久々に週末集中してゲームをやった。タイトルはBLACK SHEEP TOWN。傑作である。

本作は僕がこよなく愛している瀬戸口廉也さんというシナリオライターが関わったゲームである。

内容を簡単にいえば、架空の街を舞台にマフィアがドンパチやるというものだ。

 

何人もの人間が深く交錯する、いわゆる群像劇と言われるジャンルで、人間の様々な行動や選択が他人の人生に強く影響を与えていく様は、人生が色々な人の思惑で想定外の方向に動くんだなという事を感じさせてくれる。

 

純粋に人間劇としても面白いのだが、作中に挿入されている身体的障碍をモチーフとした超能力と精神的障碍のモチーフとした超能力が描かれており、これが実に素晴らしい。

 

この能力の使い分けによって描かれる世界に「当たり前だけど、才能も障碍も良いこともあれば悪いこともあるよな…」と深く感心させられてしまうこと必死である。

 

3000円程度で20時間近くも幸せな没頭タイムを過ごせるのでメチャクチャおすすめ!

こんなに幸せな時間は、なかなかお金では買えない。

 

僕はこの作品をほぼぶっ通しで20時間近くかけてプレイしたのだが、やり終わった後にふと

「そういえば…僕はゲームがキッカケで集中力が身についたんだったな…」

と、ふと思いだした。

 

というわけで今回は僕の人生が逃げる事から始まったという話をしようかと思う。

 

集中力にコンプレックスがあった幼少時代

「なんであんたは勉強に集中出来ないの!」

と小さい頃から怒られまくってきた僕は、どうもこの集中力というものにコンプレックスのようなものを抱いていた。

このように小さい頃に落ち着きがないと言われ続けてきた事もあって、僕は昔から集中力という概念に憧れ続けてきた。

 

集中力。なんていうかいい言葉である。

好きなことは当然として、嫌いなことでも集中力さえ使えれば乗り切れそうなニュアンスすら感じられてしまう。

 

「僕も集中力があれば…こんなに苦しまなくて何でもかんでも全部解決できるのに」

幼い頃にそう思った事を今でも簡単に思い出せる。

 

好きなことにも集中するのが難しいのに、嫌いなことに集中なんてできるの?

その後、どうにも嫌なことをやると気が散ってしまう僕は将棋のプロや囲碁のプロ、その他にも様々なジャンルの集中していそうなプロに関する本を読んだのだが、集中力といわれるものの正体はサッパリわからなかった。

 

ただ皆が口をそろえて「継続するのが大事」と言っているのを言っているのをみて、僕は

「ひょっとして多くの人は好きな事でも集中なんて簡単にはできないのでは…?」

「それじゃあ嫌いなことに最初からガツンと集中するとか…どう考えても無理ゲーなんじゃねぇの?」

という事を薄々感じ取り始めつつあった。

 

好きなことで集中を練習できていた

実際問題として、多くの人は好きを極める事で集中力を手にするというよりも、嫌で嫌で仕方がない事から目を背ける事で副次的に集中力という技能を身につける傾向の方が高いように思う。

 

個人的なイメージで恐縮なのだけど、ロックスターと言われる方々にはそういう印象がなんとなくある。

「クソッタレなこの世の中から自由で居られるのは、音楽をやっている時だけだ」

みたいなセリフを聞いて若い頃の僕は

「俺もアンタみたいに音楽の才能が欲しかった…ああ、生産的な趣味の世界に逃げてぇなぁ…」

と本当に憧れていたものだった。

 

残念ながら若い頃の僕はこういった生産的趣味には向かわず音楽を聞きまくるかゲームをやるぐらいではあったけど、それでもそれらに幼い頃の自分は上手にゲームに”集中”できていたように思う。

 

逃げる姿を見つけられる度に「遊んでないで勉強しろ」と怒られ、それが嫌で皆が寝静まった頃にあえて起きての朝焼けまでの徹夜プレイ…

 

若い頃に意識してやっていたわけではないけれど、いま考えるとこれこそ形は違えど「没頭」である。

たぶん、僕はこの逃避行為でもって集中力の基礎が鍛えられていた。

そしてこれが今思うと正解だったように思う。

 

改めて考えてみても、そうやって現実から逃げに逃げて…その先にある好きな事で24時間ぶっ通しで集中できるという技能をみにつけられた。

この事で、僕はやっとこさ物事に集中するという事がどういう事なのかを理解できたように思う。

 

逃げるが勝ちはたぶん正しい

何も身についたのは能力的なモノだけではない。社会の現実のようなものも、何かを好きになれた事でやっとこさ知る胆力が出来上がった。

 

「そういえば…このメチャクチャ面白いゲームを作っている人達って、どうやってその身分を手に入れたんだろう?」

この疑問をキッカケとして、好きなゲームを制作していた会社に勤めている人達が大学をキチンと卒業するとかして新卒で会社に入って修練を積んでいるのだという事を知って僕は

「やっぱ一生遊んでいるわけにもいかないよな…勉強しないと駄目だわ…」

と重い腰を上げて勉強に挑もうと、いい意味で人生に諦めがつけられた。

 

仮になんだけど僕が逃げずに嫌で嫌で仕方がない事を無理矢理に好きになろうと努力していたら、今頃は心を壊して散々な目にあっていただろう。

 

逃げるが勝ちはたぶん正しい。

最近は少年ジャンプでも逃げ上手の若君なんていう漫画が登場しているように”逃げてもいい”という価値観を認めるようにまでなったけど、実際問題として勝てない戦で勇敢に戦って死んでしまうのは単なる無駄死にである。

 

負けを認められる人間には次がある

むしろ大人になった今は”逃げられない”タイプの人間の方が予後が悪いんじゃないかとすら思う。

当たり前なのだけど、誰だって”負け”を認めるのは嫌である。何の勝負でも勝つのは極上の喜びだが、負けはシンプルに苦しい。

 

もちろんキチンと勝てればそれが最高なのだけど、実際には勝負は何度でも打てる性質のものだ。

だから負けを認めてキチンと撤退さえすれば、ちゃんと次がある。

 

次があるのなら…そこで勝てばいいのである。

大切なのは最終的にキチンと勝ちきる事であり、一時的な負けは長い目でみれば正直そこまで問題にはならない。

 

間違った勝ちは、大負け以上に人生を壊す

むしろ負けない事にこだわりすぎることの方が問題にもなる。

 

この歳になって思うのだが、自分が負けたという事を認められない大人が実に多い。

そういう人はグチャグチャになって挽回のチャンスすら残っていない悲惨な戦場でグネグネと延々とやり続けていたりするのだが、僕はこの手の人達が逆転ホームランを打ったのを見た試しがない。

 

間違って勝ってしまった結果、その後に大変に不幸になっている人達は実はかなり多い。

例えばパワハラでもって気に入らない部下を駆逐する味を覚えてしまった僕の知るある人は、結局その後それを何度も繰り返して仕事だけでなくプライベートも波乱万丈になったと聞く。

 

世の中、確かに勝つことは大切だが、勝ち方も凄く大切だ。

間違った勝利はその場では勝ちかもしれないけど、後々になって副作用が本当に凄い。

ヘンテコな成功体験はラッキーではなく、むしろ呪いとしてその人の人生に重くのしかかる。

 

汚いことをやって本来ならば勝てなかったはずの試合に勝ってしまう事は、汚い事をされて負ける事よりも下手すると悲惨な事態を引き起こす。

やっぱり、人生は誠実にやるのが一番だという事なのだと自分は思う。

 

物事への集中は何もかも全然違うジャンル

話を集中力に戻そう。

諦めて人生をちゃんとやろうとはしたものの…その後も僕の集中できない病は長い期間続いていた。

本は読むと疲れるし、勉強は椅子に座れない。

 

それでも何故か憧れやら焦燥感のようなものに突き動かされて、何度も何度もトライしているうちに気がついたら読書も勉強も没入できるようになっていた。

 

それらができるようになった今思うのだが、ハッキリいってどの活動も一口に集中とはいえない程に別モノである。

極めればどこかで似たような部分も見いだせるようになるのかもしれないけど、少なくとも脳の使っている部分は全然別だ。

読書は読書で大変だし、勉強は勉強で大変である。

 

その後も仕事や家事、ライティング、共感、ランニング、瞑想と実に様々な分野に取り組んで数年かけて集中できるように修正していたが、やはりどれもこれも身体も脳も使う部分が全然違う。

似ているものも確かにあるが、似ていないものの方が遥かに多い。

 

そうやって複数の分野にわたって明るくなって

「いや、万能の集中力なんてものはこの世に無くね?」

という現実に今更ながら気がついた。仕事だろうが趣味だろうが、出来る出来ないは能力云々の問題というよりも丹念にやるかやらないかだというのが現時点での僕の回答である。

 

人生は長く面白いものには終わりがないが、心が先に死んでしまうかもしれない

結局…なんであろうが物事に習熟したいと願ったのなら、コツコツとやり続けていく他に道はない。

集中力という万能の能力でもって、それらが簡単になんとかなるようなものではく、大切なのは最後まで希望を持って、己に実直になってやりきるということだけである。

 

逆に言えば、大抵の物事はちゃんとやれば大体できるようにはなる。

何でもかんでも頂点に立つみたいなのは無理だが、その道に通じた明るい人ぐらいにはなれる。

 

人生は長く、面白いものには終わりはない。

だが…人生は思っているよりも時間がありそうでいて、案外好きに使える時間は無い。気がついたら終わってしまうのも人生である。

 

この歳になると、身近な人の不幸話を聞くことも多い。

元気だったあの人が大病を患って無くなってしまうといったケースもあれば、不慮の事故で偶然亡くなってしまうといったケースもある。

 

そうでなくとも、精神的に自我が消失してしまう事もある。

認知症のようなわかりやすい病気でもって自我の崩壊を迎えるといったケースだけではなく、心が捩じ切れて自我が崩壊してしまっているというケースも残念ながら最近はよく見かけるようになった。

 

人生は胡蝶の夢だ。この空想世界に生きる間、何を身に着けられるかは才能ではなく”やるかやらないか”の覚悟でしか決まらない。

死ぬまでにどんな美しい風景がみられるのか。それを決めるのは、全て自分ひとりが決断できるかどうかだけなのである。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Ali Jouyandeh