仲俣暁生さんのツイートを見て、若者に、カネはなくても時間があった時代のことをふと思い出した。

私の大学時代も概ねそうだったと言え、今日は疲れていると感じたら一日じゅう寝ている日があった。どうしても攻略したいゲームがあるわけでもないのに朝から晩までゲーセンにいて、所在なく、「ひまつぶしのために」ぼんやりパズルゲームを遊んでいた日もあった。

 

無限に時間があったわけではないが、なんにでも使える時間、余剰になってしまった時間がかなりあったと記憶している。

それから四半世紀ほどの時間が経った。

 

今はどうだ? 我が身を振り返る。

五十代が見えてきた現在の私に、疲れているからと一日じゅう寝て構わない日、「ひまつぶしのために」ぼんやりゲームを遊んでいられる日は無い。

 

本業があり、原稿があり、資料があり、家のことがある。

旅行やゲームにしてもキツキツだ。観たいものを観てプレイしたいゲームをプレイしているうちに、時間がなくなっていく。ソーシャルゲームなどは、露骨に可処分時間を要求してくる。

 

さもなくばカネをだ。実際には可処分時間とカネの双方を抜け目なく要求するのがソーシャルゲーム……というよりいまどきのゲーム全般なのだろう。

 

そうして、気が付けば余暇や娯楽の領域ですら、所在なく遊ぶ、ゆったりと遊ぶ、正真正銘に「遊ぶ」ということがわからなくなってしまった。余暇や娯楽も、ほとんど仕事のようにスケジュール化している。

 

中年の御託なんてどうでもいいんだ、若者はどうなんだ、と当然あなたは思うだろうし、私も思う。

 

では、若者のモデルとして自分の子どもを眺めてみよう。

 

……忙しそうである。十代にして動画を倍速で視聴している。

私の頃より学校等のスケジュールもタイトで、にもかかわらずそれを所与のものとして受け取っている。

 

私の頃と比べてゲームも勉強もその他の活動も圧倒的に選択肢がある一方、それらの選択肢がわれもわれもと子どもの可処分時間を奪い合っているかのようだ。

子どもは、そうした状況と自然に付き合うすべを身に付けているようにみえる。

 

年下の人たちの活動を見聞しても、キリキリ、いや、キビキビしているなとみえる

。細かいことまではわからないが、大学のカリキュラムなども変わり、たとえば授業に出ないで出席を誰かにお願いしてサボるみたいな習慣は廃れ、禁じられてもいると聞く。

 

総合するに、若者の時間的余裕は昔より厳しくなっているのだろうなと思う。トライアンドエラーしていられる猶予期間は、たぶん私たちが若かった頃よりもずっと少ない。

 

思春期モラトリアムという言葉が広まったのは20世紀中頃の古き良きアメリカだったが、当時のアメリカと比較しても、20世紀末の日本と比較しても、思春期のモラトリアム期間、時間に余裕のある若者の試行錯誤の余地は少なくなっただろう。

 

ポスト・モラトリアム時代について理解が足りてなかったと思う

「思春期モラトリアムが終わった」といった時、ちょっと前までの私は、格差拡大や流動性の高い社会環境が旧来の思春期モラトリアムを難しくしてしまった、と理解していた。

 

20世紀後半の若者の精神性を詳らかにした名著『モラトリアム人間の時代』を受けてつくられた『ポスト・モラトリアム時代の若者たち』を読んでもなお、私はそのように考え、格差社会では猶予期間も、その猶予期間を生かして人生の進路をゆったり選択する余地もなくなっているよね、みたいに考えていたわけだ。

 

その理解が大きく間違っていたとまでは思わない。若者が豊かで、モラトリアム期間をとおして進路やライフスタイルが取捨選択できる状況は確かに衰退した。

 

その衰退の背景に”一億総中流”という幻想の終わりと、それに伴う進路の”身分化”、というより”階層化”があらわになってしまった部分もあるだろう。

ごく単純に、家計全般が20世紀末に比べて厳しくなってしまったというのもある。

 

でも今は、それらだけではないとも思う。

若者時代の時間的余裕や手持ち時間がリソースとして認識されるようになり、開発されるようになり、取引の対象、資源としての利用の対象、換金の対象になってしまった。

 

「若者時代の時間的余裕」なるものが資本主義の外部から資本主義の内部へ移動した、と言い換えてもいいかもしれない。

かつて、飲料水やお弁当がそうなったように。かつて、恋愛や就活がそうなったように。

 

『若者殺しの時代』は、ちょうど思春期モラトリアムの盛期から退潮期にあたる20世紀末に、私たちの生活が変わっていったさまを活写した本だ。

 

資本主義に組み込まれたのはクリスマスやバレンタインデーだけではない。かつては無料だった昼食のお茶や飲料水が、コンビニの登場によってお金で買えるようになったと同時に資本主義のターゲットになった。

 

『若者殺しの時代』に進行していったのは、それまで資本主義がターゲットにしていなかったさまざまなものが資本主義に舗装され、商品化し、取引の対象になっていったプロセスだったとも言える。

 

その後の経済発展の少なくない部分も、こうした、「資本主義のターゲットになっていなかったものの資本主義化」で占められていたように思う。

 

そうして就活も婚活も資本主義の差配するところとなっていった。web2.0という幻想もそうかもしれない。

無料のウェブサイト、無料のゲーム攻略wiki、そうしたものも片っ端から有料化され、資本主義に取り込まれていった。

 

で、若者のモラトリアム、ひいては私たちの手持ち時間についてもう一度考えてみよう。

昨今、資本主義にとらえられ資本主義の標的になってきたのは、まさにそうしたモラトリアムや手持ち時間ではなかっただろうか。

 

「可処分時間を奪い合う」という言葉が言われて久しいし、時間が資本主義にとりこまれた歴史はそれよりずっと古い。

フランドル地方で時計が普及してからこのかた、人々は「時は金なり」を受け入れてきた。

そうでなくても、ブルジョワ階級は生産性や効率性を意識する都合上、時間を重要なリソースとして意識していたに違いない。

 

とはいえ、「時は金なり」という意識がブルジョワ階級のものから庶民のものへ、それこそ投資とは最も縁の遠い人たちにまで浸透し、内面化されたのはやはり最近ではないかと思う。

 

タイパという俗語に象徴されるように、費用対効果の換算対象として時間を意識する度合いは20世紀よりも現在のほうが強い。

タイパを意識させられるからこそ、動画を二倍速で観るような習俗が幅をきかせたりもする。

 

かつて、奪うべき可処分時間といったら、第一にお金を持っている人達のそれが標的だったように思う。

お金を持っている人達の可処分時間を奪ってモノやサービスを売る──広告は、そういう筋道で人々の可処分時間を(あるいは可処分アテンションを)奪い合ってきた。

 

でも、ネットがある程度発展してからは、お金を持っていない人達の可処分時間も標的になっているよう思う。

若者の可処分時間など、今では格好の標的だ。そうした、お金の乏しい人の可処分時間に値札がつけられているさまを直感的にわからせてくれるのは、ソーシャルゲームの無課金~微課金プレイだ。

 

ソーシャルゲームは基本無料を謳っているが、時間をかけず・楽しく・気持ち良く遊ぶなら課金したほうが遊びやすい。

しかし無課金~微課金のプレイヤーも時間と労力さえかければかなりのところまで遊べるようになっている。ソーシャルゲームでは、課金で贖うべきものを時間や労力で贖うことが(少なくともある程度までは)できる。

 

こうしたソーシャルゲームのつくりは二つの事態を意味している。

ひとつは、ソーシャルゲームのプレイヤーにとって、実際に「時間は金なり」であるということだ。

時間はお金(ジュエル)で買うことができ、逆に言うとお金(ジュエル)を時間で買うこともできる。

 

細かい話をすればそうでもないのだが、大筋としては、時間とジュエルの換金関係がソーシャルゲームでははっきりしている。

可処分所得をケチりたい人は可処分時間を多く支払えばお金を補える。可処分所得の多い人だけでなく、可処分時間の多い人もゲームの土俵に立つことができ、顧客として取り扱えるようにできている。

 

もうひとつは、可処分所得を多く費やしてくれる高額課金者が楽しみやすいゲーム状況をつくりだすために、無課金~微課金のプレイヤーとその可処分時間が必要とされ、実際、吸い上げられているということだ。

 

無課金~微課金のプレイヤーの大半は、そうは言っても高額課金者と対等には戦えない。

しかし無課金~微課金プレイヤーたちはソーシャルゲームを賑やかにするその他大勢として、ランキング上位を占める高額課金者をランキング下位で支える「養分」として、間接的に売り上げに貢献できる。

 

SNS等をとおしてゲームについて情報を拡散するのも「養分」の役割だ。

ダイレクトに売上に貢献する度合いは微々たるものかもしれないが、数のうえでも、高額課金者が楽しみやすいゲーム状況をつくりだすうえでも、無課金~微課金のプレイヤーの可処分時間は必要だ。

 

高額課金者という金のニワトリを集め、金の卵をうませ続けるためには、そのような状況をつくりだすための「養分」が必要で、それは、カネはなくても時間のある人々の可処分時間によって成り立っている。

 

こうしたことはソーシャルゲームにおいて顕著だが、別にソーシャルゲームに限ったことではない。

いまや、あらゆる娯楽、あらゆる産業においてカネはなくても時間のある人々の可処分時間は「養分」として取引の対象たりえる。あるいは争奪の対象ともなっている。

 

ソーシャルゲームのジュエルが最もわかりやすいが、可処分時間は(本来は金銭を支払って手に入れるような)サービスとの物々交換に供されがちだ。「無料より高いものはない」と言われたあらゆるゲーム・サービス・検索、等々にこの図式がみてとれる。

 

狭義のカネに相当しないさまざまなものまで企業は吸い上げ、狭義の金銭をもうけるための「養分」や「肥やし」として利用している。

 

こうした可処分時間の買い叩きは、いったいいつ頃からあったのだろう? 

その起源は今すぐ確かめられないし、どうせ賢いブルジョワが昔からやっていたのだろうけれど、近年ますますそのメソッドが洗練されてきて、いまや、若者の可処分時間はどんどん買いたたかれ、(本命である)狭義の金銭をもうけるための「養分」や「肥やし」として利用されている。

 

そういう意味では、カネのない人間の可処分時間も立派な資本材であり、争奪の対象であり、プロダクツを生産するための原料だと言える。

 

江戸時代に肥料として利用されるようになった干鰯と同様、それ自体はたいした値打ちがないが、作物を実らせる「養分」としては無視できない。

だから若者の可処分時間もどんどん刈り取られるし、たとえばソーシャルゲームのジュエルと引き換えに企業に買い叩かれ、吸い取られていく。 

 

思春期モラトリアムの困難とは、資本主義の徹底でもなかったか

こうした状況を踏まえたうえで思春期モラトリアムの困難について考えてみよう。

格差の拡大や”身分”や”階層”の固定化が思春期モラトリアムを困難にしていること、それ自体はおそらく間違ってはいない。

 

だが、それだけではなかった。今、若者の時間は(いや若者だけでなくあらゆる世代の時間もだが)貴重で、可処分所得の乏しい者の可処分時間でも、さまざまな換金作物を実らせる「養分」として吸い上げる価値がある。

 

私たちの世代の頃は、ぼんやりと天井を見上げて過ごしていた時間、所在なげに盛り場で群れ集っていた時間が、資本主義を高速回転させて生産性を向上させるための「養分」として是非とも必要とされているのだ。

 

若者の時間は、若者の成長に是非とも必要だし、そこには「遊び」があってしかるべきだったわけだが、高速回転する資本主義、あらゆるものを生産性向上に資するようつとめる資本主義は、そうした猶予の時間、「遊び」の時間をも生産性向上のための「養分」としてあてにするようになった。

 

あてにするようになったぶん、資本主義はよりよく回転するようになり、さまざまなビジネスは、さぞ、色艶を増したことだろう。

 

そのかわり、若者の可処分時間はどんどん買い叩かれている。

かつての干鰯のように。あるいは南太平洋諸島のグアノのように。そして乱獲されている。

 

若者の可処分時間が、いや私たちの可処分時間がこのように買いたたかれ、乱獲されている現状の行き着く先はどこだろう? 

思春期モラトリアムの困難という現象の背後にも、私は、加速する資本主義とさまざまなものの換金化やビジネス化をみてしまう。

 

こうした私の見立ては間違いだろうか? 間違いかもしれない。

 

だが、これだけは間違いないと思うからもう一度繰り返しておきたい。

私たちの可処分時間は買いたたかれている。そして乱獲されている。

 

それは個人的なイシューであるだけでなく、社会的なイシューでもあるはずだ。

そして資本主義自身が考えてもいないような副作用、弊害を生み出すに違いないと思う。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Glenn Carstens-Peters