「そこそこ簡単で、それなりの給与と地位が約束される仕事」が消えた世の中では、見えにくい「弱者」が増えている。 -books&apps

彼らは単純な反復作業はできる。マニュアルがあれば、それ通りに仕事をすることもできる。

でも、すこしイレギュラーがあると、途端に仕事が止まる。

「それぐらい考えてやれよ」といっても、彼らには想像の枠外である。

まして、非定型業務、たとえば作戦を考えたり、タスクを分解してスケジューリングをして関係者の調整を図ったり、前例のない事をやったりすることは、到底無理である。

つまり、

「考えてやれ」

「タスクを設定して管理せよ」

「自分で調べならがらやれ」

「改善しながらすすめてくれ」

こういう指示は彼らには、「難しすぎる」のである。

先日、安達裕哉さんがこのようなブログ記事を投稿されているのを見つけた。

真面目に定型業務をこなせる人々が、産業構造の変化によって重宝されなくなり、現代においては就職弱者に甘んじているという趣旨は本当にそのとおりだと思う。

 

さて、一読して私は「この話、どこかで見た事がある気がするなぁ……」と思った。

どうしても思い出したくて蔵書を漁ったところ、精神医学の論文のなかにクロスオーバーする内容のものが見つかったので、紹介がてら、これを書いてみる。

 

社会の変化と自閉スペクトラム症的な性質

・空気を読む。

・応用を利かせる。

・タスクを守るだけでなく、自分でマネジメントする。

・新しい業務に適応する。

現代社会において、こうした能力を期待される職種はとても多い。

丸の内のオフィスで働くサラリーマンや六本木で活躍する企業家といった、”高収入”な人々だけが非定型業務をこなせるよう期待されているわけではない。

 

いまどきは、市役所の窓口職員にも、警察官にも、保育士にもこれらは当然のように期待されているし、土建業や製造業のような、ホワイトカラーから遠そうなイメージの職種でもことはそれほど変わらない。

日本社会は「失われた30年」を経験し、経済的に長く停滞したといわれている。にも関わらず、労働者に期待される能力はどんどん高くなった。

高くなったと言って語弊があるなら、「質的に変化した」と言い換えるべきかもしれない。

サービス業はもちろん、農業や製造業の一部すら含めて、高度な融通性や非定型業務への対処能力が、労働者に期待されるようになってしまった。

 

この影響で、労働者としての足切りラインは相当高くなってしまったように私には感じられる。それなりの給与と地位が約束されている職域のうち、高度な融通性や非定型業務への対処能力を期待されないものが、一体どれぐらいあるだろう?

 

精神医学の専門誌『精神医学』2016年5月号には、『自閉スペクトラム症は現代社会でなぜ析出されるようになったのか』という論文が掲載されていた。

筆者の市橋秀夫Dr.は、明治以来の産業構造の変化のなかで、自閉スペクトラム症(ASD)の人が活躍しやすい職域がだんだん失われていった経緯を以下のように記している。

たとえば1次産業である農・漁業の従事者は激減し、細工職人、植木職人、建具職人、大工、印刷工などの多様な職人や匠は職場のほとんどを失い、給与従事者になってしまった。

工場でさまざまなノウハウを獲得していたベテランも不必要になり、会社を去った。

農・漁業や職人世界はASDの人たちにとって最も棲みやすい職業であった。同じ作業を修練熟達することをよしとされ、たとえ施主が不満を述べても文句をつけても、自分の作業が満足できるものかどうかが優先されるような自己完結型の職業であった。同一性保持の傾向を持つASDの人たちにとって棲みやすい職業であったのである。

ASDの人がASDのまま働き、一人前とみなされる仕事がたくさん存在している社会では、わざわざASDを「障害」とみる必然性は乏しい。それどころか、ASD的な性質が向いている職域では最優秀の労働者とみなされるチャンスがある。

 

だが、自動化やコンピュータ化の進んだ社会では、「職人肌」の労働者より、柔軟で、汎用性の高い労働者が求められるようになる。

高度情報化社会の中にあって、生産部門も含めて、スピードと正確さと情報伝達を要求され、変化と多様性に対する柔軟な対応するスキルが社会人にとって当然の資質として求められる時代になった。

ASDの人たちは「環境のめまぐるしい変化に弱い」、「慣れるのに時間が掛かる」、「一徹に物事に取り組む」、「臨機応変はできないが限局された領域を極めるのに適している」、「大まじめである」、「言葉のやりとりや複雑な人間関係を構築することは難しい」、「記憶力は優れているが応用が利かない」という特質がある。

他方、論理思考は得意であったり、ある人では独創性があったり、資格能力や造形能力、音楽能力が優れている人たちもいて芸術家、研究者、学者、起業家などで社会に成功している人たちもいるが、それは少数である。

かつて彼等を吸収していた職域は消失あるいは減少した。

こうした変化と無縁ではなかろうが、仕事の領域のみならず、プライベートの領域でも柔軟で汎用性のきく性質が万人に期待されるようになった。

たとえば、「頑固親父」のようなつぶしのきかない人物像は、今日の人間関係のなかで好感を持たれにくい。

本来は肯定的な意味だったはずの「真面目」という言葉も、いまでは否定的な文脈で用いられるようになってしまった。

 

市橋先生の見立てに沿って考えるなら、ASD的な性質を持った人が急に増えたというより、「社会の産業構造が変わったことによってASDを障害とみる素地ができあがり、それが今日の発達障害ブームに繋がった」、という読みが成立するように思う。

 

社会の変化と注意欠如多動症的な性質

おそらく、それに近いことが注意欠如多動症(ADHD)にも言えるのだと思う。

長時間椅子に座って学習する。

整然とデスクワークをこなす。

アウトプットを安定させる。

ADHDと相性の悪い職域は、高学歴者が少なくホワイトカラー的な仕事も少なかった時代にはそれほど多くはなかった。

また、平成末期の労働者と比較すると、たとえば昭和時代の労働者の仕事ぶりには”あそび”の部分が少なくなかった。昭和時代の労働者が長時間職場にいたのは事実だとしても、平成末期の労働者のような密度で働き詰めていたわけではない。

この点でも、労働者(や学生)に期待される能力は年を追うごとに高くなっている。

 

労働者や学生は、ますます自分の言動をコントロールし、安定的にタスクに向かわなければならなくなった。控えめに言っても、上に挙げた要素を不問に付してくれる職域が増えているとは考えにくい。

 

文献によれば、1960年代には日本の児童精神科医はADHDの先祖にあたる概念について議論を戦わせはじめていたという。しかし、ADHDが本格的に診断と治療の対象になっていったのは21世紀になってからのことだ。

ASDの場合と同様、「社会の産業構造が変わったことによってADHDを障害とみる素地ができあがった」という読みが成立する余地はあるだろう。

 

昭和時代の労働者に求められていた能力と、2010年代の労働者に求められている能力のギャップを、ASDやADHDといった発達障害概念は、炙り出しているのではないだろうか。

 

「切符を切り続ける駅員」はどこへ行った?

ところで、私が初めて上京したのは1994年だったが、当時の首都圏の駅はまだ完全には自動改札化されておらず、有人改札があちこちに残っていた。

有人改札じたいは田舎者にとって珍しくない。けれども、新宿井の頭線のターミナル改札で見た風景は、地方の有人改札とは完全に別次元だった。

何百何千もの乗客が、怒涛の勢いで改札に吸い込まれていく。田舎ではありえない数の乗客の切符を、駅員たちは改札バサミをカチカチと鳴らしながら待ち受け、神速でさばいていった。目にも止まらない達人芸に、私は「東京って、すげえところだなぁ……」と驚かずにはいられなかった。

 

ほかにも、20世紀には「同じ作業を、物凄い速度と精度でこなすベテラン」があちこちに存在していた。

タイピングや伝票管理、印刷コピーなども、その道をきわめたベテランが速度でも精度でも圧倒し、ひとつの職業にすらなっていた。工場の生産ラインを支えていたのも、定型的な作業を的確にこなす工員たちだった。

これらは、安達さんのおっしゃっていた「定形業務を真面目にこなす」に値打ちのある職域にほかならない。

 

さきほど紹介した市橋Dr.の論にもとづいて考えると、こうした職域に適応しやすかったのは、ASD寄りの人だったと思われる。

定型業務のベテランをたくさん必要とする社会では、ASD的な性質の人がむしろ必要だったし、彼らがそれなりの給与や地位を手に入れることには必然性があった。

 

だが機械化やIT化によって、こうしたASD寄りの人が活躍する職域はどんどん減っていった。また、ADHD的な性質も、この、秩序だって効率化された現代社会では許容されにくくなった。

昭和の日本社会は、平成時代のソレに比べていろいろ非効率で、無駄も多く、ところどころ理不尽だった。

けれども、いや、それゆえにかもしれないが、今日では発達障害と呼ばれそうな人が給与や地位を手に入れる余地はもっと豊富にあったように思う。

 

社会が進歩したのはいい。

だが、それによって活躍できる人間の幅が狭くなり、障害と呼ばれ得る人間の幅が広くなっているとしたら、それを手放しで喜んで良いものだろうか。

冒頭の安達さんの記事の結びには、

残念ながら、「そこそこ簡単で、それなりの給与と地位が約束される仕事」が消えた世の中では、見えにくい「弱者」は増え続ける。

弱者が増え続ければ、鬱屈とした現状は、時に彼らを過激なテロへと駆り立てることだろう。

と書かれているが、まさに精神医学は、ここでいう見えにくい「弱者」に、呼び名を与え、概念を加え、できるかぎりの便益を提供しようとしている。そのこと自体はひとつの福音と言って良かろうし、発達障害概念はもっと前進するだろう。

 

と同時に、私は思わずにいられない。

本当に治療しなければならないのは、個々の「発達障害症例」ではなくて、それなりの給与と地位が約束される仕事が減り続け、高度な柔軟性や折衝能力を当たり前のように労働者に求め、押し付けている、この社会のほうではないのか?

労働者と言う名のプールからASD的な性質の人やADHD的な性質の人を追い出さずにはいられない、世の中全体のほうではないのか?

 

いま、発達障害とみなされる人々に精神医学が手を差し伸べている現状を言い訳として、労働者に対する要求水準をますます吊り上げ、それを正当化するようなことはあってはならない、と私は思う。

少数の、なんでもできるスーパー労働者にしか給与や地位を約束しない社会はどこかおかしい。

おかしい、ということを、もっと声をあげて言っていかなければならないのではないか。

 

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著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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(Photo:Yuya Tamai)