かつてシベリアには、「囚人の穴掘り」という拷問が存在したことを知っている人はいるだろうか。
捕らえられた囚人は凍てついた何もない荒野に連れて行かれ、看守から、
「ここに大きな穴を掘れ」
と命令される。
そして穴を掘り進めていると、半日ほど経ってから
「よし、埋めろ」
と言われるので、半日かけて埋め戻す。
さらに翌日、
「よし、もう一度掘れ」
と命令され、また半日が過ぎると
「よし、埋めろ」
と命令される。
この拷問では、こんな日々が延々と続く。
毎日毎日、朝から晩まで同じことの繰り返しだ。
穴を掘る場所や深さも日替わりで、看守のその日の気分でしか無く、合理性は一切ない。
しかし看守に逆らうことなど、もちろんできない。
不平不満を言おうものなら文字通り殺されかねない。
そのため、どうすることもできずにこの無意味な命令に従い続けるのだが、こんな日々が続くとどれほど心身屈強な囚人であっても、時間の問題で心が破壊されるそうだ。
無能な上司の下で、あるいはモティベーションが感じられない会社で日々、仕事をしている人がいるのであれば、この拷問の恐怖がよく分かるのではないだろうか。
人は無意味なこと、無益としか思えないことをやらされ続けたら、簡単に心が壊れる。
仕事ができる社員に見限られたできごと
話は自分のことで恐縮だが、私は本当に堪え性がない。
大学を出て証券会社に就職したのが1996年。
しかし、当時はバブル崩壊後の世相で株価は坂道を転げ落ちるように下がり続けていた頃合いだ。
そのため、お客さんにどんな銘柄を買ってもらっても大損をさせるばかりで、喜ばれることなどほとんどなかった。
それでも、「損をさせる相手を求めて」楽ではない新規営業を繰り返していたが、そんな毎日に意味を見い出せず数年で仕事を変えてしまった。
自分の取り組んでいる仕事に意味を見い出せないこと、価値があると思えないことは、本当に辛かったことをよく覚えている。
そしてその後、縁あってある中堅メーカーのターンアラウンド(事業立て直し)担当の役員に就いた。
同社では最初、近づくことに恐怖を感じるほどに、現場に負の感情が積み上がっていた。
それもそのはずで、従業員は毎日の仕事を誠実にこなしても給料が上がることもなく、働き続けることに希望を見出すことができないのだから当たり前だ。
会社の経営状況が危ないと従業員が肌感覚で感じれば、上司や経営陣に対する敬意は失われる。
働いていることがストレスになれば、当然、顧客に尽くそうという情熱など失われるので仕事のクオリティも下がり、モラルハザードすら発生していた。
そんな中で就いたポジションだったが、何をどうしても目先「給与の一律カット」という最後の最後の手段をどうしても使わざるをえないと判断した。
これがどれほどの悪手であるのかはよくわかっていたが、文字通りキャッシュが枯渇する以上、短期的にはそれ以外に方法がなかった。
その判断は今も、当時を振り返ってやむを得なかったと思っているが、各部門を訪ね「協力のお願い」をした時の空気は忘れようもない。
説明を終えると、皆が一言も発せず力なく立ち上がり、無表情で、黙って持ち場に戻っていった。
そんな中、数日後、ある若い女性社員が
「お話があります。時間を下さい。」
と、声を掛けてきた。
切羽詰まった顔に圧され会議室に場所を変えると、彼女は最初から大粒の涙を流しながら、話し始めた。
「なんで、給料を下げられなければならないのですか?私たち、一生懸命仕事をしています!」
「素直にお詫びする以外に、言葉が浮かびません。」
「現場ではどんどん人が減ってるのに、新しく人も入れてもらえません。ただでさえ一人ひとりの負担は増え続けてるんです。ご存じですか?」
「……」
「残業代もまともにもらってません。仕事は増えてるのに給料は減るって理不尽です!後輩もみんな『辞めたい』って言ってるんです。このままだと仕事が回りません!」
「……申し訳ありません。」
何一つ、まともな回答ができなかった。
彼女の言うことは正論で、しかも耳を傾けなければならない大事な事実ばかりだった。
しかし、今すぐその解決策を提示することもできないので、ただ黙って聞くことしかできなかった。
そして、
「お聞きしたことは、全て経営課題としてお預かりします。」
「数ヶ月以内に、目処をつけます。今は耐えて下さい。」
と、嘘にならない何かを答えることで精一杯だったように思う。
最後に彼女は、
「やりたかった仕事は、こんなことじゃありません……。贅沢は言いません。どうか、やり甲斐のある仕事をさせて下さい。私たちを求めている人たちのために、仕事をさせて下さい。」
と言って、会議室から出ていった。
私自身、
「自分の取り組んでいる仕事に意味を見い出せないこと、価値があると自覚できないことは、本当に辛かった」
と、その状況に辛抱できないから、証券会社を飛び出したのではなかったのか。
にも関わらず、同じことに苦しんでいる社員の心からの叫びにまともに回答できず、何一つ力になることができなかった。
それから半年ほどの後。
現場の奮闘に加え、良いスポンサー企業とのアライアンスが実現したこともあり従業員の給与水準を元に戻すことはできたのだが、結局彼女は会社を去った。
私を含めて、いちばん辛い時に意味のあるメッセージを経営陣が出すことができなかったのだから、当然のことだろう。
いくら給与を戻したところで、魅力のない経営陣の下でいつまでも人生の大事な時間を浪費してくれる社員など、いるはずがない。
なぜ本気で直言してくれた時に、
「私を信じて、もう少しだけ会社に人生を預けて下さい。」
「削減した給与は、倍にしてお返ししてみせます。必ず、将来に希望が持てる会社にしてみせます。」
と、力強く約束し、言い切ることができなかったのか。
彼女だけでなく、全社員に。
彼女が私から引き出したかった言葉は、
「わかりました、じゃあ給与を元に戻します」
という言葉ではなく、
「本当に人生を預けるに値する相手であるのか」
を見極めるための態度であり、言葉であったはずだ。
私の魅力の無さ、曖昧な態度のせいで有能で大事な社員を一人失ってしまったのだ。
世界で132番目に「無能」なのは従業員ではなく、経営者ではないのか
話を冒頭に戻して、「囚人の穴掘り」についてだ。
2017年に米ギャラップが実施した従業員のエンゲージメント(仕事への熱意度)調査によると、日本では「熱意ある社員」はたった6%のみだったそうだ。
これは世界139カ国中、実に132位という散々な数字である。*1
そしてその理由として同調査は、
「(1980~2000年ごろに生まれた)ミレニアル世代が求めていることが全く違うことだ。ミレニアル世代は自分の成長に非常に重きを置いている」
と分析している。
つまり、若手社員は「囚人の穴掘り」のような心境で、毎日毎日、成長が感じられない無意味な、苦行のような思いで仕事に赴いていると言い換えてよいかも知れない。
しかしこの分析には、大いに疑問がある。
問題の本質が、ミレニアル世代の価値観とシニア世代の価値観の相違だとは、とても思えない。
例えば今、日本の企業経営者、とりわけ中小企業の経営者に、
「自分が新卒で自分の会社に就職することを想定した時。その給料と仕事のさせ方で、やりがいを持って働けますか?」
と質問すれば、何人の経営者が「そう思う」と、自信をもって言えるだろう。
あるいは、
「自分が部長としてこの会社に転職することを想定した時。その給料とその仕事の任せ方で、やりがいを持って職務に臨めますか?」
と質問したとすればどうだろう。
問題は、「世代が変わり価値観が変わった」ことなどではなく、「全世代でこんなもん」なのではないだろうか。
それが「世界132位の、従業員のやる気の無さ」である。
つまりこの調査結果は、「従業員が世界132位」などではなく、「日本の経営者の経営能力は、世界132位」と読み替えるべきだということだ。
日本の経営者は、従業員から「囚人の穴掘りの看守」くらいにしか思われていない。
*
ただ、従業員の立場で言えば「全ては経営者のせい」にしても、できることはある。
周囲には、どれだけ上司から鬼詰めされても株を売ることを拒否して、債券しか取り扱わない営業マンもいた。
一般に同僚から嫌がられはするものの、「信用売り建て」という手法で、顧客を儲けさせている営業マンもいた。
そして彼らは、商品別のノルマは消化しないまでも、預かり資産全体で飛び抜けた数字を出していたので、上司からの風当たりはそれほど強くなかった。
何よりも、そんな時勢であるにも関わらず、お客さんから感謝されていた。
結局、私は仕事のやり甲斐などいくらでも作れたはずなのに、単に言い訳して逃げていた。
幸い今の日本では、「囚人の穴掘り」と違い、会社や仕事を辞める自由は相当程度ある。
転職も一般的であり、また、いきなり会社を辞めるリスクを恐れるなら、副業という手段から、別の生き方に活路を求めることもできるはずだ。
もしあらゆる努力をしても、毎日の仕事を
「無意味なこと、無益としか思えないことやらされ続けている」
としか思えないなら、心が壊れる前に会社や経営者を見限ってしまっても、決して恥ずかしいことではない。
看守の拷問に付き合うほど、人生はヒマではないのだ。
*1 日経新聞電子版「「熱意ある社員」6%のみ 日本132位、米ギャラップ調査」
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO16873820W7A520C1TJ1000/
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