2018年7月に、オウム真理教関連の事件で死刑判決が出ていた元幹部らの死刑が執行されたことを受けて、村上春樹さんが毎日新聞に寄稿された文章を読みました。
「胸の中の鈍いおもり」(毎日新聞)(リンク先は有料記事です)
オウム真理教の元幹部ら13人の死刑が今月執行されたのを受け、作家の村上春樹さん(69)が毎日新聞に文章を寄せた。
1995年の地下鉄サリン事件に衝撃を受けた村上さんは、被害者や遺族へのインタビューを著作にまとめ、裁判の傍聴を重ねるなど、深い関心を寄せ続けてきた。「胸の中の鈍いおもり」と題する寄稿で、刑の執行への複雑な思い、裁判での印象、残された課題について率直につづっている。
村上さんは、『アンダーグラウンド』で、地下鉄サリン事件の被害者やその家族の言葉を記録しています。
『約束された場所で』では、元オウム信者たちに、これまでどんな人生を送っていったのかを聞き取っており、加害側、被害側の両方から、たくさんの「肉声」を聞き、オウム事件の裁判も傍聴してきたのです。
この文章、まさに、それぞれの立場からのオウム事件と、「死刑という刑」の意味について考えたことが書かれているのです。
僕はこれを読んで、結局のところ、人の意見というのは、その人が置かれた立場と無縁ではいられないし、世の中には「本当の客観」なんて存在しないのではないか、と思ったのです。
僕にとって、いちばん印象的だったのは、林泰男被告の裁判での木村烈裁判長の判決文の一部を、村上さんが引用していた、この部分でした。
「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であったと言える。(中略)林被告のために酌むべき事情を最大限に考慮しても、極刑をもって臨むほかない」
「師を誤るほど不幸なことはない」
とはいえ、多くの人生においては、最初の「師」である親は選べないし、保育園や幼稚園、小学校の先生も、自分では選べない(だからこそ、親が「子どもをどこで学ばせるか選ぶ」ことが重要だともいえる)のです。
とはいえ、自分が「師」を選べる立場であっても、「誰を師にするか」を真剣に考えたことが、あっただろうか?
自分自身の人生を振り返ってみると、僕は、そこであまり能動的な選択をしてこなかったな、と認めざるをえません。
なんとなく雰囲気がよさそう、ということや、偏差値が高いから、有名だから、ということで選んでみたり、「自分がこれをやりたい」のだから、自分のやる気さえあれば、誰から習ってもそんなに変わりはないだろう、と思っていたり。
僕は2009年に「内田樹の研究室」に書かれていたこの文章を読んで、「腑に落ちた」んですよ。
「指折り待ってた夏休み」(内田樹の研究室 2009年8月1日)
第二の「メンター(仕事上(または人生)の指導者、助言者)」については、これまで何度も書いた。
メンターというのは逆説的な存在である。
私たちは自分が向かっている目的地がどこであるかを知らない(だから学ぶことを求めているのである)。
にもかかわらず誰が私をそこに導いてくれるかを、旅を始める前の段階で言い当てなければならないのである。
「この人が私の師である」という決断は、さまざまな師の候補者たちを並べて、その能力識見を比較考量して、「この人がよかろう」と選ぶというものではない。
師の能力識見が比較考量できるというなら、それはこれから学ぶことが何であるかを学び始める前にすでに熟知しているということであり、それは「学ぶ」という定義に悖る。
つまり、私たちは師の適格性についていかなる外的な判定基準ももたないままに、自分を目的地に連れて行ってくれる師を言い当てなければならないのである。
「誰についていけばいいのか」
それを教えてくれるいかなる手がかりも与えられないままに決定を下さなければならない。
このとき、私たちの心身の感度は限界を超えて高まる。
それがすでに「学び」なのである。
内田先生は、「師を選ぶこと、誰から学ぶかを決めることが、学ぶことにおいて最も重要であり、それがすべてだと言ってもよい」いうことも、別の文章で仰っています。
林泰男という人は、「師を誤った」ばかりに、もっと世の中の役に立つことに使われていたかもしれない能力で、多くの人々を苦しめてしまったともいえるのです。
僕はときどき、オウムに入信した自分を想像することがあります。
坂本弁護士一家の事件が発覚する前のオウムは、怪しい集団ではあったけれども、「バブルでお金儲けにみんなが浮かれている社会の風潮に染まれない人々の受け皿」のようにもみえていたのです。
僕の知り合いには、失恋を契機にオウムに入信し、その後、行方がわからなくなった、といわれている人もいます。
林泰男という人も、たぶん、救われたい、あるいは、世の中のために良いことをしたい、と思った結果、麻原彰晃を師に選んでしまった。
もし彼が、麻原彰晃より前に、同じくらい魅力的な別の師に出会っていたら、その人生は、まったく違ったものになっていたはずです。
僕たちは、2018年までに積み重ねられた知識で、「あんなものを信じるなんておかしい」と断罪するけれど、初期のオウム真理教をみて、こんな大事件を起こすような教団になると想像した人は、ほとんどいなかったのです。
オウム真理教は、あまりにも極端な例かもしれないけれど、「師を選ぶ」というのは、本当に難しい。
さまざまなジャンルにおいて、「師となる人の真の能力」を評価することができないまま、ある人の弟子になって学ばざるをえないわけです。
「この人だ!』と思って師事したら、パワハラ、セクハラ野郎だったり、実際の研究は部下に丸投げで名声だけを自分のものにしていたり、お金に汚かったり、政治力だけで偉くなっていたり……
みんなが正しく師を選べていたら、世の中に「とんでもない上司」がこんなに大勢いるとは思えない。
内田先生は、「そういう基本的に無理な状況のなかで、師を選ぼうとするときに、弟子の感覚は研ぎ澄まされるのだ」とも仰っています。
たしかに、成功者の多くは、良い(あるいは、自分に合った)師を見つけているんですよね。
それが運だったのか、理性的な判断だったのか、「野生の勘」的なものなのかはわからないのだけれども。
「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?」という村上春樹さんへの質問集のなかで、こんなやりとりがあります。
『約束された場所で』というオウム信者たちへのインタビュー集を読んだ読者からの、「オウム信者の人たちは、この世の中に『忘れられた人々」であり、オウムというのは、彼らにとっての『自分たちだけの入り口』だったのではないか?』と問いに対して、村上さんはこう答えています。
<村上春樹さんの回答>
我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。
どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。
だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。
小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。
あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。
しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。
その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。
たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?
僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。
僕はこの村上春樹さんの言葉が大好きで、ときどき読み返しているのですが、僕自身が「正しく師を選べたか?」については、自信を持てないところもあります。
何より、僕は師から「引き出す」のが下手な弟子ではありました。
ただ、これまでの経験上、多くのジャンル、著者の本を読むというのは(それは、フィクション、ノンフィクションに限らず)、「最悪の選択肢」に引きずられないためには、一定の効果があるのではないか、とも感じるのです。
われわれは、もっと「師を選ぶ」ことの重要性を自覚したほうがいい。
本当に、そう思います。
ただ、麻原彰晃を信じてしまった人たちをみていると、彼らは、真面目で、一途すぎたのではないか、とも感じるんですよね。
もしAI(人工知能)がなんでも教えてくれる時代になったら、AIを「師」とする人間は、どうなっていくのだろう?
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著者:fujipon
読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。
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