変わらない。

たとえば健康でよく乳の出るホルスタインを管理してアウトプットを最大化するのと同じ方法論で、社員がリモートワークで最も健康かつ効率的にアウトプットを最大化するよう管理するわけだ。

 

こう書くと、ひどく人倫にもとる気持ちになる人もいるかもしれない。が、そういう人は、現代人の生のありようについてちょっと振り返ってみてもらいたい。

 

人間をわざわざ厩舎に押し込めたり、金魚の品種改良のようなことをしたりしなくても、案外すでに、人間の生は家畜化していなかっただろうか?

 

現代人は、生まれる前からその生のありようを管理される。

たとえば妊娠中は葉酸などの摂取を、出産後も予防接種の接種をといった具合に手をかけられる。

社会人になってからも職場の健診や人間ドックをとおして健康状態をモニタリングされ、好ましい状態へと絶えず管理と介入を受けている。

 

そうした管理と介入の技術は、病院という空間で用いられるぶんには人倫に沿っていると感じられるが、技術的には、家畜をメンテナンスする時のそれと基本的には変わらない。

違っているのは、その技術の標的が人間だから、家畜と違って殺処分という選択肢が存在しないこと、、その点だけである。

 

そうした技術が用いられるのはもちろん病院だけでもない。学校もまた、内申点、進学先、学級の選択といったかたちで生徒を品定めしてアセスメントを行い、出荷する。

のみならず、学校は集団としての児童生徒を羊飼いのようにコントロールし、集団として取り扱われるための規律訓練の場としても機能している。

 

今に始まったことではない。だが、その行き着く先は

冒頭で触れたように、人間の自己家畜化は太古の昔にまで遡れる。

たとえば火を用いるようになった人類は、まず環境全体を”飼い馴らし”、と同時に自分自身をも飼いならしている。

人間の自己家畜化について多くのページを費やしている『反穀物の人類史』は、まず火と人間の自己家畜化について、以下のようなまとめかたをしている。

わたしたちが繁殖に成功し、世界で最も成功した「侵入生物」となったことも、火でほとんど説明がつく。ある種の樹木、植物、菌類と同様に、わたしたちは火に適応した「耐火種」の種だ。わたしたちは生活習慣、食事習慣、身体を火の特徴に適応させてきた。そしてそうすることで、火の世話をすることと火を絶やさないことに、いわば縛り付けられている。植物が作物化しているかどうか、動物が家畜化しているかどうかの判断基準は、人間の助けなしに繁殖できないことだ。そうだとすれば、わたしたちは、それなりには種としての将来がないほどに、火に適応してしまっている。
……本当の意味で、火はわたしたちを家畜化している。その小さな、しかし雄弁な証拠として、一切の食物を加熱調理しないことにこだわる生食主義者は例外なく体重を落としている。

人間の自己家畜化のプロセスについては、著者によって強調するポイントがさまざまで、たとえばこの『反穀物の人類史』では、農民が強力な中央集権国家によって管理されるような歴史のステロタイプに異論を唱えている(し、そこが同書の面白いところでもある)。

 

とはいえ、人間の自己家畜化について触れたいずれの書籍も、人間が太古の昔からテクノロジーに深く依存し、テクノロジーなしには生活が成り立たない営みを続けてきたとする点は共通している。

 

だったら人間のさらなる自己家畜化、別に構わないじゃないか? と思う人もいるだろう。

 

ある程度、私もそうだと思う。

けれども人間の自己家畜化が今よりずっと進んだたら、人間に存するとされる自由はもはや問題ではなくなってしまうかもしれない。

自由がなくなること、それ自体が問題であるだけでなく、自由なんてなくても良いと考える人が増えること、健康や生産性や効率性のために自由を切り売りすることに躊躇しない人が増えることが、この場合、問題になる。

 

これまた人間の自己家畜化に触れている『ホモ・デウス』では、ビッグデータやAIが発展し尽くした未来に、人間が超人間となるか、さもなくばデータに飼いならされる未来を描いている。

やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう。だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか? 人は何かする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。彼らは一日中、何をすればいいのか? 薬物とコンピュータゲームというのが一つの答えかもしれない。必要とされない人々は、3Dのバーチャルリアリティの世界でしだいに多くの時間を費やすようになるかもしれない。その世界は外の単調な現実の世界よりもよほど刺激的で、そこでははるかに強い感情を持って物事にかかわれるだろう。とはいえ、そのような展開は、人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念に致命的な一撃を見舞うことになる。夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用の怠け者たちの、どこがそれほど神聖だというのか?
ニック・ボストロムのような、一部の専門家や思想家は次のように警告する。人類はそのような堕落を経験しそうにない、なぜならAIは、いったん人間の知能を超えたら、人類をあっさり撲滅するかもしれないからだ、と。AIがそうするのは、反発した人類に電源を切られるのを恐れるため、あるいは、何か独自の計り知れない目標を追求するためである可能性が高い。なぜ計り知れないかと言えば、それは、人間が自分より利口なシステムの動機付けを制御するのは極度に難しいだろうからだ。

ハラリが記す複数の未来のうち、どれが一番あり得そうなのかは私にはわからない。

だが、どの未来が到来したとしても、人間だけが特別な自由と自己決定権を有しているかのような人間観は、もう成立困難になってしまうよう私にはみえる、その、人間観を成立困難にしていくプロセスの大きな一歩が、豊田さんのおっしゃる生活基盤の情報化であるように思われるのだ。

 

家畜ですが、なにか?

自由。

自己決定。

もちろんこれらは大きな問題ではある。

 

ハラリが用いる家畜という語彙には、家畜を飼うことへの忌避と、家畜として飼われることへの忌避が充満している。

 

一方私は、自分が動物アイコンを長く使っているせいかもだが、「家畜ですが、なにか」、という気持ちも捨てられずにいる。

あるいは自分の動物性を、狭義の人間性と同じぐらい大切に思っていて、おそらくハラリが語る人間観よりもケモノくさい人間観を持ち、人間と動物の境目についてあいまいな認識を持っている。

 

今後、人間の自己家畜化がますます進行した未来において、ハラリをはじめとする一神教圏の知識人たちは、彼らならではの人間倫理や動物倫理に基づき、さまざまなものを不道徳とみなしたり非人間的とみなしたりするだろう。

と同時に、自由や自己決定をはじめ、彼らが人間らしさとみなす価値を賞揚し、それらを守るためのステートメントを出していくに違いない。

 

それはいい。

しかし一神教圏の人間ではないケモノくさい私は、人間があくまで動物の一種であること、ハラリのいうところのアルゴリズムでしかないことに、そこまでの嫌悪感や忌避感を持っていないし、その点において、人間とは自己家畜化された生物ですが何か? と開き直りたくもなる。

科学や経済や倫理を使いこなすという点において、人間は確かに万物の霊長と呼ぶにふさわしい。が、その点を除けば、やはり人間とはホモ・サピエンスという動物の一種ではなかったか?

 

話が拡散してしまって申し訳ない。

けれども人間の自己家畜化のような、人間に潜在する動物性の話になると、どうしても私は興奮し、ワチャワチャとしゃべりたくなってしまう。

遠い未来、人間は今よりずっと卑屈で従順な生物に成り下がっているかもしれないけれども、それでも私はそれらを人間と呼ぶだろうし、そうやって未来の人間がホルスタインやイベリコ豚のように生かされ、働かされているさまを見てもなお、無意味とは呼びたがらないだろう。

 

そもそも、そういう線引きで人間の生の有意味と無意味を峻別するとしたら、現代人の生のかなりの部分が、もう既に、無意味の側と判定されてしまうのではないだろうか。

 

人間の自己家畜化の進行は、もちろん問題ではあるし、それを問題視するのが本テキストの主題だったはずである。

けれども開き直りたくなる一面として、「家畜ですが、何か」という視点が存在することを、私は、まるで蛇の絵に足を付け足すように、書き加えずにはいられなかった。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Colton Jones