先月、永らく絶版だった”子育ての大誤解”がようやく再販された。
この本は作家・橘玲氏が生涯で最も影響を受けた本として推薦している本であり、僕も以前に読んで随分とインパクトを受けたのを覚えている。
この本の主張を端的にいうと「子育てにおいて、親が子供に与えられる影響はほとんどない」というものだ。
従来の教育心理学は、親の愛情を非常に重視していた
「親が愛情をかければ良い子が育ち、育て方を間違えれば子どもは道を踏み外す」
これが幼少時教育のマントラであった。この金字塔ともいえる主張に「愛情をかけた子育てなんて無意味」と真っ向から異を唱えた”子育ての大誤解”は発売当初からアメリカでかなりのセンセーショナルを引き起こし、非常に多くの議論を巻き起こした。
さて実際問題、本当に子育ては本当に無意味なのだろうか?私たちは、子供が産まれても、放置しても何も問題はないのだろうか?
実はこの本をキチンと読めばわかるけど、著者の主張の真意はそんな簡単なものではない。というわけで今回は、幼少時教育や児童発達心理学等を絡めて子供の発育について書いていくことにする。
子供は何を参考にして育つのか
子供には生まれつきの才能や気質、適性というものがある。ある人はのび太のような性格をしていたり、ある人はジャイアンのような性格を持っていたりする。
あなたも十分承知だろうが、自分の性格は自分では選べない。ひょうきん者でありたくても、本性が根暗ならやっぱり根暗にしかなれない。
キャラクターは選べない。まあある程度コントロールするのは不可能ではないけど、人の本性は産まれたときから変わらない。この事に異論がある人はいないだろう。
子供は集団に属すると、仲間内でつるむようになる。入る仲間の選択は”なんとなく”気が合うといった風に無意識によって行われる。
当たり前だけど、僕もあなたも気質が合わない人とはあまり友達にはなれない。これもそう異論はないだろう。
こうして子供の中で社会が形成される。こうして形成された社会において、最も大切なのは子供内でのルールだ。子供はこのルールの中で社会性を育んでいき、そして精神を成長させていく。
仮に親が子供に対して「あんな人達とつるまないで、別の子と遊べ」と言ったって、子供はそんな事は基本的には聞き入れないし、「お前の行動は間違っている。そんな事はやめろ」と言ったって、それが子供内でのルールとして受け入れられている行動だとしたら、たぶんやめない。
この大人の意見は”大人からみれば”、恐らく正しい。それなりの人生経験に裏打ちされた、それなりに客観的な意見である事は間違いない。
けど子供からみれば、その意見は正しくない。”子供社会でのルール”は、大人の知恵なんかより遥かに強力だ。大人からみればどんなにその選択が非合理であり、馬鹿げたものであったとしても、子供をそれに付き従わせるのは非常に困難だ。
これが”子育ての大誤解”が言うところの「子育てにおいて、親が子供に与えられる影響はほとんどない。親が愛情をかければ良い子が育ち、育て方を間違えれば子どもは道を踏み外すだなんてのは、真っ赤な嘘だ」という言葉の真実だ。
つまるところ、子供はどんなに愛情をかけて親が教育しようが、子供の社会でしか社会性を育まないのである。
親にできる事は環境のコントロール
じゃあ本当に親は何もできないのだろうか?事はそう単純ではない。
与えられた環境下において、子供が誰と友達になり、どんな文化を身につけるのかという事については確かに親には選択肢がない。先程もみていったとおりこれは事実である。じゃあそもそも子供を置く環境が根本から異なっていたとしたらどうだろうか?
アメリカとイスラエル、ロシア、イタリア、日本、で置かれた子供は、当然ながら置かれた国によって学ぶ文化は異なるだろう。
アメリカで育った子供はアメリカ人になるし、日本で育てられた子供は、日本人になる。
もっといえば、治安が荒れた環境で育てられた子供はギャングのような子供に育つ可能性が高いだろうし、農村で育てられた子供は農家の子供として育つ可能性が高いだろう。
こうしてみればわかるけど、実は初めのスタート段階をどこで始めるのかについては、親は子供に影響を与える事ができるのである。これが昨今、幼少時教育がもてはやされる本当の理由だ。
世界中のハイスペがスイスのボーディングスクールに自分の子供を押し込むのは、つまるところそれが”親が出来る、子供に影響力を与える最善の方策”だからにすぎない。
繰り返しになるが、もちろん親には、子供がどこのグループに所属するだとか、子供がどんな文化を学ぶのかという事は決められない。けど初期環境だけは決められる。スラムに子供を置けばスラムの文化を学ぶし、貴族の中に混ぜれば貴族の文化を学ぶだろう。
孟母三遷の教えという故事成語があるが、あれは完全に正しい。親は子供の育つ場所は選べる。けど子供がそこでどう育つのかについては全く関与する事ができない。
孟子の母は、はじめ墓場のそばに住んでいたが、孟子が葬式のまねばかりしているので、市場近くに転居した。
ところが今度は孟子が商人の駆け引きをまねるので、学校のそばに転居した。すると礼儀作法をまねるようになったので、これこそ教育に最適の場所だとして定住したという故事。
教育には環境が大切であるという教え。また、教育熱心な母親のたとえ。三遷の教え。
これこそが子育ての大誤解が「子育てに愛情は関係はない」の意味するところであり、つまるところ親が愛情を持って育てようが育てまいが、子供は置かれた環境以上の事は学べないのだ。
子離れできない大人達
ここまで書いて、こういう違和感を持った人もいたかもしれない。
「自分の身の回りに教育ママに厳しく躾けられ、コントロールされていた子供もいる。こういう風に、親が子供に影響力を及ぼすことも可能なんじゃないだろうか」
事実、このような形で子供をコントロールするのは不可能ではない。けどこれは大体の場合において、親と子供、お互いとって不幸な顛末を辿る事が多い。
先程も書いたが、子供は社会性を子供社会の中において学んでいく。これは子供の精神発達過程において非常に重要な事なのは言うまでもないだろう。
これを逆手にとれば、親は子供に影響力を行使することは不可能ではない。つまり子供を子供社会から隔絶し、家庭に縛り付ければよいのだ。
こうすれば、子供は親に強烈に支配されざるをえなくなる。しかしこれは子供にとっては不幸以外のなにものでもない。
適切に社会性を学ぶ事を奪われた子供は、親に操り人形のような形で自我をコントロールされる。
だけど当然ながら、自我が無くなったわけではない。こうして”親の言うことをきく良い子”として育った子供は、あるとき押さえつけられてた自我が急激に暴走しはじめ、そして心を病む。
時々テレビなんかで「あんなに良い子が・・・」といわれていたタイプの子供が凶悪犯罪を犯したりする事があるが、あの手の犯罪はこの種の束縛系教育を受けた子供によるものである事が非常に多い。
自分の自我を押し殺す事は出来ない。人は、他人から押し付けられたニセモノの自分を演じ続ける事なんてできないのだ。
自我は社会の中で適切に切磋琢磨し、徐々にそれを受け入れていくことでしか身につけることができない性質を有している。
子供が大人の言うことを聞かずに、子供社会のルールにそって生きているのは、子供が馬鹿で大人のいう事を理解できないからではない。それしか自我を適切に育てる方法なんてないのだ。
親が子供が心配だからこそ色々いいたくなってしまう。僕もその気持は痛いほどよくわかるし、それが愛情から来るものだというのも嫌というほどわかる。
けど子供は親の所有物ではない。子供の人生は子供のものだ。ある程度の段階で、ちゃんと信頼して子供に人生の選択権を与えてあげないのは、子供が可哀想だ。
親の子離れも、大切な大人としての責務なのである。
メンヘラといわれている人達について
最後にメンヘラといわれている人達について簡単に話そう。完全に重なるとはいい難い部分があるのだけど、いわゆる一般社会においてメンヘラといわれている人達は、医学用語でいうところの境界性人格障害の気質を持っている人達が非常に多い。
境界性人格障害の人達は一言で言うと困った人達だ。
彼・彼女らは周囲を凄い勢いで振り回す。小学校の頃にいた、問題児がそのまま大人になったようなのを思い浮かべてもらうと、なんとなくわかるかもしれない。
境界性人格障害の多くは自分の自我と適切に向き合えなかった事を成因とする。
自我は自分自身についてキチンと向き合う事でしか育たない。
ある種の子供は、自我の発育をするのが非常に難しい環境下に置かれる事がある。
ある人は学校がムチャクチャに荒れてて生き残るだけでも大変だった事もあれば、ある人は家庭がムチャクチャで親に振り回され続けて自分を省みる機会がなかったという人もいる
この種の周りの都合で生きる事を優先されたこの種の人達は、周りからみると”言うことをよく聞く良い子”であったりする事が多い。
けどそんなムチャはいつか破綻する。そうして爆発した自我の目覚めを適切にコントロールできなくなってしまった結果、いわゆる困ったちゃんとして爆誕を遂げたりする。これがいわゆるメンヘラの製造行程だ。
この人達の共通点として、人間関係の形成方法が普通の人と比較して変だというのがあげられる。
僕も何度か経験したのだけど、この手の人達は急に距離をつめてきて人の心を上手に捉えたかと思いきや、突然なんの前触れもなく怒り始めて、急速にこちらを突き放していったりする。
普通の人のように、ゆっくりと仲良くなるという工程をこの手の人達は採用しないのだ。
精神科医である岡田尊司氏によると、境界性人格障害の人達の行動の特徴として、この手の全か無か思考があるという。
この手の人達には曖昧さというものが皆無であり、全部オッケーか全部ダメかの2つに1つという両極端な思想に行きがちだ。
しかし世の中はそう単純ではない。曖昧さというものを許容できるようにならないと、人は上手く生きていけない。
例えばお金は確かに悪い側面があるもの事実だけど、良い面も沢山ある。そういう清濁併せ呑むような価値観を持っていけないと、この世というのは実に息苦しい。
実はこれは普通に安定した環境下で社会性を学ぶことさえできれば、子供の頃に学べるものがほとんどだ。
あなたも子供の頃、人のモノをとったり、ズルをしたりするどうしようもないようなクラスメートが人が1人ぐらいいたんじゃないだろうか。
彼らは確かにどうしようもない事をしていたかもしれない。では彼らは完全な悪だっただろうか?積極的には関わり合いになりたくない存在であった事は事実かもしれないけど、完全に生存権を許せないぐらいに悪い奴でもないというのが、普通の人の一応の落とし所だろう。
このような、ちょっと駄目な人を”そういう人”として認識するのは書物では学べない貴重な体験だ。
世の中は完全な善や悪では構成されない。「いろいろ駄目なところもあるけど、まあ総体として考えるとこんなもんだよね」という中庸さを学ぶのに、子供の社会は最高によい環境なのだ。
この世には、完全に良いものも無ければ、完全に悪いものもないのである。
酸いも甘いも噛み分けるというか、そういうものを子供のうちに肌感覚で理解できるのは後々になって凄くためになる。
なお境界性人格障害となってしまった方が、もう完全に駄目かというとそんな事はない。彼・彼女らも、適切な環境下で治療をうけることで曖昧さを引き受ける事ができるようになる。
岡田尊司氏は境界性人格障害の人達の治療法として、内観という手法により、自分の心を様々な側面から分析していく手法を推奨されているが、実体験からもこれは非常に合理性のある治療法だ。
まとめると、子供というのは何が育つかわからない不明な種みたいなものなのである。親が日当たりがよくて、嵐の少ないといったよい環境を選ぶ事はできるけど、そこで何が育つのかについては関与ができない。
ある子供はバナナのように陽気になるかもしれない。またある人は薔薇のように孤高な存在になるかもしれない。
けどバナナは薔薇になれないし、薔薇もバナナになれない。無理矢理バナナを薔薇にしようとしても、ぶっ壊れてしまうのが関の山だ。
良い環境を提供することまでは全力を尽くしてもよいかもしれないけど、そこから先は子供に自主権を与えてあげようではありませんか。
子供の人生はあなたのものではなく、子供のものなのだから。
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(Photo:Etienne)