一時期パクツイというものが非常に流行った事がある。
これはバズった他人のツィートをそっくりそのままコピペして投下して、それでRTやいいねを荒稼ぎする手法の一つである。
これをする人の心理については、以前セブ山さんという方が実際にパクツイをしている人に突撃してインタビューを行っており、大変に面白い文章となっているので是非とも読んで頂きたい。
なぜ彼らはパクるのか? パクツイ常習犯が語るTwitterの闇 – ネタりか
―パクツイでも褒められると、うれしいものなんですか?
「もちろん、罪悪感はあります。でも、それより先に”認められた”という気持ちが勝って、”ありがとうございます”と返信してしまいました。オリジナルのツイートでもないのに、認められたと感じるのもおかしな話ですが……」
―どうして”それはパクツイです”と正直に言わなかったんですか?
「そもそも僕のつぶやきはパクツイだらけなので、いつ正直に言おうかとは悩んでいました。悩みはしたんですが、それよりもセブ山さんに会ってみたかったので、正直に話して嫌われてしまうのが怖く、黙っていました……。指摘されなければ、このままずっと黙っていようと思っていました……」
ちなみに僕自身はやっぱりというかパクツイにはあまり良い感情を抱かない。けど同時に、これスゲェ勿体無いなーと思っているのも事実ではある。
具体的にいうと、そのままコピペして転載するんじゃなくて、写経したり意訳して自分の身体をキチンと通過させて投下すれば、絶対にモノにできるのに、勿体無いなーっていう感じだろうか。
というわけで今回はマネする事の大切さについての話をしようかと思う。
マネも突き詰めるとプロになる
確か島田紳助さんだったと思うのだけど、以前彼がトークの技術を磨くために、明石家さんまさんのTVでのトークを、全て文字に書き起こしたという話を読んで大変に感心した事があった。
彼いわく、文字に書き起こす事で、話のテンポや場の空気の読み方などがわかり、その技術の凄さに改めて感心させられたのだという。
さんまさんのあの軽快な会話は聞いてるだけだとスルスルと流れていくだけだけど、キチンと分析するとプロの技術がメチャクチャな密度で凝縮されている事が初めて理解できるのだという。
僕がこの行動に感心したのは、これが「誰にでもできるけど、面倒くさいから絶対にみんなやりたがらない行為」だからだ。
実はプロの技術というのは、みている分にはスルスルと眺められるけど、実際に自分でやろうとするとムチャクチャに難しい。
バレエとかサーカスの空中ブランコのような動きは、みている分には何の取っ掛かりもなく眺められるけど、いざ自分で実際にやってみるとビックリするぐらいできない事を考えてもらえればわかると思う。
バレエのダンスをキレイに踊るためには、メチャクチャな練習が必要だし、サーカスの空中ブランコなんて習得するためにどれだけの執念が必要化なんて説明するまでもないだろう。
けど、何も考えずにみている分にはあれらは本当にスルスル私達の目をキレイに通過していく。
島田紳助さんいわく、明石家さんまさんのトークもまさにそれなのだという。あれは聞いてる分にはスルスル通過するけど、いざ自分でやってみようとすると絶対に誰も真似出来ない。だから凄いというわけだ。
じゃあそれを習得するためにはどうすればいいかというと、それこそバレエやサーカスの人が練習をするように、追随可能な形で一言一句後追いをすればよいとなる。
けどこれは言葉で書くほど簡単な事ではない。
それこそ、現在のように便利な道具がない時代にそれをやり遂げようとすると、テープで録音して、それを何度も何度も再生して、全部文字で書き起こして、それを何度も何度も暗証しないといけない。
この誰もやりたがらない、クソ面倒くさい事をやったからこそ、あの名司会芸がこの世に生まれたわけである。
どんなに真似ても全く同じにはならない
けどここが人間の面白いところなのだけど、明石家さんまさんの芸を真似た島田紳助さんの司会芸は、明石家さんまさんのものとは完全に違うモノとなっている。
真似をしたはずなのが、全く違うものができあがるのだから人間というのは実に面白い。
実はこの事は宗教や武道では守破離という言葉で既に言い表されている。
中国でも十牛図という大変に興味深い逸話で紹介されており、かなり昔から知られていた事例である。
全部そのまま真似して、型を身につけると、そこから自然と自分なりのオリジナリティが発生するのだ。
実はサラリーマン道もこれと全く同じである。
少々古い本だけど、社畜のススメ (新潮新書) という本がある。
どぎついタイトルだけど、そこに書かれている事は非常に真っ当な事だ。以下本の紹介文をそのまま引用しよう。
「社畜」なんて哀れで情けない存在だ―この「常識」は本当なのだろうか?
「自分らしさ」を必要以上に求め、自己啓発書をうのみにすることから生まれるのは、ずっと半人前のままという悲劇だ。
そこから抜け出す最適の手段は、あえて意識的に組織の歯車になることである。
「ワーク・ライフ・バランス」「残業は悪」「転職によるキャリアアップ」等の美辞麗句に踊らされない、現代サラリーマンの正しい戦略を指南する。
これを読んで微妙な感情を抱く人も多いかもしれない。
けどこれは本当に本当に大切な事なのだ。
私達は社会にでると、否が応でも経済的活動にかかわらざるをえなくなる。
堀江貴文さんのような天才的な起業家を除けば、初めから経済的な生産性を遂行できるような人はほとんどいない。
そうして全くの真っ白な個人も、新卒として組織の一員となる事で、数年後には驚くぐらいマトモな社会人へと変貌する。
「ひとりよがりの狭い価値観を捨て、まっさらな頭で仕事と向き合う。」
「自分を過剰評価せず、組織の一員としての自覚を持つ」
この守破離でいうところの、守の段階をしっかりやりとげる事は、社会人へのイニシエーションとして最高の”真似”となる。
俗な言葉でいうと職歴といわれるそれは、何者でもない凡人を、一人の社会人へと変貌させる唯一無二の方法といっても過言ではない。
繰り返しになるけど、これを嫌だと思う人が一定以上いることは僕もよくわかる。
僕自身も、学生時代は働くのが凄く怖かった。よくわからない人に使い潰されたらどうしようという恐怖で怯えない日は1日たりとも無かったと言っても過言ではない。
けど、その恐怖を振り切って一心不乱に働いたからこそ、現在は生産力のある個人として、楽しく社会人をやらせていただいている。
諸先輩方の仕事を私情抜きにそっくりそのまま真似させて頂けたからこそ、今がある。
個性とかオリジナリティの必要性が叫ばれる現代だけど、古典の踏襲なしにはモダンは絶対に生み出せない。
若者よ、躊躇せずに真似しよう。パクりツイッタラーよ、面倒くさがらないでコピペせずに写経しよう。
そうする事で、いつかきっと貴方のもとにもオリジナリティの神様が降臨する。
個性こそが人の才能
よく「人には必ず何らかの才能がある」という言葉があるけれど、あれをみてモヤモヤした事がない人はいないだろう。
「いや、私、何の才能もありませんし」
「少しは才能ありそうな分野も、自分よりすごい人たくさんいるし」
僕も学生時代、この問題に深く頭を悩まされた。
歯車のような誰にでも置換可能な存在になるのは嫌だけど、かといってオリジナリティあふれる才能が自分にあるとはとても思えなかったのだ。
けど今はこの才能が何を意味するかがよくわかる。才能とは、真似を徹底的に突き詰めた後で現れる個性の事なのだ。
その個性は誰にも真似することができない、唯一無二の自分だけの大切なオリジナリティなのである。
それを手にするために、今日も粛々と真似をし続ける事にしましょうや。自己実現って、そういう面倒くさい事の果てにあるものなんですよ。
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