今日、科学技術と経済のグローバル化により、「貧困」は激減した。

ウソではない。

世界銀行によれば、二〇〇五年からの3年間で、サハラ以南のアフリカからラテンアメリカ、アジア、東ヨーロッパにかけて貧困者の割合が急激に下がっていることがわかる。

また、貧困諸国の急激な経済成長と、その結果生じる貧困の減少は、「グローバル中間層」の増加も後押ししている。世界銀行によれば、二〇〇六年以降、二八カ国のかつての「低所得国」が、いわゆる「中所得国」の仲間入りを果たした。

喜ばしいことだ。人類の悲願である「貧困撲滅」が現実になりつつあるのだ。

 

だが、我々の感覚と上の話は一致しない。あいも変わらず「貧困」は話題となっている。

それは、世界銀行の言う「貧困」と、我々が思う「貧困」が異なるからだ。

 

我々が今問題にしている貧困は「相対的貧困」つまり、格差に由来する問題である。「飢餓」や「死」と関連する、絶対的な貧困ではない。

隣の人と自分の比較によって幸福にも不幸にもなる生き物が、人間なのだ。

 

「金を持っていない私」と「金持ちの彼」

「ブラック企業の私」と「一流企業の彼」

「パートナーのいない私」と「配偶者を手にした彼」

 

つまり、実は問題は「貧困」ではない。問題なのは「成功」と「敗北」だ。

 

現代はあらゆる人間が成功者たることを期待される

ドラッカーは「現代は、あらゆる人間が成功者たることを期待される」と述べる。

知識社会は、上方への移動に制限がないという初めての社会である。

知識は、相続も遺贈もできないところが他の生産手段と異なる。あらゆる者が自力で獲得しなければならない。誰もが無知の状態からスタートする。

 

知識は、教えることができなければならない。すなわち、公共のものである。誰でもアクセスできる。あるいはただちにアクセスできるようになる。

この事実が知識社会に高度の流動性をもたらす。

今日では、誰でも学校で知識を身につけられる。徒弟として親方に仕える必要はない。(中略)

 

知識社会では、この上方への移動が、かつてのアメリカよりもさらに前向きに捉えられる。

上方への移動に対する阻害要因はすべて差別としてしりぞけられる。

このことは、あらゆる人間が成功者たることを期待されるということを意味する。

 

かつての世代にとっては信じられない考えである。もちろん、際立った成功をする者はわずかである。

しかしネクスト・ソサエティにおいては、ある程度の成功はあらゆる人間に期待される。

現代は「飢えて死ぬ」という危険は極めて少ない。

だが皮肉なことに、貧困が解決されればされるほど「敗北」はさらに深刻だ。

 

「大学すら入れないの?」といわれ、

「なんで努力できないの?」といわれ、

「全くお前は無能だな」と、世の中から言われ続ける(ように感じる)。

 

そう考えれば「成功できない」ことは、「飢えて死ぬ」のと同程度に人に不幸をもたらす可能性がある。

知識社会に特有の上方への移動は高い代償をともなう。それは競争にともなう心理的な圧力と精神的なストレスである。敗者がいるからこそ勝者がいる。

昔の社会はそうではなかった。無産者の子は、無産者であっても敗者ではなかった。

 

「誰もが成功する世の中」をつくることはできるか

では、「誰もが成功する世の中」を作ることはできるのだろうか。

 

残念ながら、今のところその問いに対する答えは「No」である。

なぜなら、「成功」とは「自分の事を羨ましいと思う誰か」を必要とするからだ。

これについては、内田樹氏の洞察が本質をついている。

成功について

「成功」というのは、上で述べたように「他人の判断」ですので、他者に依存しています。

極端な例を挙げれば、人類が死滅して、世界最後のひとりになった人間が「私は幸福だ」という自己評価を下すことは(蓋然性は低いですが)不可能ではありません。

けれども、その人が「私は成功者である」と自己評価することはありえません。

というのは、ここには「あなたは成功者である」と評価する他者が存在しないからです。

 

成功というのは、「できることなら、あなたと立場を代わりたい」という、「成功していない人間」の欠落感や、羨望を(仮説的にではあれ)勘定に入れない限り成立しない、ということです。

「成功者クラブ」があって、そこでは全員がおたがいを「成功者」として認めあっている場合でも、「クラブ」のそとに「われわれを羨んでいる人々がいる」ということをメンバーたちが前提していなければ、それは「成功者クラブ」とは呼ばれません。

 

ですから「全人類が幸福になる」ということはありえますが、「全人類が成功する」ということは成り立たないと思います。

つまり、原理的に「全員が成功する(勝者となる)」は不可能だ。

それだけではない。

ただでさえ希少な「成功」は、非常に多くのリソースを要求する。

「才能」「環境」「運」だ。

 

例えば知能や行動特性は、遺伝による「才能」により大きく左右される。

「やり抜く力」や「才能」など、人生の成功に関わる心理学的な特徴は、遺伝子と経験の影響を受ける。

また、環境も成功に大きな影響を与える。

知識を得るためには良い学校、企業に入る必要があるが、良い学校や企業に入るためには「良い家庭環境」に恵まれた人物が圧倒的に有利だ。

低学力層の子どもの保護者は、「ほとんど毎日、子どもに『勉強しなさい』という」「テレビのワイドショーやバラエティ番組を見る」「携帯電話でゲームをする」「カラオケに行く」などの割合が高くなっています。

(ベネッセ教育情報サイト http://benesse.jp/kyouiku/200909/20090907-2.html)

まず、父母ともに「勉強するように言う」のはあまり効果がありません。むしろ、母親が娘に対して「勉強するように言う」のは逆効果になっています。

「勉強するように言う」のは親としても簡単なのですが、この声かけの効果は低く、ときには逆効果になります。

エネルギーの無駄遣いなので、やめたほうがよいでしょう。

逆に、「勉強を見ている」または「勉強する時間を決めて守らせている」という、親が自分の時間を何らかの形で犠牲にせざるを得ないような手間暇のかかるかかわりというのは、かなり効果が高いことも明らかになりました。

子供に本を読み聞かせ、勉強したか確認をしている親がいる家庭のもとで生まれた子供と、テレビのワイドショーばかり見て「勉強しなさい」とだけ言う親のもとで生まれた子には学力に差がつく。

 

「交友関係」も成功のためには吟味しなければならない。

例えば、「だれと付き合うか」は、子供の人生を決定する上で最も大きな影響を与えることの一つだと、心理学者のジュディ・リッチ・ハリスは述べる。

私なら、子どもが拒絶される危険を冒してでも、自分の知りうる最高の学校、頭のよい、勤勉な生徒のいる学校に子どもを入学させるだろう。

本を読み、A評価をもらってもそれをからかう人など誰もいない学校だ。

現代社会で成功したいなら、無学な親のもとで生まれることは、非常に不利な状況に置かれるとデータが証明している。

 

もちろん、成功のためには「運」も必要だ。

経済学者のロバート・H・フランクは実験を行い、成功のためには「強運」が必須の条件であると示唆した。

巨額の賞金が用意され、大勢の競争者が集まれば、きわめて有能で勤勉な者が勝者になるのはまず間違いない。

しかし次章で見るように、競争者をくらべてみると、勝者がだれよりも有能で勤勉であることはあまりないのだ。

また、運の果たす役割がごくわずかな競争においても、ほぼ必ず、最も幸運な者が勝者となる。

結局、小さな偶然のできごとが経済的報酬に大きな差を生み出すことが、かつてないほど増えているのである。

成功は、「才能」「環境」「運」に恵まれた、ごくわずかの人々のものである。

 

「誰もが成功できるように見える」からこそ、現代社会は苦しい。

今の社会は「だれでも成功できる」という幻想を教育制度を通じで普及させた。

近代社会は、親の職業を継がなくてよい社会、結婚も自由にできる社会である。また、自由主義、資本主義社会は、企業社会でもある。

能力さえ発揮すれば、企業の中で地位を上げ高収入を稼ぐことができるし、自分で企業を興すこともできる。実力(才能プラス努力)によって、生活水準を上昇させ、格差をつけたり、今まで存在した格差を解消することが可能になる。

機会が均等でありさえすれば、誰でも企業家として成功でき、雇用者も実力で出世できるという社会が近代社会だとすると、建前上は、生活水準の格差は、実力の反映であるという解釈ができあがる。

そして、近代社会の格差の正当性は、この点、つまり、生活の格差は、実力の差であるから「納得するべきである」というイデオロギー(これをメリトクラシーという)に依存している。

今の成功者は「成功したのは自分の能力と努力の賜物だ」と言うかもしれない。

 

だが、殆どのデータはそれが単なる「後知恵バイアス」であることを事を示している。

もしかしたら本当に努力と才能の賜物だったのかもしれないが、単に運が良かっただけなのかもしれないのだ。

 

例えばプロスポーツ、受験などは、同年齢の中で「早く生まれた子」が圧倒的に有利である。

早く生まれた子は、最大で12ヶ月、同年齢の子供に比べてアドバンテージがある。その結果、良いチームに所属できたり、良い学校に進むことができたりすれば、その後はあたえられた環境が更に彼らの間の格差を拡大する。

こどもは「いつ生まれるか」を選べない。これを運と言わずして、なんと言えばよいのか。

 

現代社会では「誰もが成功できるように見える」が、実際には成功の可否は実力よりも運に依る部分が遥かに大きい。

これはデータが証明する事実である。

 

*****

 

コンサルタント時代、私が訪れた企業の経営者の中に、このように言う方がいた。

「優秀な人だけを集めれば、会社は楽に運営できます。でも、それは世の中に「タダ乗り」しているだけであって、経営をしているわけではない。」

「なぜですか?」

「優秀な人だけが恩恵を得られる、というのはものすごく不公平なことだからですよ。」

「……どういうことでしょう?」

「若い人にはわからないかもしれませんね。でも私のように年をとると、「私がそれなりに成功できたのは、運が良かっただけだ」と痛感するんです。私にはそれを世の中に還元する義務があるんじゃないのか、って思うようになるんですよ。」

「では、どうすべきでしょう。」

「平凡な人が、大きな成果を出せるようにすること。それが経営者の真髄だと思いますね。」

 

 

最近、彼の言っていたことが40歳を超えて、わずかだがようやく理解できるようになってきた、と感じるのだ。

 

 

 

 

【お知らせ】

安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます)

・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント

・すべての最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ

(Photo:catherinedncr